9:お姉さんから本気の提案

 二人っきりの寝室で過ごす時間は、地上の楽園みたいに甘美だ。

 でもだからって、ずっと布団に包まり続けているわけにもいかない。

 現実世界で生きるため、人間は種々の雑事にかかずらう必要がある。


 かくして起床の意思を固めたものの、ふっと大事なことを思い出した。

 僕の衣類は、昨夜から脱衣所に置いたままで、手が今届く範囲にない。


「それなら裕介くんは、ここでちょっと待ってて。お姉さんが君の服、取ってきてあげるね」


 と、美織さんが笑顔を浮かべて、僕のために世話を焼こうとしてきた。

 こちらの返事を聞くよりも先に、一人でベッドから抜け出してしまう。


「代わりに今から少しのあいだ、私が着替えるところを見ちゃ駄目だよ? 恥ずかしいから」


 美織さんは、ひとまず寝室のクローゼットへと、全裸で歩み寄った。

 収納されていた衣類を手早く取り出し、下着から順に着用していく。

 言われた通り着替え終わるまで、僕はお姉さんから目を背けていた。


 やがて、美織さんはクリーム色のワンピースを身に着けて、寝室から出ていく。

 一分足らずで引き返してくると、腕の中に僕が昨日着ていた衣服を抱えていた。

 それをこちらへ手渡してから、またいそいそと部屋の外へ姿を消す。


 僕は、やっとベッドの上から床へ下りると、自分の服を身にまとった。

 下半身の昂りも、今頃になって平時の落ち着きを取り戻しつつある。

 たぶん男子の生理現象を察して、お姉さんは服を運んできてくれたんだろうな。

 今更何を見られたって(昨夜は二人共すべてを隅々まで見せ合ったわけだし)、僕はどうとも思わないけど、変な気を遣わせてしまったみたいだ。


 差し当たり窓際に立って、カーテンを開く。

 途端にまばゆい陽の光が、硝子越しに射し込んできた。

 室内を振り返って、ベッド脇のテーブルに置かれた時計を眼差す。

 長短二本の針は、文字盤の上で午前一〇時を回ろうとしていた。



 寝室を出て、リビングへ移動する。

 ここでも同じようにカーテンを開くと、窓から部屋に光を取り込んだ。

 それから、辺りを見回してみたものの、美織さんの姿が見当たらない。


 どうしたのかと思っていると、脱衣所の側から物音が聞こえた。

 それで、どうやら改めて身形を整えているらしい、と気付いた。

 美織さんも女性なんだし、そりゃ当たり前か。美人だからって、何の努力もせずに美貌を維持しているわけじゃないんだろう。


 僕は、お姉さんが身支度を済ませるまで、ソファに座って待つことにした。

 スマートフォンを取り出し、ブラウザを立ち上げる。短文投稿サイトのTLを遡り、ニュース記事を拾い読みした。ソーシャルゲームのログインボーナスも、忘れずに回収しておく。


