7:お姉さんとの幸せな初めて

 僕は、思わず逡巡して、ひるまずに居られなかった。


 もちろん、美織さんから抱擁ほうようを求められて、嬉しくないはずがない。

 何より、ここは風呂場で、浴槽の中だ。二人は今、互いに全裸である。

 極めて扇情せんじょう的で、かつまた魅力的な提案なのは、今更言うまでもない。


 ――だけど、もし今の状態で抱き付いたら……


 もう二人で入浴しはじめてから、ずっと僕は動物的な欲望を必死に抑え続けていた。

 しかし、どれだけ理性を動員しても、身体の疼きを制御し切ることは不可能なのだ。

 熱を帯びた血液は、尚も下腹部に集まって、しかるべき反応を示している。


 たとえ恋愛経験がなくたって、それぐらいは美織さんも気付いているはずだろう。

 にもかかわらず、こんな行為を要求するだなんて、どう考えても挑発に等しい。


 ――ええい、もう細かいことなんて知るもんか! 


 僕は、半ば捨て鉢になって、美織さんの背中へ手を伸ばした。

 白い裸体を背後から、腰部のくびれへ腕を回して抱き締める。

 湯の中で座った姿勢のまま、二人の肌が触れ合った。

 ぴったり寄り添うと、柔らかな感触が伝わってくる。


 そして、僕は反射的に「う、くっ……」と、うめいてしまった。

 下腹部の接触で生じた、甘美な感覚に息苦しくなったせいだ。

 一瞬、身体の真ん中を蕩けるような電流が走って、危うい欲求に襲われかけた。

 ひとまずこらえたものの、いつまで押し切られずに我慢できるかはわからない。



 と、美織さんが数秒挟んで、ちいさく呼気を吐き出す。

 それは羞恥と安堵が入り混じった、奇妙な所作だった。


「――よ、良かった。本当に……」


「ど、どうしたんですか美織さん」


「だって、今まで不安だったから」


「不安? いったい何のことです」


 どうにもお姉さんの心理を測りかねて、僕は咄嗟に問いを重ねてしまう。

 それによって得られた回答は、まるっきり考えもしなかった理由だった。


「……ひょっとしたら、私の裸じゃ裕介くんが興奮してくれないかも、って心配してたから」


 美織さんは、僅かに自嘲を含んだ声音でつぶやく。


「でも、君が抱き締めてくれたおかげで――それが杞憂きゆうだったとわかって、安心したんだよ」


 ……ほんの一、二秒間、僕は驚き、唖然としてしまった。

 突飛だが、妙に切実さの篭もった言葉を聞いた気がする。


「な、何言ってるんですか。美織さんは、こんなに綺麗なのに……」


「さっき、お互い『過去に恋愛した経験がない』って話をしたよね」


 美織さんは、こちらの言葉を優しくさえぎった。

 背を向けたまま、肩越しに心情を吐露する。


「あのとき裕介くんが、まだ女の子のことを知らないってわかって、その――自分でも失礼だなって思うけど、本当に嬉しかったんだ。だって、君に素肌を見せたとき、自分と他の誰かの身体を比較されなくても済むから」


 美織さんの素肌から、かすかな震えが伝わった気がした。

 浴槽の内側を満たす湯は、ちゃんと変わらず温かいのに。


「だっ、だけど、もし私みたいなアラサーじゃ、裕介くんが結局興奮できなくて……『やっぱり年下の女の子の方がいい』って思われたら、どうしようかなって悩んでたんだよ」


 本物のこじらせお姉さんだ、と僕は思った。


 つまり、湯船の中で抱擁を望んだ背景には、ちゃんと相応の思惑があったわけだ。

 アニメやゲームの単なる真似事がしたいだけで、こんな行為に及んだんじゃない。


 僕の下腹部は今、美織さんの腰部付近に接触し、男性特有の部位をたかぶらせている。

 この可愛らしいお姉さんは、それを直接感じ取ることで――

 自分の女性としての魅力を、確認しようとしていたらしい! 


