11:お姉さんより一〇歳年下の後輩
靴を脱いで部屋に上がり、改めて辺りを見回す。
家賃は月三万九〇〇〇円で、築一七年になる1LDKだ。
室内には、ベッドと机と本棚がひとつずつ置かれている。
昨夜過ごした雛番のマンションとは、比較にも値しない場所だった。
とはいえ手狭で安普請だけれど、あまり不自由を感じたことはない。
僕は、いったん衣服を着替えることにした。
何しろ、かれこれ丸一日以上も同じ服装のままだったからね。
収納から新しい衣類を引っ張り出し、手早く着替えてしまう。
ついでに他にも何着か見繕って、肩掛け
次に机の傍へ歩み寄り、一番下段の
クリアファイルを取り出し、内側に挟まれた紙の束をたしかめる。
アパートの
それから署名捺印の頁を広げて、末尾に記載された大家さんの連絡先を調べた。
電話番号をスマートフォンにゆっくり入力していき、発信ボタンをタップする。
日曜日だしつながらないかと思ったけど、すぐに電話口から「はい」という声が聞こえた。
「あの、突然のお電話で失礼します。コーポ平伊戸で、二〇四号室をお借りしている小宮ですが。……はい。はい、いつもお世話になっております」
定型通りに挨拶してから、本題を切り出す。
「実は近いうちに引っ越す予定でして。それで、部屋の解約手続きをお願いしたいのですが――」
アパートから退去する時期は、契約内容を踏まえて来月末頃と伝えた。
賃料は月割りなので六月分まで支払いが発生するけれど、致し方ない。
細かい事務処理は後日、大家さんが直接アパートを訪ねた際に詰めるという。
ちなみに転出理由そのものについては、幸いにして探りを入れられなかった。
差し当たり確認可能な範囲で、ひと通り用件のやり取りは済んだ。
僕は、電話口で大家さんに繰り返し礼を述べてから、通話を切る。
スマートフォンを耳から離すと、ぷはーっと長い溜め息が漏れた。
これでいよいよ、後戻りができなくなった。
あとは美織さんとの同棲へまっしぐらだな。
ていうか今更だけど、僕って美織さんのことが好きすぎるかもしれない。
昨日から現在に至るまで、行動原理の中心に常時お姉さんの存在がある。
かなり状況に振り回された部分があるにしろ、結局は好きだから外泊したし、自分から告白もした。さらに同棲の提案に合意してから半日程度で、今住んでいるアパートを引き払うことまで決めちゃったんだよなあ。
美織さんの言動と接していて、時折「愛が重いな」と思ったりしていたけれど――
冷静になってみると、僕だって充分に大概だよねこれ。お姉さんを笑えそうにない。
でも密かに僕自身としては、自分がこうなるのは仕方ないな、という気持ちもある。
美織さんと親しくなるより以前なんて、もぬけの殻みたいな状態で生きてたからね。
あの毎日から脱出できたのは、つくづくお姉さんのおかげだと思う……。
まあ、それはともかく。
まだ引っ越し自体は先だけど、早速少しずつ部屋を片付けていこうかな。
手はじめに普段使わないものの中から、必要なものとそうじゃないものを選別しよう。
不要なものはまとめて、ゴミの日が来たら処分しやすいように部屋の隅に積んでおく。
捨てずに取っておくものは、きちんと整理して、あとから順に梱包しなきゃならない。
ただ今のところ、荷造りに使用するダンボール箱が手元にないんだよね。
バイト先のスーパーで、用向きに合いそうなやつをもらってこようかな。
何にしても、ひとつ作業開始しますか!
