第二章「お姉さんと僕の準備」

8:お姉さんが目覚めたら隣に

 ……右半身に伝わる、柔らかな感触で目が覚めた。


 首を捻って隣を見れば、綺麗な女性が眠っている。

 ベッドの上で、僕の腕を枕にし、ぴったり寄り添っていた。

 互いの素肌の触れ合いで、心地良い温もりが生まれている。

 二人共、裸身で夜を過ごし、そのまま現在に至ったからだ。


 この綺麗な女性――花江美織さんと、僕は昨日正式な恋人同士になった。

 その上、次の日付に変わる頃には、キスやそれ以上の行為に及んだんだ。



 美織さんの寝顔を眺めているうち、昨夜の出来事が自然と思い出される。

 どちらも初めてのことだったから、想像した以上にあれこれ大変だった。


 僕なんか気持ちが逸る余り、結ばれる前に一度シーツを汚してしまったからな……。

 あのときは当然、思い掛けない失敗に蒼くなり、同時に情けなくなって落ち込んだ。

 美織さんは、咄嗟に何が起きたのかわからず、きょとんとした顔になっていたっけ。


 だが、そのあと事情が伝わると――

 美織さんは、かえって僕に愛おしそうな微笑みを向けてくれた。

 そして、より多くを与えようとし、優しく励ましてくれたんだ。

 おかげで、僕は己をふるい立たせ、再び愛し合えるようになった。


 もっとも入れ替わりで、次は美織さんが僕を受け入れるのに苦労しはじめたんだけど。

 結局、何とか二人がひとつになれるまでは、三時間近くも掛かってしまった気がする。

 やはり初体験同士だと、こんなふうになるものなのだろうか。後始末も手間取ったし。


 ただいずれにしろ、初めて結ばれた相手が美織さんで、本当に良かったと思う。

 もし他の女性だったら、もっとみじめな気持ちを味わっていたかもしれない――……



 なんてことを、ぼんやり考えていると。

 隣で寝ている美織さんが、もぞもぞと身動ぎしはじめる。

 ほどなく浅い吐息を漏らすと、重そうにまぶたを持ち上げた。


「……んーっ。おはよ、裕介くん」


「おはようございます、美織さん」


 お互い朝の挨拶を交わす。


「もしかして、ずっと私の寝顔を見てたの?」


「見蕩れてたんですよ。可愛らしかったから」


 問い掛けられたので、僕は包み隠さず事実を答えた。

 しかし美織さんは、すぐには受け入れようとしない。


「お姉さんのこと、あまりからかわないで欲しいな」


「からかってません。急に年上振らないでください」


「年上振ってるんじゃなくて、君より年上だもん私」


 美織さんは、掛布団を持ち上げると、裸の上体を起こす。

 栗色の長い髪がふわりと波打ち、宙で緩やかに広がった。

 豊かな胸や細い腰部の輪郭が、ベッドの上であらわになる。


 白い素肌を改めて見ると、昨夜の熱情が幾分よみがえった。

 それで自分も裸身を起こし、お姉さんを抱き寄せる。

 年下の恋人に抵抗する素振りはなかった。


「大好きです。美織さんのこと、幸せにしたい」


「……うん、知ってるよ。私も裕介くんが好き」


 美織さんは、耳の先まで真っ赤にして、僅かにうつむく。

 どう見ても二八歳とは思えないような、初々しい反応だ。

 でもそんなアンバランスさが、逆に僕の心を掻き乱した。


 唐突に美織さんの頬に手を寄せると、こちらを振り向かせる。

 そのまま無言で、かたちの良い唇に自分のそれを押し付けた。



「……えっと、裕介くん。今朝はちょっぴり積極的なんだね」


 互いの顔を離すと、美織さんは少し落ち着かない様子でつぶやく。

 とはいえ、僕から迫られたことを嫌がっている素振りはなかった。


「美織さんに昨夜告白してから、ある程度吹っ切れたんです」


「それはお付き合いして大丈夫かって、悩んでいたことを?」


 確認するような問いに「はい」と、素直に答える。


「もう少し、自分の気持ちに正直になってもいいんじゃないかって」


「それで朝から、いきなり裸で抱き締めたり、キスしたりしたの?」


「そうです。でも僕が今望んでいるのは、それだけじゃありません」


 僕は、首肯してみせつつ、さらに続けた。


「これから美織さんの傍で、いつも一緒に居たい」


「……それって、私と同棲してくれるってこと?」


 返事に僅かな間を要したものの、言葉の含意がんいは正しく察してくれたらしい。


「美織さんの考えが、昨日までと変わってなければ」


「いくら何でも、一夜明けただけで変わらないよ!」


 美織さんは、ちょっとむきになって、抗議するように言った。

 枯葉色の瞳が光を湛えて少し潤み、不安定に揺らいで見える。

 互いに相手の手を握ると、じっと静かに見詰め合った。


 やがて、美織さんが喜びを噛み締めるように微笑む。


「やっぱり、裕介くんを好きになって良かった。もう私も、傍を離れたくない」


「僕も同じ気持ちです。まだ色々と、整理し切れていない部分もありますけど」


「整理し切れていない……って、どういうところが?」


「それは、何というか。あまりにも急展開だったので」


 付け足すように返事しながら、つい苦笑が漏れてしまった。


「生まれて初めて女性に告白して、初めて恋人ができたと思ったら、直後にそのまま初めて――ああいう経験をさせてもらったので。女性と同じベッドで目覚めた朝も、初めてですし。何だか青年期に通過するイベントが、一晩でいっぺんに押し寄せてきたような感覚なんです」


