10:お姉さんの表裏アカウント
扶養してもらう件について、いったん僕は「少し考えさせてよ」と態度を保留した。
結局、安易に飛び付いていいものなのか、すぐにその場で判断できなかったからだ。
これから同棲しはじめるにしても、美織さんが住むマンションの家賃を(折半しても)僕には支払い続けるだけの経済力がない。
だからって、互いの負担を等しくするのに、安い新居を探すわけにもいかないだろう。
美織さんが僕のために現状の生活水準を落とすのは、好ましいことだと思えなかった。
この点を踏まえると、同棲するなら賃料に関して、僕は美織さんを頼ることが避けられない。
とはいえ、通信費や社会保険料の類に支援を仰ぐのは、まだ抵抗感が
世の中には、俗に「ヒモ」と呼ばれる人間が存在するという。
恋人である女性の甲斐性を当てにして、自分は働かずに生活している男性のことだ。
彼らは果たして、具体的にどこまで交際相手から金銭的
今まで知り合いにヒモが居たことなんてないし、深く考えてみたこともなかった。
そもそもヒモって、毎月年金を納めているのかな……?
まあ、いずれにしろ同棲をはじめるのなら、他にも必要なことがある。
僕が今住んでいるアパートを引き払って、美織さんのマンションへ引っ越す準備だ。
そのため、朝食後はリビングでくつろぎつつ、実務的な問題をあれこれ話し合った。
「とにかく今日はいっぺん、自分のアパートへ帰ることにするよ」
僕は、自分の計画を簡潔に説明する。
「それで、荷造りやら何やら、今後の用意に取り掛かるつもりさ」
「向こうに何時間ぐらい居るの? 今夜はこっちに戻ってくる?」
ソファの隣に並んで座ると、美織さんが問い質してきた。
お姉さん的には、もう僕の生活拠点がこの部屋って認識なのかな。
本当の意味での同棲は、まだはじまってもいないはずなんだけど。
「もしここに引き返してくるとしたら、けっこう遅くなると思う」
問い掛けに答えながら、改めて昼以降の予定を思い浮かべてみる。
引っ越し準備のあとも、今日は夕方からアルバイトが入っていた。
勤務先は、アパートの近所にあるスーパーマーケットだ。
美織さんは「もう働かなくていい」と言うけれど、さすがにいきなり今日のシフトを欠勤するのはまずい(それに僕としては、現状でバイトを辞めるのは好ましくない気がしている)。
ちなみにアルバイトの終業時刻は、午後一〇時半。閉店時刻の三〇分後になる。
雛番のマンションへ戻ってくる頃には、さらにそれから一時間以上経過しているはず。
公共交通機関だって午前零時を回れば、ほとんど翌朝まで動くものはないし、再度ここで一夜を越さざるを得ないだろう。
「二日続けて泊まっていかなきゃいけなくなるけど、美織さんはそれでもいいの?」
「私はかまわないよ。遠からず同棲する男の子を、深夜に追い出すつもりもないし」
念のために訊くと、美織さんは迷う素振りも見せずに言った。
「むしろ毎日泊まっていってもらって、ずっと一緒に居たい……」
枯葉色の瞳が、僕の顔をじっと覗き込んでいる。
こちらにも意思の一致を求めるような目つきだ。
「何も心配しなくたって、もうすぐ一緒に居られるようになるよ」
「……うん、そうだよね。もう私のこと、傍から離さないでね?」
「もちろんだよ。僕もずっと一緒に居たい」
「もう私のこと、絶対一生離さないでね?」
「そ、それはいきなり重いけど努力するよ」
「もう私のこと、お墓でも離さないでね?」
「すでに死後の世界までなの!? まだ結婚はおろか同棲もしてないんだけど!」
「折角だし、今のうちに良さそうな霊園の区画を取り置いてもらっておこっか?」
「変に具体的で怖いよ!? まだお互い二〇代なんだし現世の話をしようよ!!」
「裕介くんに毎日泊まっていってもらって、ずっと一緒に居たいんだよ」
「毎日泊まっていくっていうか、むしろ永眠する話になってるよね!?」
ついつい何度もツッコミ入れてしまった。
美織さんは、
どこまで本気で言ってるのかわからなくて、ちょっと怖い。
〇 〇 〇
しばらく美織さんと話し合ってから、僕は「ロイヤルハイム
国道沿いを少し歩いて、雛番中央通りにある地下鉄駅の出入り口を下りる。
スマホの電子マネーアプリで改札を潜り、南北線の車両に乗り込んだ。
僕が普段寝起きしているアパートは、星澄市南区の
雛番中央からは明かりの園方面へと、地下鉄で四区間分移動した先の地域だ。
