第三章「お姉さんと過ごす日常」
13:お姉さんと今朝もイチャイチャ
今夜はひとつにつながるべきじゃない、と僕は考えた。
何しろ、美織さんは昨日の夜、処女喪失したばかりだ。
今朝も話し合ったけど、いきなり二日続けて行為に及ぶのは、良くない気がした。
それで、念のために「一晩ぐらいは様子を見ておくべきだよ」って、勧めたんだ。
もっとも当のお姉さんは、少しがっかりして物足りなさそうだった。
そこまで気を遣わなくても、とっくに大丈夫だと考えていたらしい。
「裕介くんがマンションを出て、一、二時間後には初体験の違和感も治ってたんだよ」
二人で入浴していると、美織さんは湯船の中で寄り添いながら言った。
「だから、すっかり普段通りだし。えっちなことするのに何の支障もないと思うけど」
おそらく、それは嘘じゃなかったんだと思う。
けれど万が一にも、美織さんの身体に負担が掛かる真似はしたくない。
なので大事を取って、やはり無理するのは止しておこうと結論付けた。
「何度も言うけど、僕は美織さんのことを一番大切にしたいんだ」
「……うん。そんなふうに君が考えていてくれて、凄く嬉しいな」
美織さんは、好意的にうなずき、しかし複雑そうな面持ちで返事した。
幸福感と不満感とが、心の中に半々で混在しているような反応だった。
「でもね裕介くん。私は君のこと、いつだって喜ばせたいんだよ」
そのとき枯葉色の瞳は、じっと僕の顔を見据え、熱っぽい視線を送っていた。
お姉さんが何を考えているかについて、咄嗟に理解が及ばず、僕は少し黙り込んだ。
困惑しながら様子を窺っていると、耳元に蠱惑的な声音で、優しく囁き掛けられた。
「ねぇ。二人でひとつにならなくたって――私が君を喜ばせる方法なら、いくつかあるよね?」
浴室を出ると、二人で一糸も纏わぬまま、同じベッドに入った。
美織さんは、僕の身体に綺麗な指で触れ、健気に昂りを引き出そうとしてくれた。
ぎこちない所作だったけど、そのぶん逆に懸命な気持ちが伝わってきて興奮した。
殊更にお姉さんへの愛しさが募って、つながらないままでも堪え切れなくなる。
僕に多くを与え、一頻り喜びをもたらすと、美織さんは満足そうに目を細めた。
――なぜお姉さんは、こんなにも僕に尽くそうとしてくれるんだろう?
ふっと疑問が浮かんだけど、答えは訊くまでもなく察せられた。
過去の発言通りなら、お姉さんは成人向けサブカルチャーコンテンツの類を、少なからず日頃から摂取し、独自の研究対象としている。
そのせいで「異性をどう喜ばせるか」という偏った知識だけは、非常に豊富なはずだ。
きっと事前に予習していた行為を、実践に移したにすぎないのだろう。
とはいえ、ああいう創作物で描かれる行為って、現実じゃ女性は忌避感を覚える場合が多いと聞いたことがあったんだけど……
美織さんは、ちっとも嫌そうな素振りじゃなかったなあ。
ほんの一日前まで、男性経験が皆無だったっていうのに。
もしかすると、美織さんはこういう部分も変わっていて、普通じゃないのかもしれない。
他の女性がどうなのかは知らないから、よくわからないけど。人それぞれなんだろうか。
ただ確実に言えそうなのは、お姉さんが酷く魅力的な恋人だってことだ。
「毎日こんなことばかりしていると、美織さんのせいでますます駄目になりそうだよ」
眠りに落ちる直前、僕らはベッドの上で寝転がりながら、互いに見詰め合っていた。
「元々大学中退のフリーターで、その日暮らしのクズみたいな生き方しているのにさ」
「それでもいいと思うよ裕介くんは。いつでも沢山、お姉さんに甘えて欲しいな……」
美織さんは、僕の腕の中に裸身を委ね、間近で微笑み掛けてきた。
まるで魔法で五感を奪われ、脳が蕩けてしまいそうな心地だった。
「そうして、私なしじゃ生きられないようにしてあげるね」
愛おしむように紡がれた言葉は、なぜか呪縛めいていて、冗談に聞こえなかった。
○ ○ ○
……ベッドの上に身体を横たえたまま、すぐ脇の円形テーブルを見る。
そこに乗っている置き時計の針二本は、午前七時半過ぎを指していた。