 しばらくすると、美織さんがリビングに戻ってきた。

 そのままキッチンに立って、冷蔵庫の中身を検める。


「それじゃあ、とりあえず食事を用意しよっか?」


 お姉さんの提案に賛同し、僕も隣で手伝わせてもらった。

 昨夜はご馳走になったけど、一人暮らしで家事は一応慣れている。

 調理台に置かれた食材を、それぞれ切ったり炒めたりしていく。

 それを見て、美織さんは目を白黒させていた。


「……裕介くんって、実はお料理上手だったんだね。びっくりだよ」


「上手かどうかはわかりませんけど、料理自体はまあまあ好きです」


 焼き上がったオムレツを皿へ乗せつつ、会話に応じる。


「えーっ、明らかに胸を張って特技だって言っていいレベルだよ! ――これだって、焼けた形がすっごく綺麗に整ってるもん」


 お姉さんは、完成した卵料理に顔を近付け、食い入るように凝視きょうししていた。

 まあ社交辞令だとしても、そこまで持ち上げられれば当然悪い気はしない。


 普段はアパートで生活していると、バイト以外は家事ぐらいしかすることがないからな……。

 アニメやゲームは好きだけど、たぶん僕はカジュアル層とかライト層とか呼ばれるような種類の消費者だ。これまで趣味の類に限らず、大抵の物事で過度に熱中した経験がない。

 ただ料理に関しては、この三年余り必要に迫られ、日常的に作り続けざるを得なかった。

 そのため、自然と技術が身に付いたんだと思う。まさしく「継続はちからなり」だよね。


 もっとも、美織さんは騙し討ちを食らったような面持ちだった。


「うう~ん、何だか少し悔しいなあ。わりと私も料理は自信があったんだけど……」


「美織さんも料理が得意なのは、昨日夕飯を食べさせてもらったからわかりますよ」


「でもお互いが得意なんじゃ、相対的に調理技術の有難みが薄れちゃうんじゃないかと思って」


「今後二人で暮らすにあたって、どちらも料理が作れるのは普通にいいことだと思いますけど」


 お姉さんがやけに残念そうなので、僕は実際的な利便性を提示してみせた。

 これから同棲生活がはじまることを踏まえれば、ごく至当な意見のはずだ。

 ところが、それに対して伝えられた返答は、思い掛けない不都合だった。


「だって……裕介くんのことを、私の料理でしておきたかったんだもん」


 美織さんは、ちょっと不満げに口を尖らせた。


「そうすれば、君が私の傍から離れられなくなる要素を、ひとつ増やせるから」


 ……え、餌付けしたかったって。

 言い換えれば「胃袋を掴む」とかって意味なんだろうけど。

 それは何というか、さすがに想像の埒外らちがいにある理由だなあ。

 まあ、たしかに自炊能力に乏しい男子は、調理技術が高い女子に飼い慣らされやすい。

 統計的な実情までは知らないけど、そういう傾向が昔から根強く存在していると思う。


「料理ができてもできなくても、美織さんの傍から離れるつもりなんかありませんよ」


 僕は、思ったままの気持ちを伝えた。


「僕の言うこと、信じられませんか」


「……そういう訊き方、ずるいと思う」


 ひと呼吸挟んでから、美織さんは恨めしそうな目で僕を眼差す。

 こちらの問い掛けに答える替わりに、いきなり頼み事してきた。


「私からのお願い、ひとつ聞いてくれるかな?」


「まず具体的にどんなことかを教えてください」


「私と話すとき、もう敬語は使わないで欲しい」


 いささか意表を衝く要望だった。

 とはいえ指摘されてみれば、なるほど恋人同士が会話の中で敬語を用いるのは、やや他人行儀かもしれない。

 いわゆるタメグチで話してかまわないのなら、こちらも楽でいいけどね。


「そうすれば、ずっと僕が美織さんと一緒に居たいと思っている、って信じてくれるの?」


「裕介くんのことだったら、訊かれなくても信じてるもん。私の方がお姉さんなんだから」


 早速敬語を止めてたずねてみると、美織さんはつんと取り澄ましたように答える。

 普段はアラサーだ何だって自虐しているのに、こういうときには年長者であることを強調するんだなあ。そのくせして、意地張ってるみたいで全然七歳年上の態度じゃない。

 でも、そんなところさえ魅力的に感じてしまうのは、恋の病が重症だからだろうか。


「わかったよ。これからはもっと、恋人らしく話し掛けるね美織さん」


 僕が承知してみせると、お姉さんは眉をひそめながら頬を赤らめた。




     〇  〇  〇




 何はともあれ、朝食の用意が整った。

 ダイニングカウンターに料理の皿を並べ、二人で隣り合って椅子に腰掛ける。

 豆からいたコーヒーを、美織さんがカップに注いで手渡してくれた。

 黒い液面から立ち昇る細い煙と共に、心地良い香りが鼻腔びこうをくすぐる。


 それにしてもやっぱり、まだ自分が夢の中に居るような気分だ。

 つい一昨日まで、毎日アパートの狭い部屋で寝起きして、朝食なんか適当にコンビニのパンで済ますような生活だったのに。

 今朝は高級マンションの一室で目覚め、食事中に綺麗な年上のお姉さんが傍で微笑んでいる。

 バターの塗られたトーストをかじって、コーヒーで胃の中へ流し込んでいると、まるで恋愛映画の一場面なんじゃないかと錯覚するような状況だった。


 ――まさか自分が、こんなにもきらきらした朝を迎える日が来るだなんて。


 改めて感嘆すると共に、かつて中学高校や大学に通っていた頃を思い返し、幾分複雑な心境も抱かざるを得ない。同級生の多くが青春を謳歌おうかしていたのに、違和感だらけで馴染み切れず、灰色の中で過ごしていたあの時期とは、何だったんだろう? 


 今、お姉さんの隣で見ている光景は、僕にとって当時より何倍も美しく見えた。



 さて、食事中にそうやって、ぼんやり益体もないことを考えていると。


「そう言えば、二人で同棲をはじめるにあたっての大事な相談なんだけど」


 美織さんがコーヒーカップを傾けつつ、おもむろに用件を切り出してきた。


「まず根本的な話からすると、一緒に暮らす場所はこの部屋でいいよね?」


 確認するように問われ、僕は「まあ、いいと思うけど」と答えた。

 このマンションと自分が住んでいるアパートを比較して、単純にどちらかで二人暮らしせねばならないとしたら、明らかに前者一択だと思ったからだ。

 お姉さんは、僕の返事にうなずきながら続けた。


「じゃあ、いくつか君には用意してもらわなきゃいけないものがあるんだ」


「同棲するために用意しなきゃいけないもの、というと?」


「うーんとね。……たぶん、身分証明の写しと顔写真かな」


 仔細をたずねると、美織さんは少し思案してから答えた。


「ここのマンションって、いいかげんな賃貸ちんたいじゃないから。これから同棲するのなら、きちんと管理会社に連絡を入れて、君の入居手続きも取らなきゃいけないはずなんだよ」