到着までの所要時間は、おおよそ一五分余り。
僕は、乗車シートに腰掛けると、スマホでブラウザを開いた。
例によって、暇潰しに
液晶画面をスクロールすると、見慣れたユーザーネームの
――――――――――――――――――――
【 mimiko 】
昨日は劇場版『ラブハニ』の円盤を鑑賞
したよ! やっぱり映画館で見たときと
同じ場面で感動して泣いちゃったな~
返信:0 RT:0 いいね:1
――――――――――――――――――――
『mimiko』――
美織さんが
この発言は、僕がマンションを出たあと、すぐに投稿したものらしい。
内容自体に関しては、ネット上じゃありふれた購入報告の類だった。
アニメBDのパッケージを撮影した画像が、一緒に添付されている。
部屋で一人になってから、日頃の習慣を思い出して投稿したんだろう。
「いいね」を一件付けたのは、アニメファンのフォロワーみたいだった。
他にも未読の発言がないか、一応ユーザーページから確認するかな。
僕は、mimiko(美織)さんのアイコンをタップした。
――――――――――――――――――――
【 mimiko 】 @mimikoneko
フォロー:89 フォロワー:37
アニメやゲーム大好きオタク喪女の趣味
全開アカウント。他にごく平凡な日常に
出来事もつぶやきます。ただし実況中は
うるさくなるので注意。
場所:星が澄んだ街のどこか
――――――――――――――――――――
画面が切り替わった先で、プロフィールが表示される。
過去のつぶやきを遡ってみたものの、ここまでは昨日より古い投稿しかないようだ。
もし昨夜の出来事を赤裸々に語っていたらどうしようかと、密かに不安だったけど……
そうした種類の発言は、特段見当たらなかった。何となく、ちょっぴり安堵してしまう。
いやまあ「恋人ができました!」ってぐらいの投稿なら、然程問題ないと思うんだけどね。
もし「二人で童貞と処女を卒業しました!」とか書かれていたら、やはり多少恥ずかしい。
ましてや交際開始した当日の話だし、第三者の目にどう映るか想像すると煩わしかった。
でも広いWebを眺めていると、この手のことを大っぴらに発言する人も居るからなあ。
美織さんはその点、さすがに大人の女性らしい
昨日はアイドルアニメ見て、号泣しながらサイリウム振ってたけど。
……と、たった今投稿されたばかりのつぶやきが、そこへ新規に流れてくる。
――――――――――――――――――――
【 mimiko 】
ところで劇場版『ラブハニ』円盤の描き
下ろしジャケ絵、公式のファンに対する
配慮が凄い。全キャラにアニメ本編内で
考え得る限りのカップリングが成立する
可能性を残した絶妙の構図だよ。しかも
みんなの笑顔に尊みが溢れててしんどい
返信:0 RT:0 いいね:0
――――――――――――――――――――
唐突なオタク趣味に関する語りが入った。
尚も間を置かず、つぶやきが連投される。
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【 mimiko 】
『ラブハニ』はいいぞ
返信:0 RT:0 いいね:0
――――――――――――――――――――
普段から
どうやら、すでにお姉さんは平常運転らしい。僕と付き合いはじめたからって、当然のように何も変わらないんだな。微笑ましい。
まあ、もしかすると少しぐらい変わった方がいいのかもしれないけど。
――そう言えば、美織さんはもう一個アカウントを持ってるんだっけ。
僕は、ふと昨夜の話を思い出した。
イラストレイターとして、別名義でも
それで、仕事の名刺をもらったはずだよな。ええと、そうだ。たしか――
シャツのポケットを探ると、目当ての紙片が見付かった。これだ。
取り出して表面を検め、「美森はな江」というPNをたしかめる。
早速検索してみたら、該当アカウントはあっさりと見付かった。
ユーザーページへ飛んで、プロフィールや投稿内容を閲覧する。
――――――――――――――――――――
【 美森はな江 】 @hanae_mimori
フォロー:308 フォロワー:292774
イラストレイター/デザイナー/漫画家
主にお仕事告知アカウントです。ご依頼
はメールにて(hanae_mimori☆xxmail.