「そっ、その辺りについては、お互い初めて同士ってことで見逃して欲しいかな……」


 思うところを打ち明けると、美織さんは少し気まずそうに誤魔化す。

 それから浅く呼気を吐き出し、こちらを上目遣いで見てはにかんだ。


「あのね裕介くん。凄く勝手なことを言っちゃうけど、私は今本当に嬉しいんだよね」


 美織さんは、ちいさな子供が内緒話をするみたいに囁く。


「だって、生まれてから二八年間一度も恋愛したことがなかった上、好きになった男の子は七歳も年下なのに……こんなに幸せな初体験ができるだなんて、奇跡みたいだと思うから」


 そんなことを面と向かって言われると、こちらとしても照れてしまう。


 何となく感じ取っていたものの、美織さんは妙な部分で乙女っぽい気がする。

 不意に同棲や外泊を提案してきたりして、奇矯ききょうな言動を取ることもあるけど。

 根っこの思考や価値観が、やけにロマンス志向というか、少女漫画的というか。


 でなきゃオタク趣味のせいで、作り話の世界の「綺麗な恋愛」に毒され過ぎているのかも。

 ラブコメアニメや美少女ゲームを、恋愛マニュアル代わりにしちゃうお姉さんだからなあ。

 見方によっては、そうした理想を抱き続けたままだからこそ、二八歳まで真っ当な恋愛をせずに来てしまった可能性もありそうだ……。



 ただまあ、それはそれとして。

 美織さんが僕と同じか、それ以上に「自分の初体験は幸福なものだった」と思ってくれているらしいことは、とても嬉しい。身も心も通じ合えたんだな、という感慨かんがいがある。


 僕は、殊更に深い愛情を覚えて、もう一度お姉さんの肩を引き寄せた。

 華奢な裸身を包み込むように抱きつつ、栗色の長い髪をそっと撫でる。


「やっぱり美織さんって、本当に可愛いな」


「もう、何度も言わないで。恥ずかしいよ」


「何度も言うのは、美織さんが可愛いせいですよ」


「またそんなこと言うんだね。七つも年下なのに」


「僕は本気で、可愛いと思ってるんだけどな」


「……お姉さんのこと、あまりいじめないでよ」


 美織さんは、頬を桜色に染めて、少し恨めしそうにつぶやく。

 そうして、僕の胸に両手を添えつつ、妥協案を提示してきた。


「もう少し言い方を工夫してくれれば、苛められても耐えられるかも」


「じゃあ、どういう言い方がいいんですか。具体例を教えてください」


 試しに問い掛けてみると、美織さんはおもむろに顔を上げた。

 枯葉色の瞳が、無駄に夢想的なきらめきを帯びたかに見えた。



「例えば、こういうときには乙女ゲームのキャラだったら、たぶん『おまえ、面白いやつだな』って言うんじゃないかな……?」



 …………。


 きちんと女性向けのジャンルも押さえてるんですね。お姉さんなら当たり前か。

 ていうか、ちょっとサブカルコンテンツの守備範囲広すぎじゃありませんかね。

 しかもその内容を引き合いに出してきちゃうし。そういうとこだぞ? 


「……やっぱり美織さんって、本当に可愛いな」


「あっ、もう。結局、意地悪なこと言うんだね」


 同じ言葉を(異なるニュアンスで)繰り返すと、美織さんは不平そうにむくれる。

 そういう反応ばかりするから、余計に可愛らしく見えるんだけどな。無自覚か。



 僕は、再度お姉さんに顔を近付け、慰める代わりに優しくキスした。

 互いに身を寄せ合って、甘い蜜を吸うみたいに何度も、唇を重ねる。


 ……だが、ほどなく美織さんが目を開いて、中断してしまった。


「ねぇ裕介くん。えっと、今気付いたんだけど、その――」


 お姉さんは、そわそわしながら下を向き、遠慮がちにたずねてくる。


「もしかして……さっきから、ずっと我慢してるのかな?」


 視線が注がれた先は、二人の下半身をおおう掛布団だ。

 その奥では、僕の下腹部が昨夜と同様の状態になっている。

 キスや抱擁を続けるうち、肌が接触して察知したのだろう。


「魅力的なお姉さんを全裸で抱き締めていたら、興奮するのは仕方ないでしょう」


 僕は、正直にありのままの事実を伝えた。


「それに元々生理現象の一種で、男性は寝起きに自然とこうなりやすいんですよ」


「……あっ、ああ~! なんかそれ、聞いたことことあるよっ。たしか、えっと」


 美織さんは、とても大事なことを思い出したようにうなずく。


「以前に読んだライトノベルの主人公も、同じ状態になったシーンがあって。それで、登校前に自宅まで朝起こしに来てくれた幼馴染のヒロインに対して、主人公があれこれ慌てて言い訳していたような記憶が……」