 誤解がなければ、まったく取るに足らない事情だった。


 ――だって美織さんは、真実可愛らしいんだから。



「美織さんより、素敵な女性なんか居ません」


 僕は、愛しさがつのる余り、強い口調で断言した。

 もはや、心に歯止めが効かなくなりつつあった。


「僕にとっては、美織さんが誰より一番です」


「――そっか。あはは、お世辞でも嬉しいな」


「そんな返事は卑怯ひきょうですよ。僕は真剣なんだ」


 ちからなく笑う美織さんとやり取りしながら、苛々いらいらせずに居られない。


「美織さんじゃなきゃ、僕は駄目なんです」


 いっそう互いの裸身を密着させ、肌が接する面積を増やす。

 殊更に性欲も刺激されるが、それより純粋な幸福感が優っていた。

 きっと僕の胸がきざ鼓動こどうを、美織さんは背中で感じているだろう。


 それにこうして抱き締めていると、たとえ僕より年上で、大人だとしても……

 美織さんは、ちからを込めれば壊れそうなほど華奢で、やっぱり女性だなと実感する。

 そんな素敵なお姉さんを、そっくりそのまま好きでありたいと、僕は心底強く願った。



「……裕介くん。君の気持ちが、本当なら」


 美織さんは、穏やかだが、怯懦きょうだを自ら振り払うようにつぶやく。


「もっと、私のこと――感じてみる……?」


 にわかにお姉さんの細い手が、湯の中で僕の手をそっと握った。

 互いの両手を、腰の位置から引き剥がし、ゆっくり持ち上げる。

 そのまま、美織さんは自らの豊かな胸へと、僕の手のひらを導いた。

 ふわふわして、押すと沈み込むような手触りが、左右の指から伝わる。

 僕は、長湯の影響もあって、自分が卒倒するんじゃないかと錯覚した。


「……う、ううっ。――美織さん、これは……ッ!?」


 ほとんど助けを求めるような声が、自然と漏れてしまう。

 だが、僕に抵抗できるだけの気力は、とっくに残されていなかった。

 たわわな双丘を両手で包み、ただ呆けたようにで続けることしかできない。

 そのあいだ、美織さんは時折「んっ……」と、せつなげな吐息をこぼしていた。

 そうした触れ合いが、二人っきりの浴室でいくらか続く。



 やがて、美織さんは湯船の中で立ち上がり、こちらを振り返って囁いた。


「……ねぇ裕介くん、このまま一緒に寝室へ行こうよ」


 僕は、とうとうお姉さんの誘惑に屈服し、言いなりになるしかなかった。




     〇  〇  〇




 浴室を出ると、脱衣所で二人共身体を乾かす。

 相手の濡れた肌の上から、バスタオルで隅々まで湯の滴を吸い取った。

 僕は美織さんの身体を、美織さんは僕の身体を、幾分遠慮がちに拭う。

 なかなか互いの裸を見慣れなくて、まだ所作から照れが抜けない。

 頭髪には一台のドライヤーで、代わる代わる温風を吹き付け合う。

 そうした有様は、じゃれ合う二匹の猫みたいだったかもしれない。


 洗面台の傍に畳んでおいた衣服は、そのままにしておく。

 たぶん次の朝が来るまで、強いて着用することはないだろう。

 美織さんは、脱衣所に着替えを持ち込んでいなかったようだ。

 あらかじめ、今夜に臨む決意を固めていたらしい。



 僕と美織さんは、どちらも生まれたままの姿で、寝室へ向かった。

 リビングから、仕事部屋を通り抜け、さらにその隣の一室に入る。

 窓はどれもカーテンで閉め切られているらしく、薄暗い部屋だった。


