12:お姉さんは心配性
休憩時間の終了後も、僕は店の売り場で品出し業務をせっせと続けた。
インスタントラーメンやレトルトカレーを、決まった商品棚に並べていく。
そうして、午後九時半が過ぎた頃。
飲料売り場で缶コーヒーを箱から出していたら、またしても声を掛けられた。
ひと足先に終業時間を迎え、今から退勤しようとしている晴香ちゃんだった。
すでにスーパーの制服は着替えていて、代わりにセーラー服を着用に及んでいる。
たしか、これは明南高校の制服だよね。白と青を基調にしたデザインが爽やかだ。
今日は学校が放課後になったあと、直接バイト先へ出勤していたんだな。
「先輩、お先に失礼しますねー」
わざわざ帰る前に店内を通って、僕のところへ挨拶しに来てくれたらしい。
黙って裏の業務員通用口から出ていってもかまわないのに、律儀な子だな。
尚、晴香ちゃんの仕事が僕より一時間早く終わるのは、もちろん店側が女子高生を夜遅くまで働かせられないためだ(午後一〇時以降は深夜労働になってしまう)。
それにレジ打ち業務も、とっくに多忙な時間帯は越えている。あとはタイムセールの品を買い漁るお客さんを
「お疲れ様、晴香ちゃん。夜道には気を付けて帰りなよ」
「はい先輩、気を付けますっ。――あの、それとですね」
晴香ちゃんは、明るく返事してから、こちらの様子を窺うように続ける。
「明日も夕方から、一緒にシフトが入ってましたよね?」
「……ああー。そう言えば、そうだったかもしれないな」
訊かれて、ぼんやり勤務表を思い出してみた。
たしかに指摘通りのシフトだった記憶がある。
僕と晴香ちゃんは、わりとバイトの出勤日が被っているんだよね。
まあこっちはフリーターだから、根本的に丸一日休みになること自体が少ないんだけど。
「そうそう、明日もお仕事ですよあたしたち。頑張りましょう!」
「明日は、仕事中に手を振って怒られないようにしないとだね?」
故意に
「あっ。そ、それはもう心配ありませんから」
「ははは。そっか、しっかり頼むよ」
「はい、見付からないように上手くやります」
「って、止めるんじゃないんだ!?」
「これでもあたしって、けっこう粘り強さに自信があるんですよ」
「その長所は、別の分野で活かした方がいいんじゃないかな……」
なぜか得意げな晴香ちゃんを見ていると、想定外の不安を覚えてしまう。
それほど厳しいバイトじゃないけど、給料分は真面目に働いてください。
「じゃあ先輩、明日もよろしくお願いしますねー!」
「うん、こちらこそよろしく。じゃあね晴香ちゃん」
晴香ちゃんは、別れの言葉を告げると、その場から駆け足で立ち去った。
店を出て姿が見えなくなるまで、こちらへ何度も左右の手を振り続けていた。
仕事のあとだっていうのに、どこまでも元気だな。あれが女子高生の若さか。
それから、僕は自分の作業に戻って、しっかりあと一時間ほど労働し続けた。
基本的に品出し業務は、遅い時間帯まで店に残って働くことが多いバイトだ。
営業終了後に閉店してからも、翌日の特売コーナーを作らなきゃいけなかったりする。
この日も退勤前にタイムカードを切ると、時刻は午後一〇時四五分と記録されていた。
わかっちゃいたけど、やっぱりいつもの終業時刻だったな。
まあ、いずれにしろ今日の仕事は終わった。雛番へ急ごう。
僕は、制服から私服に着替え、舟木店長に挨拶してスーパーを離れた。
○ ○ ○
地下鉄の平伊戸駅から、南北線で星澄市北区へ向かった。
雛番中央で下車したあとは、夕方に来た街路を引き返す。
ほどなくして、夜道の先に「ロイヤルハイム雛番」が見えた。
マンションの共用エントランスへ入り、壁面の端末に近付く。
液晶画面から部屋番号を入力し、九〇一号室を呼び出した。
<――おかえりなさい裕介くん。ちょっと待っててね>
通話状態になると、お姉さんの弾んだ声が聞こえてきた。
こちらが名乗るよりも早く、エレベーターのドアが開く。
セキュリティ用のカメラで、先に僕の姿を確認したらしい。
上層まで昇って、九〇一号室前で改めてチャイムを鳴らす。
美織さんが出迎えて、僕を部屋の中へ招き入れてくれた。
「本当にけっこう遅いんだね、バイトの終業時刻って」
「まあ出勤が夕方からだと、毎回概ねこれぐらいだよ」
リビングでソファに腰掛け、アパートから運んできた鞄を肩から下ろす。
美織さんは、キッチンで二人分のアイスティーを淹れて、僕にも勧めてくれた。
礼を言って受け取ると、ストローで吸い上げて、一気に半分ほど飲んでしまう。