 どうやら、聞いたことがある情報じゃなくて、読んだことのある情報らしかった。


 うん。だから異性に関する知識を、真っ先に架空の世界で描写された内容に求めようとするのは、止した方がいいんじゃありませんかねお姉さん。あまりよろしくない傾向じゃないかと。

 まるっきり「アダルト動画を視聴し過ぎたせいで、恋人が居たこともないのに初めから性交渉が上手くいくと思い込んでる童貞」みたいな、悲しい残念感がある……。

 まあ、それこそ昨夜まで童貞だった僕が言えたこっちゃないですが。実際、行為に及んでみるまでは、もう少し上手くできると思い込んでたし。


「はあ~っ、なるほどね……。それでこれ、裕介くんは苦しくないの?」


 なぜか酷く感心した様子で、美織さんは尚も質問を重ねてきた。

 僕は、何やら妙な心配をされているなあ、と思いつつも答える。


「さすがに苦しい、ってことはないですけど。日常的になるものですし」


「そうなんだ。じゃあ、そのままにしておいても大丈夫? 本当はできるなら、その――」


 美織さんは、少し申し訳なさそうに続けた。


「今からもう一度愛し合って、私が裕介くんを楽にさせてあげたいんだけど。昨日の夜は初めてだったせいで、まだつながったときの痛みが少し残ってて」


 若くて健全な男子なら、それだけで思わずとりこになりそうな発言だった。

 お姉さんは、率先して恋人の欲望も受け入れて、尽くそうとしてくれている。

 それも初体験したばかりで、自分の身体に違和感があるにもかかわらず……。

 卑俗なやり取りのはずなのに、美織さんが健気に思えてならなかった。


「美織さんのこと、僕はちゃんと大事にしたいと思っています」


 僕は、努めて穏やかに話し掛けた。


「恋人の性欲のために無理なんて、一切する必要ありませんよ」


「……君ってばもう、またそうやって優しいこと言うんだから」


 ちょっと照れながら、しかし美織さんは裏腹にねたような口振りで言った。


「裕介くんは年下なんだから、もっとお姉さんに甘えたりしてくれてもいいんだよ」


「さすがに好きな人の体調より、刹那的な快楽を優先したりなんかできませんって」


「うん、ありがと。――好きな男の子に優しくされると、やっぱり凄く嬉しい……」


 お姉さんは、両手で掛布団の端をつかむと、落ち着きなさそうに胸元まで引き寄せる。

 何だかまたしても、やたらと乙女っぽい仕草だった(アラサー)。でも、そんな所作が無駄に似合っていて、可愛らしいから困る。いや僕個人としては最高だけど……。


 などと密かに考えていたら、美織さんがこちらを横目で眼差してきた。

 どことなく、飼い主を散歩へ連れ出そうとする仔犬みたいな目つきだ。


「でも、誤解はしないでね?」


「誤解というと、何でしょう」


「それはだから、私が無理してるとか、思わないで欲しいってこと」


「無理って……今、僕のためにしてくれようとしたことがですか?」


「じ、実は私ね。昨日の夜に初めてしてみて、わかったんだよねっ」


 美織さんは、薄く額に汗を滲ませ、あたふたして言った。


「たしかに少し痛かったし、上手くできるまでは色々大変だったけど。――君とひとつになれてからは私、徐々に『これけっこう夢中になっちゃいそうかも』って感じるようになって……」


 かーっと自分の体温が上昇してくるのを、このとき僕は自覚した。

 昨夜の入浴時とそっくりで、頭も胸も内から沸騰するように熱い。

 美織さんのあけすけな言葉は、だがむしろ恐ろしく蠱惑こわく的だった。

 さながら恋人の僕には、魔性の響きを帯びているかにも聞こえる。



「つまり、たぶん好きなんじゃないかな、私。……君と二人で、そういうことするの」



 どうやら美織さんは、すでに男女の営みに喜びを見出しつつあるらしい。

 昨夜が初体験のはずだったのに、まさかすんなりと馴染んでしまうとは。

 こんなことがアダルト動画やエロ漫画の世界以外で、実際にあり得るのか? 

 ましてや相手の僕も初体験で、どちらも探り探りの拙い行為だったんだぞ。


 ……いやまあ、この種の感覚には個人差がある、というのも知識的にはわかってる。

 美織さんみたいな女性だって、おそらく皆無じゃないんだろう。ある意味じゃ、初体験を幸せに迎えることができた証左でもあるから、恋人としても喜ばしい。

 でも漠然と、今後に危険な予感を覚えてしまう。



 ――これから、このお姉さんと同棲するのか……。


 僕は、あれこれと殊更に想像を巡らせ、思わず息を呑んだ。

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