6:お姉さんと一緒にお風呂

 ――ああ、直視しちゃ駄目だ! 

 とは思いながらも、目をうばわれずに居られない。


 美織さんの裸身には、僕の心を虜囚りょしゅうと化すのに充分すぎる魅惑が溢れていた。

 豊満だが形の整った胸の双丘は、薄紅色の頂点がつんと上向いて主張している。

 白くて滑らかな腹部は、腰部や臀部でんぶに掛けてなだらかな傾斜の坂を成していた。

 両足の付け根に挟まれた箇所には、そっと控え目な茂みが息づいている……


 僕は、そのすべてを余すところなく目の当たりにし、おそらく一〇秒以上忘我ぼうがしていた。



「あの、裕介くん。どうかな、わっ私の身体――」


 少し間を挟んで、言葉を先に絞り出したのは美織さんだった。


「君の目で見て、どこか変なところとかはない?」


「……と、とても素敵だと思います。本当に……」


 ようやく我に返ると、僕は慌てて思ったままのことを言った。


「あまり上手いことは言えませんけど……。どうしていいかわからなくなるぐらい、綺麗です」


「……そっか。それなら、よかったかな。――うん、それにやっぱり嬉しい。ありがとう……」


 美織さんは、自分自身を納得させるような仕草でうなずく。

 僕に小声で礼を言うと、そのまま洗い場の側へ歩み寄った。

 手元の水栓を捻り、シャワーから降る温水で裸身を濡らす。



 僕は、浴槽の中でうつむき、湯船の液面をじっと見詰めた。

 傍らに洗い場の水音を聞きながら、黙って沈思ちんししてしまう。

 急転する状況に振り回され、気持ちの整理が追い付かない。


 今夜一晩、お姉さんと一緒に過ごすと決まったときから、当然色々な可能性を想像した。

 だから少なくとも、二人が年齢相応の男女関係に及ぶ場合も考えなかったわけじゃない。

 でも、いざ混浴する事態になってみると、心の準備は何ひとつできていなかったようだ。

 それどころか美織さんの裸を見ただけで、茫然自失のていに陥ってしまうとは……。


 少し気を緩めると、すぐまた綺麗な裸身が脳裏に浮かんだ。

 それほど鮮烈な映像として、まぶたの奥に強く焼き付いていた。

 自分の身体がしんからうずいて、頭の中がおかしくなりそうだった。

 熱くき立った血液が、勢いよく下腹部へ流れ込んでいる。



 ……しばらくして、シャワーの水音が洗い場から聞こえなくなった。


「ねぇ、裕介くん――」


 名前を呼ばれて振り向くと、美織さんが浴槽の間近に立っていた。

 僕が一人で懊悩おうのうしているうちに、髪や身体を洗い終えたみたいだ。

 露わな素肌で再び視覚を刺激され、心臓が殊更に早鐘はやがねを打つ。


「ちょっぴり窮屈きゅうくつかもしれないけど……私も、湯船に浸からせてもらうね?」


「あっ、ああ。そ、それはその――ま、待ってください美織さんッ……!!」


 僕は、半ばすがるような声を発して、お姉さんを懸命に制止しようとした。

 そうして、もし可能なら入れ替わりに湯から上がって、浴室を出ていたと思う。

 でも実際には、湯船の中で座ったまま、その場に留まることを選んでしまった。

 なぜなら、下半身が平時と異なる容態にあって、見られたくなかったせいだ。


 美織さんは、こちらの事情なんかおかまいなしで、浴槽の中に入ってきた。

 屈むように湯へ裸身を沈め、すぐ隣に並んで座る。互いの肩が少し触れた。



「……み、美織さんは、どうして――」


 今更だが、僕は根本的な疑問について、改めて訊かずに居られなくなった。


「どうして、いきなり僕に今夜外泊していけって、言ったりなんかしたんですか」


「どうしてって……もうお互い大人だから、って理由じゃ納得できなかったかな」


「たっ、たとえ大人だって――恋人同士になろうかって状況になった矢先、突然二人でお風呂に入るのは、微妙におかしいんじゃないかと思います……」


 要するに結局、ずっと引っ掛かっているのは過程プロセス段階ステップの問題なのだ。

 しかも美織さんは、これまで一切異性と交際した過去がない、という。

 そんなお姉さんが僕なんかと、かくも性急な男女関係へ雪崩れ込もうとするのはなぜか。

 お互いネットで知り合ってから一年以上、現実で顔を合わせてからは三ヶ月前後経過した相手とはいえ、この状況に不可解さを感じてしまう。


 普通だったら……そう、、もっと慎重に互いの仲を深めようとするんじゃないだろうか? 僕も女性と付き合ったことがないから、よくわからないけど。

 どうしても何かしら、騙されているような気分をぬぐい去れない。


 やがて、美織さんは少しためらいがちな口調で、こちらの質問に応じた。


「……あのね。私が恋愛経験ないってことは、さっき話したよね」


 いったん、前提を確認するように語り掛けられ、僕はうなずいてみせる。