 美織さんは、その闇の中を探るようにして、先に奥へ進んだ。

 ほんの僅かな間を置いて、オレンジ色の光が暗がりに浮かぶ。

 円形のテーブルの上で、スタンドライトの灯りが点っていた。

 たった今、美織さんの手で電源が入れられたのだろう。


 室内には、真っ白で、大きなベッドが設えられていた。

 憧れのお姉さんは、その脇に立って、こちらを静かに振り向く。

 それで、僕も寝台の側まで、惹き付けられるように歩み寄った。



 そこに見て取れるのは、とても神秘的で、美しい光景だった。


 暗闇の中で暖かな光彩が、二人の姿をぼんやりと照らし出す。

 取り分け美織さんの裸体は、あたかも古い絵画に描かれた女神みたいに見えた。

 栗色の長い髪がきらめきを帯びて波打ち、肌は透き通るように白く輝いている。

 か細い手足も、豊かな胸の膨らみも、滑らかに起伏する腰や臀部でんぶの輪郭も……

 ありとあらゆる美織さんのすべてが、ただただ綺麗で、素晴らしいと思った。

 愛情と性欲とを、いっぺんに衝き動かされて、感激さえ覚えずに居られない。


 とはいえ、本能に身を委ねてしまう前にまず、済ませておくべきことがある。



「美織さん。もう今更なんですけど、改めてきちんと言っておきます」


 僕と美織さんは、正面から裸のまま、真っ直ぐに向き合う。


「僕は、美織さんのことが好きです。僕と恋人同士になってください」



 やはり本気で好きだからこそ、曖昧あいまいな関係にはしたくない、と僕は思った。

 同時に本気で好きだからこそ、いまだに自分が恋人でいいのか、とも思う。


 もっとも話し合ってみて、お姉さんにもお姉さんなりに引け目のあることがわかった。

 だからって、僕が何者でもなく、取るに足りず、頼りない男なのは変わりないけれど。

 それでも自分の何かを相手に捧げて、二人で一緒に居たいって気持ちは、本物だと思う。

 将来がどうなるかはわからないにしろ、美織さんが望むのなら同棲もやぶさかじゃない。

 そのためにも、正式に交際の意思を伝えないわけにはいかなかった。



「何だか、律儀だよね裕介くんって。……それにすっごく、お人好しだよ」


 美織さんは、優しく微笑みながら言った。


「私みたいなアラサー女との間柄なんて、有耶無耶うやむやにしておけばいいのに」


「どうして、そんなこと――はっきりさせておかなきゃ、落ち着きません」


「いずれ私よりずっと若くて、可愛い女の子が君のことを好きになるかも」


 念押しするようにして、にわかに馬鹿げた仮定を持ち出されてしまった。


「きっと正式に交際しはじめちゃったら、そのとき私が君の邪魔になるよ。いいの?」


「僕にとっては美織さんが一番だって、これだけ言っても信じてもらえないんですか」


 やや強い口調で反論し、お姉さんに重ねて好意を伝える。

 気付けば、僕は美織さんの恋人になろうとして、躍起やっきになっていた。


 これは、とても不思議なことだ――

 この部屋へ連れて来られるまで、むしろ僕を誘惑していたのは、お姉さんのはずだったのに。

 いつの間にか立場が逆転し、僕がお姉さんを求め続けて、傍から離れたくないと感じている。

 浴室で逆上のぼせかけた頭が冷めても、いまや熱情が治まる気配は一向になかった。


 ひょっとして、美織さんはこうなることがわかっていたのだろうか? 