冷たい液体が喉を潤して、美味しかった。
「ねぇ裕介くん。やっぱり、もうアルバイトは辞めちゃったらいいと思うよ」
美織さんもストローでアイスティーを飲みつつ、差し向かいのソファに座った。
それから、やや前に身を乗り出して、僕の顔をじいっと真っ直ぐ眼差してくる。
「折角同棲するわけだし、二人で一緒に居られる時間は減らしたくないもん」
「こっ、恋人同士の同棲だからって、四六時中一緒なのもどうかと思うけど」
「それとも実は裕介くん、今のバイトに勤労意欲を刺激されてたりするの?」
「いやまあ、そこまで立派な意識を持って働いてるわけでもないけどね……」
詰め寄るように話し掛けられ、つい曖昧な態度でばかり返事してしまう。
僕個人の認識として、これは単純ならざる要素が絡み合った問題なのだ。
実際的な部分から言えば、まず「アルバイトすら辞めて、もし美織さんと二人っきりで日々を過ごすようになったら、自分の社会的な立場はどうなるのか?」という怖さがあった。
お姉さんに扶養されることで無職の引き篭もりになれば、世間との接点が断絶する。
それは冷静に考えると、やはり未婚のうちは望ましくない状態に感じられた。
あと僕はバイト自体について、やり甲斐を感じたことはないけど、極端に嫌ってもいない。
少なくとも過去に大学のキャンパスより、勤務先の店で居心地良さを覚えたのはたしかだ。
だから中退して、フリーターになってしまった。消極的な選択の結果ではあるんだけど。
この辺りは自分以外の相手に理解してもらうのが、ちょっと難しいかもしれないな……。
「ひょっとして同棲しはじめても、まだしばらくアルバイトを続けるつもり?」
美織さんは、眉を
ほんの少し逡巡してから、僕は静かに首肯してみせる。
それを見るなり、お姉さんは
「それは要するにあれかな……『異世界転生してチートスキルを手に入れたから、気楽にスローライフを送ろうと思ったけど、たまにはモンスターと戦っちゃうぞ☆』みたいな傾向の、ライトファンタジー的な展開を今後は希望しているってこと? 何もしなくても毎日のんびり暮らせるんだけど、あえて冒険の依頼も引き受けちゃう的な意味で」
「いや僕、その系統の作品は詳しくないんで、全然例えがわからないんだけど」
「現実はラノベと違うんだから、余計なバイトも冒険も必要ないってことだよ」
控え目に当惑を伝えると、美織さんは悲しげに説明し直した。
ていうか、唐突に妙な
かえって何を言いたいのか、意味がわからなくなるから。
「これからは働かなくたって、私が扶養してあげるって言ってるのに……」
美織さんは、アイスティーをテーブルの上へ置くと、なぜか
「ちゃんと心配しなくても、五万円ぐらいなら毎月お小遣いもあげるよ?」
「単に自分で自由にできるお金を確保したいからってだけで、バイトを続けたいわけじゃないんだけど!? しかも金額がやけに具体的だね!?」
「やっぱり五万円じゃ足りないかな。もっとガチャ回すのにお金欲しい?」
「なんで用途がソーシャルゲームの課金だって決め付けるの!? ていうか僕って、毎月五万円近くもガチャを回しそうだと思われてたのか!?」
「一〇万円までは微課金だって人も居るし。欲しいキャラなら回すよね?」
「それは絶対影響されたら駄目な人の金銭感覚だよ、完全に色々と
ツッコミどころが満載すぎて、頭が痛い。
そう言えば、ふっと思い出したんだけど。
たまに美織さんがネット上にアップロードするソシャゲのスクリーンショットを見ると、凄い高性能なレアキャラばっかでパーティ編成されてたりするんだよなあ。
あれは相当ガチャを回して揃えたんですかね。どれだけ課金したのやら。
……って、今はソシャゲのガチャで四の五の言ってる場合じゃないぞ。
まだアルバイトを続けるのか、完全に扶養されるかの話し合いだった。
「えっと……。逆にこっちからも、一応訊いておきたいんだけど」
僕は、アイスティーをもうひと口飲んでから、微妙に居住まいを正す。
「美織さんはどうして、そこまで僕にバイトを辞めさせたいの?」
そう。これはよく考えてみると、けっこう根本的な疑問だった。
お姉さんは、かつて「同棲してくれるなら、扶養してあげる」と、たしかに言った。
しかし世間一般的な感覚で考えれば、たとえフリーターだとしても、恋人が無職であるよりは幾分か好ましいはずだろう。
然らば、アルバイトを頻りに辞めろと勧める理由は、果たして何なのか。
「ずっと一緒に居たいから」とは言うけれど、単にそれだけとは思えない。