「だから実は、前々から今日みたいな日のために予習してたんだ」


「よ、予習って……どういうことですか?」


「それは私なりに色々だよ。例えばね――」


 仔細を重ねてたずねると、美織さんは湯船の中でやや背を丸める。


「最初のうちはネットで検索して、恋愛関係の記事を読んでみたり。……具体的には、『好きな男の子と初めて二人で一夜を過ごすのなら、交際しはじめてからいつ頃の時期がいいか』とか、そういう類のテキストを調べて、勉強したんだよね」


 あっ、ああーっ……。

 なるほどよくありますね、恋愛コラムばっか集めた女性向け情報サイトとか。

 個人的にそれ自体を閲覧したことはあまりないけど、有名ネットサービス企業が運営しているニュースページで、その種の記事が紹介されているのはよく見掛ける。

 あとは恋愛体験談をまとめたブログとか、ユーザー投稿型質問サイトの恋愛ページなんかも、この場合は当てまるのかな。


「でも、そういう記事って沢山調べて読めば読むほど、何が正解かわからなくなっちゃって」


 美織さんは、溜め息混じりに言った。


「SNSの恋愛相談ページを覘いてみたら、初デートから初体験までの期間は『約二、三ヶ月』って人も居れば、『半年以上掛かった』って人も居て。そうかと思えば、『早いか遅いかなんて人それぞれで、一概に期間は決まっていない』って意見もあったし、『合コンで知り合った相手とその日の夜にいきなりホテルへ行ったけど、その後はちゃんと結婚して今は幸せな夫婦です』ってコメントも書き込まれてたんだよね……」


 お姉さんの話を聞きながら、それはそういうものだろう、と僕は思った。

 恋愛なんてつかみどころがないもの、人それぞれで何が普通かはわからない――

 そう言い掛けたものの、寸前で思い止まり、にわかに自己嫌悪の念に駆られる。


「人それぞれ」のはずだと考えつつ、一方では自分が「普通は初めての恋愛なら」かくあるべきという基準を、いましがた内心規定きていしようとしていたことに思い至ったからだ。

 恋愛経験値の不足という点で言えば、僕だって美織さんとまるで変わらない。

 よくよく思案し直すと、所詮しょせんは先入観だけで物事を測っていたことがわかる。


 しかし美織さんは、そんなことに気付く素振りもなく、今日の「予習」に関する話を続けた。


「だから、ネットの記事以外も参考にすべきだと思うようになって」


「……それで他には、どんなものを参考にすることにしたんですか」


 僕は、ひとまず居心地悪さを誤魔化そうとして、話題の先をうながす。

 すると、続く返答で知らされたのは、想像の斜め上を行く事実だった。



「ラブコメ系の深夜アニメと、男の子向けのえっちな美少女ゲームだよ」



 …………。


 ……それはまた、何というか……。

 僕は、さすがに驚愕きょうがくを禁じ得ず、どういう反応を示すべきかで迷った。

 お姉さんのこじらせた思考と言動で、本当に困惑させられてばかりだ。


 まさか現実世界の恋愛にまで、二次元で描かれた虚構フィクションを持ち込もうとするとは。

 たしかに日頃から、お姉さんがサブカル媒体に親しんでいるのは知ってますが! 


 一方、美織さんは至って真剣な様子だった。


「もし恋愛が人それぞれで、何が正解か決まってるわけじゃないなら――アニメやゲームを参考にしても、それはそれでかまわないんじゃないか、って思ったんだ」


「……え、えっと――そっ、それはどうなんでしょう……?」


「アニメやゲームって、基本的にエンターテイメントだよね」


 またもや返事に詰まっていると、美織さんが持論をつまびらかに話す。


「エンタメってことは、娯楽作品――つまり、送り手が想定した受け手を楽しませたり、気持ち良くさせたりするために作られたものでしょう。だったら、男の子向けのアニメやゲームで描写される恋愛には、男の子を喜ばせる理想的な要素が必ず含まれるはずだと考えたの」


 美織さんは、湯の中で座ったまま、こちらを振り向いた。

 枯葉色の瞳を微妙にうるませ、内側に僕の顔を映している。

 こんなに近い距離で、見詰め合ってしまった。

 今は入浴中で、当然お互い全裸だというのに。



「……私ね、好きな男の子を沢山喜ばせたい」



 とても透明な声音で、美織さんは静かにつぶやく。

 僕は、その有様を見て、心揺らがずには居られなかった。


 繰り返すけど、アニメやゲームの恋愛を現実で参考にするなんて、正直馬鹿げていると思う。

 それらは架空の物語だし、基本的に想定購買層の需要を満たすために作られた商品だからだ。


 ……でも、それゆえ消費者の願望が少なからず詰め込まれていることも、また事実だろう。

 美織さんの言い分は、逆に「だからこそアニメやゲームを参考にした」ということらしい! 