…………。
……。
さて、部屋の中をひっくり返しつつ、あれこれ物品を寄り分けていると。
スマートフォンの時刻表示は、いつの間にやら午後三時半を告げていた。
これはマズい。今日のアルバイトは、午後四時からのシフトなんだ。
僕は、ひとまず作業を切り上げて、着替えの詰まった鞄を肩から掛ける。
慌ててアパートの部屋を離れ、勤め先のスーパーを目指して駆け出した。
〇 〇 〇
「コーポ平伊戸」前の路地を、市道まで引き返す。
そこから明かりの園方面へ数分歩くと、すぐに「スーパーマーケット
駐車場を横切って、敷地の裏側に回り込む。関係者専用の通用口から、建物の中に入った。
商品搬入口の脇をすり抜けて、通路正面のドアを潜ると従業員控室になっている。
そこで偶然、四〇代後半ぐらいの男性と出くわした。
このスーパーで店長を務めている、
丁度、隣接した事務所から出てきたところらしい。
「おはようございます、舟木店長」
「……ああ、お疲れ様だ小宮くん」
軽く頭を下げて声を掛けると、店長もこちらに気付いて返事を寄越した。
尚、なぜか従業員のあいだでは、夕方からの出勤でも「おはようございます」と挨拶するのが慣習化している。他業種でもよくあるお約束らしいけど、なんでなんだろうね。
「それじゃ今日もよろしく頼むよ」
舟木店長は、短く言い残して、その場から早足で立ち去った。
忙しそうだな。本部から無茶な仕事でも押し付けられたんだろうか。
真面目だけど、ちょっと気が弱くて、根がお人好しな人なんだよね。
いつも上層部と現場の板挟みになって、悩んでいるみたいに見える。
……なんて、一介のアルバイトが気に掛けるようなことじゃないか。
僕は、控室の奥にある男性更衣室へ入った。
自分のロッカーを開けて、店の制服を取り出す。
今着ている服を脱ぎ、白いシャツと茶色のスラックス、緑色のエプロンで身を包んだ。
さっきから、着替えてばかりいるような気がするな。まあ別にどうでもいいんだけど。
アパートから肩に掛けてきた鞄は、制服と入れ替わりにロッカーへ放り込んでおく。
壁面の姿見で身形を整えてから、従業員控室に戻った。
「――あっ、裕介先輩! おはようございますっ」
ドアを潜った途端、明るい声で名前を呼ばれる。
ほぼ同じタイミングで、女性更衣室から着替えを済ませて出てきた女の子が居た。
バイト仲間の
大きな
セミロングの黒髪を片側だけバレッタで留め、左右非対称の形状にしている。
余談だが、女性従業員の制服はエプロンの下がスカートだ。
「おはよう晴香ちゃん。今日もいつも通り元気みたいだね」
「えへへっ、おかげさまで。先輩はご機嫌いかがですか?」
晴香ちゃんは、両手を腰の後ろで組み合わせ、こちらの顔を覗き込んでくる。
「まあ特に良くも悪くもないよ。だから僕もいつも通りかな」
「つまり普通ですか。うんうん、いいことですよ普通なのは」
肩を
「先輩が絶不調とかじゃなくて、安心しました」
「だからって、絶好調ってわけでもないけどね」
「でも好調すぎると、逆に失敗したりとかしません?」
「……あー。調子に乗って無茶するのとかはあるかも」
ちょっと考えてから、同意してみせる。言われてみれば思い当たる節があるかも。
晴香ちゃんは、我が意を得たとばかりに「そう、それです!」と言ってうなずく。
「以前に学校で世界史の先生が言ってたんですけど、昔の
「……たぶん、アリストテレスのことだよねそれ」
古代の高名な哲学者も、害虫被害で悩んでる人みたいにされちゃ形無しだった。
あと「チュウヨウ」っていうのは、少し発音が変だけど「中庸」のことだろう。
「あっ、きっとそれです先輩! えへへっ、あたしって馬鹿だから思い出せなくて」
晴香ちゃんは、頬を指で
ところで、なぜか僕は「先輩」と呼ばれているものの、この子と同じ学校に通ったことなどはない。改めて言及するまでもないけど、僕は元々地方出身者で、県外の高校を卒業している。
晴香ちゃんは「自分より一年先にバイトをはじめていたから」という理由で、その呼称を僕に対して好んで使用しているらしい。
そんなふうに所定の時間が来るまで、他愛のない会話を交わしたあと。
僕と晴香ちゃんは、それぞれ控室を出て、自分の仕事に取り掛かった。
スーパーでの担当業務は、僕が品出しで、我が後輩はレジ打ちだ。
まずは商品搬入口の前を通り抜けて、バックヤードへ踏み込む。
運搬用の台車を確保し、配送センターから届いた荷物を検めていった。
透明な収納ケースの中を探って、店の棚へ並べる順に商品を取り出す。
ある程度台車に積み込んだら、陳列作業のはじまりだ。