com)。[代表作]家庭用据置機ゲーム
『アルトナサーガ3』キャラデザイン、
画集『花々-HANABANA-』、他多数
場所:日本(関東)
――――――――――――――――――――
Φ固定されたツイート
【 美森はな江 】 @hanae_mimori
スマートフォン専用RPG『Karma
/DemonCall』で新規実装神霊
「緑と妖精の女王ティターニア」を描か
せて頂きました。よろしくお願いします
返信:159 RT:7.7万 いいね:9.2万
――――――――――――――――――――
「……誰ですかこれ?」
思わず、
いや待て。決して、ふざけているわけじゃない。
この「美森はな江」なるユーザーが、あの美織さんと同一人物だと信じられなかっただけだ。
ユーザーフォロー数を確認してみると、実に二九二七七四という異次元の数字が並んでいた。
二九万。それだけの人間の目から注目されている。大きな地方都市ひとつの人口と同程度だ。
仕事名義のアカウントについて、お姉さんが「あまり好きなことを発言できる場所じゃない」と言っていた理由を、やっと正しく理解できたような気がした。
つぶやいている口調も内容も、こっちは幾分堅苦しい印象がある。
次に発言欄の最上段を眺めて、固定されたツイートに目を剥いた。
スマートフォン専用RPG『
おそらく国内のソーシャルゲームでは、現在最大規模のユーザー数を誇るタイトルだ。
プレイヤーは召喚術師となって、神々や悪魔を使役して戦う異能伝奇作品なんだけど……
――これって、僕と美織さんもプレイしてるやつじゃん!
固定ツイートには「美森はな江」自身が手掛けたのであろう、イラストのサンプル画像が添付されている。その絵柄や色彩は『Karma』のゲーム内で、よく見慣れているものだ。
それで僕はこのとき、自分が以前からお姉さんが描いた絵と日常的に接していた事実を、今更のように悟った。ただこれまで、まるっきり
自分が中途半端なヌルいオタクであることを、こんなに悔いたのは初めてかもしれない。
ソシャゲを遊ぶ際、登場キャラの絵を描いたイラストレイターが誰なのかって、いちいち僕は気にしたりしないからなあ。
でも、そうすると美織さんって、自分がイラスト描いたりしたゲームを、いちユーザーとして遊んでることになるのかな。
もはや色々と意味不明すぎて、僕の理解可能な感覚を超えた世界だ。うむむ。
――ていうか、どうして僕はそんな美織さんと付き合うことになったんだろう?
昨日から、何度同じ疑問が脳裏に浮かんだのかも思い出せない。
こじらせ気味だけど誰よりも特別なお姉さんと、取るに足らず何者でもない僕。
しかも美織さんの素性を知るほど、かえって不可解さが増すようにさえ感じる。
少なくとも、二人の風変りな関係は普通じゃない、と思う。
大学中退のフリーターにとっては、いくら首を捻ってもわからないことばかりだった。
〇 〇 〇
スマホを片手に車内で揺られていると、やがて地下鉄は平伊戸の駅に到着した。
慌てて下車し、改札を潜る。構内南側の出入り口へ進み、階段から地上に出た。
目の前に広がったのは、雑然とした
市道を離れて住宅地へ入り、さらに七、八分ほど歩く。
ほどなく、前方に「コーポ平伊戸」という看板を掲げた建物が見えた。
僕が田舎から星澄市へ出てきて以来、三年以上住んでいるアパートだ。
鉄筋の外階段を上り、二階の一番奥にある部屋の前まで進む。
財布から取り出した鍵を、ドアノブの穴に差し込んで捻った。
がちゃりという散文的な物音のあと、玄関ドアが
昨日外出してから、ほぼ二四時間振りの帰宅だった。
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