わりと早く目が覚めたな。意識もはっきりしていて、寝不足でもない。
もちろん隣には、美織さんが眠っている。穏やかで、可愛い寝顔だった。
こうして朝を迎えるのは二度目だけど、今回も僕が先に起きたみたいだ。
掛布団の下じゃ、互いの裸身が触れ合っていて、
そのまま無言でしばらく、僕は朝の静かな時間が流れるのを待った。
やがて、美織さんがもぞもぞと傍らで身動ぎしはじめ、目を覚ます。
「おはよう美織さん。昨夜はよく眠れた?」
「……今朝も裕介くんが先に起きたんだね」
声を掛けると、美織さんは残念そうに唸った。
「君だけ二日連続で、私の寝顔を見たのは
「美織さんの寝顔、可愛かった。早起きした甲斐がある」
「アラサーに朝から言う台詞じゃないよそれ」
「仕方がないさ、実際可愛かったんだからね」
ベッドで上体を起こし、僕は故意に少しおどけて答えてみせる。
美織さんも同じように起床しながら、元々形のいい唇を歪めた。
恨めしそうな目つきで、こちらを正面から鋭く
ただし枯葉色の瞳は、微妙に潤んでいた。頬も薄い桜色だ。
僕は、美織さんに心を込めてキスした。
「お姉さんが可愛いこと」の証明を、明らかに要求されていたからだ。
互いに相手の肩や背中に手を回し、裸体を寄せて、口唇を貪り合う。
顔を離して呼気を吐き、美織さんは得意気な笑みを浮かべた。
うつむき気味に下を向くと、次いで上目遣いにこちらを眼差す。
途端に上機嫌になって、湧き上がる歓喜を抑え切れない様子だ。
「それで年下の裕介くんは、今日も朝からお姉さんにドキドキしちゃったのかな?」
まるで勝ち誇るように問われて、思わず苦笑を禁じ得なかった。
掛布団の下で恋人の身に生じている変化を、美織さんも把握したらしい。
相変わらずキスで接近した際、肌が男性特有の箇所に触れたんだろうね。
「昨日の朝も言ったけど、基本的には生理現象なんだよ。ただ、やっぱりその――」
いったん言い訳がましく説明したものの、指摘された要因も否定はできなかった。
「可愛いお姉さんと裸同士で隣り合ってると、余計に身体が熱くなったりするけど」
「……あはは、そっか。身体が熱くなっちゃったんだ? もう、しょうがないなあ」
美織さんは、生温く微笑んだまま、恥ずかしそうにかぶりを振った。
僕の胸に人差し指を立て、ちょんちょんと二、三度軽く突いてくる。
「ねぇ裕介くん。それじゃまた、お姉さんが昨日の夜と同じことしてあげよっか?」
「昨日の夜と同じこと……って、今起きたばかりなのに?」
「うん。そうすれば、また裕介くんが喜んでくれるでしょ」
咄嗟に訊き返すと、美織さんはちいさく首肯した。
唐突な誘惑に目を剥き、息を呑んで言葉に詰まる。
少し逡巡しているあいだにも、掛布団が捲り上げられてしまった。
お姉さんは、僕の下腹部を前傾姿勢で覗き込み、慈しみはじめる。
「……う、うわあっ。好きだ。好きだよ、美織さん……っ」
いつの間にか
ひたすら恋人を喜ばせようとする美織さんを見て、殊更に愛しさが増してしまう。
背筋を貫くような刺激と、胸を打つ献身に接し、ひと時陶然とした感覚に陥った。
「今更なんだけど、昨日の朝も同じようにしてあげればよかったね」
僕の昂りが鎮まると、美織さんはウエットティッシュで汚れを拭きながら言った。
「裕介くんさえ望むなら、毎朝こうやって甘やかしてあげよっか?」
「ま、毎朝はちょっと。寝起きから疲れるとマズい日もあるし……」
必死に自制を働かせて、頭がくらくらしそうな申し出を辞退した。
誤魔化すように衣服を抱え、差し当たりシャワーを借りたい旨を伝える。
「じゃあお先にどうぞ」とお姉さんにうながされ、僕は浴室へ駆け込んだ。
温水を浴びていると、脳裏をぼんやり掠める記憶があった。
昨夜、寝物語に交わした言葉だ。今も耳の奥に残っている。
(――私なしじゃ生きられないようにしてあげるね)
美織さんがあんなことを言ったのは、やっぱり僕がいずれ傍から離れていくんじゃないかと、不安に感じているせいだろうか。
アルバイトを辞めようとしないから、余計に心配しているのかもしれない。
それで朝と夜を問わず、ますます僕を甘やかそうとしている、とか……?