 だとすれば、僕は目論見もくろみにまんまと乗せられているのかもしれない。

 あるいはそうだとしても、恨むつもりなんかひと欠けらもないけど。



「……だったら、信じさせてくれる?」


 美織さんは、こちらを枯葉色の瞳で見詰めている。


「君の方から、証拠にキスして欲しい」



 このに及んで、当然こばむ理由はなかった。

 美織さんの肩へ手を乗せ、互いに顔を近付ける。

 まぶたを伏せると、強請ねだられるままに口唇を重ねた。


 僕にとって、生まれて初めてするキスだった。

 たぶん「過去に恋愛経験がない」というお姉さんも、それは同じだったんだろう。

 二人共、相手の唇をついばむ所作が、明らかにぎこちなくて、不器用そのものだった。


「……何だか、おかしいね私たち」


 たっぷり三〇秒余りキスしたあと、美織さんは恥ずかしそうにつぶやく。


「さっきもう、二人で一緒にお風呂へ入って、こうしてお互い裸も見せ合ってるのに――やっと今、君から正式に告白されて、初めてキスしてる」


 たしかに段取りも何もかも、本当にメチャクチャだと思う。

 まさかファーストキスを七歳年上の女性と、夜の寝室で、おまけに全裸で向き合って済ませるだなんて……僕自身も、かつて思い描いたことすらないシチュエーションだ。


 それにまだ夢想的な一夜は、これで終わりじゃない。


「あのね、裕介くん」


 美織さんは、両手を僕の背中へ回し、こちらに裸体を預けてきた。


「私も、君のことが好き。本当に大好き」


 双方の肌と肌とが、正面から触れ合う。

 僕もお姉さんの腰を引き寄せ、改めて強く抱き締めた。

 浴室内での抱擁よりも、いっそう相手を近くに感じる。

 柔らかな裸身の感触が、余すところなく伝わってきた。


 不意に美織さんが爪先立って、またキスを求めてくる。

 それに応じて、二度、三度……と、夢中で唇を重ねた。

 どちらも少し息切れしながら、熱心にむさぼり合う。



「――えっと。それから、言い忘れてたんだけど」


 やがて顔を離すと、美織さんはちょっぴりもじもじして言った。

 急に視線を下へ向け、それから逆に上目遣いでこちらを眼差す。


「ゆっ、裕介くん、『とても逞しいのね』……?」


「……いやそれ、別に言わなくてもいいですから」


 真面目な表情で予期せぬ言葉を掛けられ、思わず呆れてしまった。

 まさか、成人向け美少女ゲームで得た無駄な知識を、本当に実践しようとするとは。

 このお姉さんと来たら、時折妙なタイミングでぽんこつな言動が炸裂するんだよな。

 そこが可愛らしくもあるけど、なかなか油断ならない。


「あっ、あはは。そっか、やっぱそうだよね……」


 美織さんは、若干慌てて、失敗を誤魔化すように笑う。

 それから半歩後退りし、ちらりと横目でベッドを見た。


「その、それじゃ――こっち、来てくれるかな?」


 僕は「……はい」と短く答えて、素直にうなずく。



 まずは美織さんが白いシーツの上で、仰向けに裸身を横たえた。

 次いで、僕はベッドの縁に腰掛けると、その傍らで上体を捻る。

 そのまま覆い被さるようにして、お姉さんの顔を覗き込んだ。


「ねぇ裕介くん。初めてが私で、後悔しない?」


「それはまるっきり僕の台詞ですよ、美織さん」


 心配そうに訊かれて、僕は苦笑混じりに返事した。


「初めての相手が僕で、よかったんですか」


「……裕介くんがいいの。他の誰でもなく」


「美織さんを好きになることができて、僕は最高に幸せです」


「うん、ありがとう。私もね、今とっても幸せだよ裕介くん」


 美織さんは、ようやく安心した様子で、ちいさく呼気を吐き出した。

 でも、微妙に躊躇する素振りを覗かせてから、ひとつだけ付け足す。


「あのね、それと出来れば一度でいいから――愛してる、って言って欲しいな」


「愛してます、美織さんのこと。頼まれなくたって、今から何度でも言います」


 遠慮がちな願いを、僕は即座にかなえてみせた。

 ごく他愛のない要望だったし、また僕のいつわらざる本心で、わかり切った事実だからだ。

 ただそれを伝えるだけで、美織さんを喜ばせられるのは、たぶん素敵なことだと思う。



「あはは、嬉しいよ。私、本当に幸せ……」


 美織さんは、ベッドの上に寝転がったまま、こちらへ左右の手を伸ばした。

 綺麗な手のひらで、僕の両頬を大切そうに優しく挟む。少しくすぐったい。


「こんな年上のお姉さんだけど、君と一緒に大人にさせて?」


 もちろん、僕はお姉さんから言われた通りに従う。

 さすがに欲望を抑え続けるのも、そろそろ限界だ。



 こうして薄暗い寝室の中で、二人は裸身をからみ合わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る