 どうやら、本格的な二人暮らしともなれば、多少面倒な雑事が伴うらしい。

 そりゃまあ、ちょっと恋人を一晩泊めるのとわけが違うのは、当たり前か。

 この建物の出入り口にあるセキュリティシステムだって、きっと正規に登録されている入居者以外は、使用できない仕組みになっているんだろうし……

 などと、途中までは納得して話を聞いていたんだけれど。


「家賃は今後も私が全額支払うから、保証人を増やす必要はないと思うけどね」


「えっ……。ちょ、ちょっと待ってよ美織さん」


 美織さんが説明の中で発した言葉に驚き、僕は慌てて制止せざるを得なかった。

 保証人のことはともかく、賃料に関する件は聞き逃していい問題じゃなかろう。

 まさか、お姉さんが全額負担するだなんて、どういう了見なんだ。


「二人暮らしの家賃や水道光熱費って、合算してから折半せっぱんするんじゃないの?」


「ふふーん。私が君のことは扶養してあげるって、ちゃんと昨日も言ったよね」


 動揺を堪えて訊くと、美織さんはうっすら口の端に笑みを浮かべた。

 マジですか。このお姉さん、本当に本気で僕のことを養おうと考えているのか。

 どうしても信じ難い提案に思えて、素直に受け入れていいのか躊躇してしまう。


「でっ、でもやっぱり、美織さんだけが支払うというのはどうかと」


「……だったら、二人で折半してみる? 私はどっちでもいいけど」


 美織さんは、枯葉色の瞳を僅かに細めた。

 戦う前から勝利を確信している目つきだ。


「言っておくけどね、けっこう家賃高いんだよここ。仮に折半したとして、君のバイト代で毎月払い続けられるものなのかな。はっきりした金額を言えば――……」


 僕は、提示された賃料を聞いて、反論できなくなった。

 折半しても、毎月のバイト代が大方吹っ飛ぶ金額だったからだ。

 一般的に「家賃が収入の三割を超えた場合、そのぶん生活の余裕が削られる」などというが、これじゃ論外だろう。生活自体が成り立たない。


 思わず少し唸っていると、美織さんはこちらを眺めて楽しそうにしていた。


「ねぇ裕介くん。君って、スマホの料金はどうしてるの?」


「どうって、自分の口座から引き落としで払ってますけど」


 以前は両親が支払ってくれていたけど、現在は僕自身がバイトで稼いだ金で賄っている。

 何しろ大学中退後、実家からスマートフォンの名義変更申請に関する委任状が送り付けられてきたんだよね。書類に署名して返送するように要求されて、従わざるを得なかった。

 以後は自分の口座から、料金振替で支払っている。


「年金とか健康保険料の支払いは?」


「それも全部バイト代で払ってます」


 重ねて問われ、ありのままに答える。

 その辺りの支払いなどについても、実家から転出届の委任状や年金手帳が送られてきたりとかして、気付けば自分で都合を付けるようになっていた。

 ちなみに年金免除の制度利用については、毎年バイトによる収入が既定の所得額を僅かばかり上回っていて、審査条件を満たせていない。


 おかげで結果的に自立している……

 というより、両親から見捨てられて、現在の状況になっちゃってる。


「ふうん、なるほどね」


 美織さんは、納得した様子でつぶやくと、サラダの皿へフォークを刺す。

 ひと切れトマトを口へ運んでから、いきなり付け加えるように申し出た。


「これからは一切合切、お姉さんが代わりに支払ってあげよっか?」


「――はあっ!? そっ、それは常識的に色々とまずいのでは!?」


 もはや仰天の余り、カウンターの椅子から数センチ飛び上がりそうになった。

 そこまでされると、本当に被扶養者としての立場が確立してしまう感が凄い。


 でも僕と美織さんは、まだ交際開始したばかりであり、恋人同士になった段階なのだ。

 今後同棲しはじめ、もし将来結婚することになるとしても、現時点では家族じゃない。

 にもかかわらず、そこまで経済的に依存してしまうのは、かなり問題を感じてしまう。



「いいんだよ裕介くん、甘えてくれても」


 美織さんは、とても優しい声音で囁く。


「アルバイトは辞めちゃっていいし。もう働かなくたって大丈夫だろうから」


 さすがに当惑を覚え、唖然としてしまった。


 たしかにお姉さんは昨日、駅前の喫茶店で僕を養ってくれると言った。

 働く必要はないから、結婚を前提に付き合って、同棲して欲しいとも。

 あれが実際に本気の言葉だったんだと、今更再認識させられたわけだ。



「今日からは、ずっと私の傍に居て……絶対にどこへも行かないで欲しいの」

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