「ただね、これだけは言っておくよ裕介くん」


 美織さんは、あくまでも真面目な面持ちで続けた。


「さっき夕食のときにも言ったけど――私ってね、本当に悪い年増女なんだ。これまで恋愛してこなかったことを凄く焦ってるし、そんな自分をどうにかしたくて『気に入った年下の男の子を絶対に手に入れてやる』って、ずっと本気で考えてる。そのためなら、何でもしてみせるって」


「それでいきなり『同棲しよう』だなんて、アニメやゲームみたいに持ち掛けてきたんですか」


「男の子って、女の子と同棲したいものなんでしょう。あと趣味を共有できると喜ぶんだよね」


「ひょっとして、夕食前に劇場版『ラブハニ』を一緒に見たのも、そのせいだったんですか?」


「は、初めて男の子と二人で夜を過ごす日なのに、正直言えばどうかとも思ったんだけど……」


 もちろん、初めて自室へまねき入れた異性と、二人で劇場版『ラブトゥインクル・ハーモニー』を見てはいけない、なんて決まり事はない。

 とはいえ何事においても、場に相応しい雰囲気というものはある。

 さすがに美織さんも本心じゃ、多少なりと疑念を抱いていたようだ。

 まあ、そのわりにめっちゃサイリウム振りながら落涙らくるいしてたけどね。

 ていうか『ラブハニ』は僕以上に美織さんが好きなアニメだと思う。


「予習の成果なら、しっかり他にもあるんだよ」


 美織さんは、尚も付け足す。


「ラブコメ系の深夜アニメと同じ展開へ持ち込むには、手料理をご馳走するイベントが外せないことも学んだから。お泊りエピソードでの鉄板展開は、完璧に把握してあるもん」


「いやあれ、同棲状態の疑似体験が目的じゃなかったんですか。美味しかったですけど」


「エロゲも何本か、お姉さんキャラを攻略してみたし。えっちなことをするときには、ちゃんと相手の下半身を見詰めて『とてもたくましいのね』って言わなきゃ駄目なんでしょう」


「それはたかよった知識だと思いますよ!? ていうか見詰めるつもりですか下半身を!?」


 僕は、美織さんとやり取りしているうち、少し頭がくらくらしてきた。

 こんな特殊な状況が風呂の中で続いてるんじゃ、それも仕方ないだろう。

 冷静さを維持し続けろと言われたって、容易なことじゃない。



 ……美織さんが殊更に驚くべき行動を取ったのは、まさにそのときだった。


「えっと、裕介くん。それから私ね――」


 にわかに控え目な水音が鳴って、湯船の表面に波が生まれた。

 お姉さんが腰を浮かせ、浴槽の中を移動しようとしたからだ。


「ふ、二人で一緒にお風呂へ入るときのことだって……どうすれば男の子が喜んでくれるのか、きちんと予習したおかげで知ってるから」


 いったい何をするつもりなのか――

 と、目を白黒させていたのも束の間。


 美織さんは、僕が座っている正面の位置で、こちらへ背中を向けて腰を下ろした。

 二人のあいだに横たわる距離は、三〇センチにも満たない。まさにすぐ目の前だ。

 僕は、湯の中で胡坐あぐらいていたけれど、少し仰け反り、左右の足を崩してしまう。

 そのため、僕が伸ばした両足に挟まれる位置で、お姉さんが座っている状態になった。


「……ねぇ裕介くん」


 美織さんは、そっとさえずるような声音で言った。


「このまま私のこと、後ろから抱き締めて」


「そ、そんな、後ろから抱き締める、って」


 僕は、恐るべき誘惑によって語彙ごい力を失い、ただ同じ言葉を繰り返す。


 正面には、白くて綺麗なお姉さんの背中があった。

 栗色の長い髪は、水気でしっとりと濡れ、タオルを巻いて高く結い上げられている。

 露わになったうなじからは、短いおくれ毛が幾本か垂れており、酷く艶めかしかった。


 美織さんの表情を窺い知るのは、真後ろに座っているだけだと難しい。

 だが、耳の辺りが真っ赤に染まっていることは、はっきり見て取れる。



「お願い裕介くん、早く――」


 美織さんは、殊更に催促さいそくしてきた。


「早く、抱き締めて欲しいの」

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