今更ながら正面から向き合って、返事を待つ。
すると、美織さんは目を横へ逸らし、体裁が悪そうに身動ぎした。
ついいましがたの僕と、態度があべこべに入れ替わったみたいだ。
そうして、お姉さんは僅かな間を挟んでから、ぽつりとつぶやく。
うっかりすると聞き逃しそうな、ちいさな声だった。
「きっと女の子が居るから」
「……んんっ? 女の子?」
即座に要領を得ることができず、僕は反射的に訊き返した。
美織さんはどういうわけだか、いじけたように背を丸める。
やがて、こちらへ
「きっとスーパーみたいな場所には、若い女の子が必ず居るから」
…………。
……呆気に取られて、数秒余り口を
きっとスーパーみたいな場所には、若い女の子が必ず居るから。
だから美織さんは、僕にアルバイトを辞めてもらいたいという。
七歳年上のお姉さんが漏らした言葉の意味――
それがまるで理解できないほど、察しは悪くないつもりだ。
つまり僕が
恋人との年齢差をよっぽど気にしていて、想像以上に引け目を感じているんだなあ。
昨夜気持ちをたしかめ合った際、僕は散々そんなのどうでもいいって言ったのに。
まあバイト先に若い子っていうか、女子高生とかが居るのはその通りなんだけど。
「僕は、美織さんしか好きにならないよ。約束しても信じられないの?」
「恋愛ドラマじゃ、同じようなこと言った俳優がいつも浮気してるもん」
しかも相変わらず架空の話から得た知識(今回はアニメやゲームじゃなく、実写ドラマみたいだけど)で、恋愛経験の乏しさを補おうとしているし。
「まさか僕がバイトを辞めない限り、信用してもらえないわけ?」
「裕介くんを信用はしてるけど、そうじゃないと安心はできない」
「それはまた、いったいどうして」
「……だって君、いつも優しいし」
重ねて問い掛けると、美織さんは意外な不安の根拠を打ち明けた。
「もし女の子の方から好かれたとき、ちゃんと相手を冷たく突き放せる?」
突然、逆方向から切り返されてしまった。
「僕にだってできるよ、それぐらいは」
「女の子が泣き付いてきたとしても?」
「も、もちろんさ」
「……本当かなあ」
美織さんは、訝しそうに低くつぶやく。まずい。
今の回答は、自信のなさが表に出ちゃったなあ。
正直言うと、女の子を泣かせた経験自体がないからね僕は。
そういう状況で自分が対応できるか、全然想像も付かない。
でも差し当たり、この場は何とか取り繕っておかなきゃ。
「そもそも、僕は浮気できるほど異性にモテないよ」
「どうして、そんなのはっきり言い切れるの」
「だって大学中退のフリーターで、将来性が薄いし」
「でも私は好きになったよ、裕介くんのこと」
やっぱりお姉さん、こじらせているなあ……。
心配ないと請け合っても、あくまで食い下がられるとは。
とはいえ、その余裕のなさは少し
それで自然と、苦笑交じりに率直な感想が漏れてしまう。
「きっと美織さんだけだよ、そんなふうに僕を好きになってくれる
美織さんは、ゆっくりと二度、枯葉色の瞳を瞬かせた。
人差し指の側面を
あたかも、容疑者の供述に基づいて推理する探偵みたいな物腰だった。
「……まあ、バイトの件に関する結論は、ひとまず保留にしておこうかな」
たっぷり一〇秒以上は間を置いてから、美織さんが口を開いた。
「いずれにしろ結婚するまでには、きちんと辞めておいてもらいたいけど」
そんなにまで無職の恋人がいいんですかお姉さん。
半端なく独特な価値観には、戦慄せざるを得ない。
交際相手の浮気を防ぐためなら、マジで
などと、密かに畏怖の念を募らせていたら。
美織さんは、おもむろに話題を転じてきた。
「ところで、今夜もお風呂に入るよね? バイトで汗かいちゃってるんだろうし」
労わるような口調だけど、何となく待ち構えていたような印象の提案に聞こえた。
「今すぐにでも入浴できるよ。浴槽なら三〇分ぐらい前に湯張りしておいたから」
「……ひょっとして、美織さんもまだお風呂に入ってないの?」
ある
「僕がここへ戻ってくるより先に、入浴したってよかったのに」
美織さんは、ソファから立ち上がると、給湯器の端末を確認する。
それから、ふわふわした栗色の長い髪を揺らし、こちらを振り返った。
枯葉色の瞳には、人恋しそうでありつつも、妖しい光彩が宿っていた。
「だって、今夜も裕介くんと一緒に入りたいと思ったんだもん」
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