従業員のみ通過可能なドアを潜り、店内の売り場へ繰り出した。
台車に乗せた商品を、個々に該当する棚の区画まで運んでいく。
「スーパー河丸」には、青果・精肉・鮮魚・
僕が品出しする範囲は、加工食品の一部や調味料、菓子類、レトルト及びインスタント食品、飲料類のほか、日用雑貨の商品棚が該当していた。基本的にナマ物の食材は扱わず、冷凍食品を運ぶのは出勤時間が通常より早番の日に限られている。
最初は小麦粉やパン粉の袋から、売り場にまとめて並べてしまう。
それから、醤油やサラダ油のボトルを出し、スナック菓子を陳列していった。
チョコレート菓子やガムは、コーナー以外の区画にも置き場があるんだよね。
取り分け忘れちゃいけないのが、清算台周辺の商品棚だ。
僕は、菓子類の詰まったダンボール箱を、台車でレジカウンター付近まで運ぶ。
そのとき、にわかに視界の端に妙な人影がちらついた。
見れば清算台が連なる列の向こう側から、こちらへ手を振っている女の子が居る。
晴香ちゃんだ。若干背伸びするような姿勢で、自分の存在をアピールしているらしい。
現在レジの前にお客さんは居ないみたいだけれど、いったい何をしているんですかね。
実は店内で見掛けると、この子っていつも似たような合図を送ってくるんだけどさ。
仕方なく、品出しの合間にこっそり片手で応えておく。
晴香ちゃんは、それを視認すると、たちまちぱあっと笑顔を咲かせた。満足そうにうなずき、殊更に二度三度と、大袈裟な所作で手を振ってくる。
……が、直後にびくっと肩を震わせ、委縮した様子で身振りを止めてしまった。
隣のレジに立っているパートのオバチャンから、じろりと鋭く
まあ仕事中なんだし、そりゃ怒られて当然だよね。
僕は、レジ付近の菓子類を陳列し終えると、おもむろに売り場へ引き返した。
その後はカレールゥを銘柄別に分けて、製造年月日で手前と奥の箱を入れ替えつつ、商品棚に並べていく。
次はミートソース缶を出す番だなあ――
などと考えていたら、精肉コーナーのところから舟木店長が歩み寄ってきた。
「小宮くん。そろそろ七時だし、いっぺん休憩に入っておいてくれ」
指示を受けて、初めて今の時刻に気付いた。
スマホを取り出してたしかめると、午後六時五七分と表示されている。
僕は「はい、わかりました」と答え、作業を中断して売り場を離れた。
店の奥へ下がる途中で、惣菜コーナーの厨房に立ち寄る。
従業員価格で唐揚げ弁当のパックをひとつ買って、休憩に入った。
控室に戻ってくると、スチール椅子を出して長机の前に腰掛ける。
備え置きのポットからお茶を注いで、夕食を取ることにした。
今日は朝食が遅めで昼食を抜いたから、空腹感は比較的強い。
弁当の
ほどなく鮮魚コーナーに近い出入り口から、晴香ちゃんが控室に姿を現した。
どうやら、同じタイミングで休憩に入ったらしい。両手で紙袋を抱えている。
「先輩、お疲れ様でーすっ」
こちらに明るく声を掛けつつ、ささっと傍らへ接近してきた。
新たなスチール椅子を手繰り寄せ、長机のすぐ隣に着席する。
いやあの他にも空いている場所なら、沢山あるんだけど……
なんで躊躇なくそこに座るの。肩が触れそうなぐらい近いよ。
「あのっ、先輩。よかったら、このパン食べます?」
晴香ちゃんは、ラップで包装された調理パンを、紙袋の中から取り出して言った。
白身魚のフライと緑黄色野菜を挟んで、甘じょっぱいソースで味付けしたやつだ。
「いましがた夕飯用に他のパンを買ったら、
松田さんというのは、ベーカリーコーナーの
背が高い二〇代半ばの男性で、このスーパーの正社員。
「とても美味しそうだけど、晴香ちゃんがもらったものを僕が食べていいのかな」
「大丈夫ですよ。きっと松田さんも、余ったパンをみんなに配ってるんだろうし」
ちょっと思慮して訊いてみたものの、笑顔でパンを手渡されてしまった。
うーん、それは果たして事実なんだろうか。
晴香ちゃんは、けっこう可愛らしいし、性格も明るいから、店内じゃみんなの人気者だ。
でもって恋愛感情がないにしても、可愛い女の子を無意識に
だが、そんなことは知ってか知らずか。
晴香ちゃんは、さらに紙袋の中から新しい菓子パンを取り出す。
チョコレートと粉砂糖で、表面が半分近く覆われたものだった。
「それにあたし一人じゃ、何個もパンを食べ切れないですよー」
いかにも甘そうなパンだけど、我がバイトの後輩は笑顔で
それが晩ご飯で、栄養的には問題ないのだろうか。余計な心配かな。
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