着替えを済ませ、脱衣所から出る。
リビングへ引き返すと、美織さんがソファにちょこんと腰掛けていた。
入れ替わりにシャワーを使用するため、僕が浴室から出てくるまで待っていたんだろう。
浴槽に浸かるわけじゃないこともあって、今回二人で湯を浴びる意思はなかったらしい。
とはいえ、その有様がまったく思い掛けない光景だったので、少し面食らってしまった。
お姉さんは、裸の上からシャツ一枚だけ羽織って、ボタンで前を二、三個留めた恰好だ。
しかも、そのシャツは僕が昨日着て、片付けるのを忘れていたやつだった。
ぶかぶかで丈が長く、
「あはは。裕介くんの服、今だけちょっぴり借りちゃってるね」
美織さんは、こちらの視線に気付いたらしく、はにかむように笑った。
自分の
「密かに憧れだったんだ、『彼シャツ』って。……駄目かな?」
大きく開いた胸元からは、豊かな膨らみで形成された谷間が覗く。
挙措に合わせて裾が持ち上がる都度、露出した大腿部の奥まで視界に入りそうだ。
ついさっき、生まれたままの姿を見ていたはずなのに、全裸より色っぽく感じた。
そこはかとなく気恥ずかしくなって、僕は正面から目を逸らす。
「別に駄目じゃないけど。それ僕が着たシャツでいいの?」
「もう、わかってないなあ。むしろ裕介くんのじゃなきゃ」
美織さんは、ちょっと呆れたように抗議してきた。
それからシャツの袖に顔を近付け、くんくんと匂いを嗅ぎはじめる。
すると、急にうっとりとして、夢見る乙女みたいな面持ちになった。
……何だか、かえってこっちの方が妙な居心地悪さを覚えてしまう。
しかしお姉さんも僕の反応を見て、またすぐ我に返ったらしかった。
両手を膝に置くと、もじもじしながら気まずそうに居住まいを正す。
「でもやっぱり、こういうのにはしゃぐアラサーって痛いかなあ。どう思う?」
「どうと訊かれても。本人が好きなら、他の人が口を挟むことじゃないような」
「う、うーん。彼シャツを着るのって、何歳までに卒業しておくものなんだろ」
美織さんは、眉を
今朝は普段にも増して、次から次へ忙しなく表情が変わる。
情緒不安定かな? まあ、見ているぶんには飽きないけど。
とりあえず「アラサー女子が彼シャツを着ること」に関しては、やはり曖昧な尺度で判定するのが難しい。価値観は人それぞれだからね。
この問いにはおそらく、類似した傾向の事例が他に沢山ある。
「ゴスロリ系のファッションが着られるのは、何歳までか」
「深夜の美少女アニメを見て喜んでいいのは、何歳までか」
「アイドルのファンになるのが許されるのは、何歳までか」
「異性との性交経験を最初に持つべき時期は、何歳までか」など。
僕が明言できるのは、僕は僕のシャツを着ている美織さんが好きだということだけだ。
「それはそうと、美織さんも早くシャワーを浴びてきたらどう?」
僕は、浴室側へちらりと視線を送って勧めた。
「朝食なら、そのあいだに僕がキッチンを借りて準備しておくよ」
裸の上からシャツを羽織っただけのお姉さんは、従順にうなずいて立ち上がった。
いったん寝室へ着替えを取りに戻ってから、ふらふらした足取りで浴室へ向かう。
ちなみにただ歩いているだけでも、いちいち布地の隙間から見える肌が色っぽい。
美織さんが脱衣所に入るのを見送ってから、僕はキッチンに立つ。
冷蔵庫の中身を検めて、何を作るか思い描きつつ、食材を選んでいった。
調理器具や調味料の置き場所は、昨日も朝食を用意したから覚えている。
コーヒーも、僕が勝手に入れちゃっていいのかな?
……まあ、もし怒られたら、素直に謝ればいいか。
約三〇分ほど経過すると、美織さんがリビングに再び姿を現した。
すでに脱衣所で髪を乾かし、ゆったりした部屋着を着用している。
まだ化粧はしていないみたいだ。ていうかメイク時とそれ以外で、ぱっと見ただけじゃ差異がよくわかんないんだよな美織さんは。なんだこの可愛いアラサー。
本人によると、「すっぴんは童顔なのが辛い」らしいんだけど。
正直化粧してたって、女子大生ぐらいにしか見えないからなあ。
何はともあれ、二人で揃ってダイニングカウンターに着席する。
トーストや野菜スープの皿を並べたら、朝の食事のはじまりだ。
「――ねぇ、ところで裕介くん」
美織さんは、食事中にスプーンを置くと、僕の名前を呼んだ。
こちらを真っ直ぐ見詰め、不意にキリッと表情を引き締める。
「もうこの際だし、今すぐお姉さんと結婚しよっか?」
「この際も何も同棲だってはじまってませんけど!?」
意味不明すぎるが、唐突に逆プロポーズされてしまった。
二日連続で外泊こそしたものの、まだ僕は平伊戸のアパートを解約していない。
早くも同棲気分に染まりつつあるけど、引っ越しの荷造りすら済ませてないからね?
もっと言えば僕らは二人共、一昨日恋人になって初めて男女関係を持ったばかりだ。
にもかかわらずこのお姉さん、何もかも圧倒的に先走り過ぎである。
そりゃあ、元々結婚を前提に交際して欲しいとは言われていたけど。
たった二泊三日で、次々と人生の重大事項を決断しないでください。
本当にいったい、どういう了見なのやら……。
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