5:お姉さんとの夜は更けゆく

「……今の話を聞いても、まだ私のことを『素敵なお姉さん』だと思ってくれる?」


 美織さんは、三杯目のワインも飲み干すと、少し間を置いてから問い掛けてきた。

 ちょっと不貞腐ふてくされたような口調で、素振りに子供が愚図ぐずるような雰囲気を感じる。


「あ、改めて言うけど、私……今まで男の人とお付き合いしたことなくて。だから二八歳なのに恋愛経験もないし――とっ、当然その延長で済ませておくべき経験もないんだけど」


「恋愛経験の有無で、僕は美織さんのことを素敵だと思ったわけじゃありませんよ」


「ほ、本当に? 『二八歳にもなって処女だなんて、何か人間的に問題があるせいで他の男からけられ続けてきたんじゃないか』って、私の素性すじょうをあれこれ疑ったりしてない?」


 嘘偽うそいつわりなく答えたつもりだが、殊更に食い下がられた。

 この可愛いお姉さん、色々とよくわからない思い込みに囚われているようだ。

 無駄に女性の処女性をありがたがるような男性の話なら、たまに聞くけれど……

 言われてみれば、逆に恋愛経験が皆無だとわかって「何かおかしい」と感じる場合はあり得るかもしれない。それが魅力的で、一定以上の年齢にある女性なら尚更なおさらだ。


 でも僕は、美織さんの自宅を見せてもらったし、趣味や仕事のことも詳しく聞いたから、現状に至った要因は大まかに理解している。

 また、仮に伝えられた話が鵜呑うのみにできないにしろ、やはりお姉さんを笑えない。

 だって、まだ二一歳とはいえ、僕も恋愛経験の乏しさは似たようなものだからだ。


「あのですね、美織さん」


 僕は、チーズハンバーグを残さず平らげてから言った。


「僕だって、今まで女性とお付き合いしたことはないです」


 ……直後の三秒間、まるで世界すべてが止まったような静寂せいじゃくに包まれる。

 やがて空になったワイングラスを、美織さんはカウンターの上へ置いた。

 それが合図だったかの如く、再び周囲の時間が動き出す。


「……中高生の頃も大学時代も、そのあとも――本当に誰ともお付き合いしたことがないの?」


「ありませんよ、まったく。ずっと暗い一〇代でしたし、今も大学中退してフリーターですし」


 お姉さんから念押しするように問いただされ、僕は取り繕う気もなく首肯しゅこうした。


「美織さん以外の女性に好かれたことがないです」


「そっ、それじゃ他の女性とえっちなことも――」


「まだ一度もしたことがありません。童貞ですよ」


 重ねて答えながら、僕もワイングラスを傾ける。

 過去に性交経験がないことを明かすのは、さすがにちょっと気恥ずかしい。

 いかにも世慣れず、魅力に欠けた男だと、自ら公言している気分になる。


 だが、童貞だと告げた途端、なぜか美織さんの表情は急に柔和さを取り戻した。

 それどころか、枯葉色の瞳に不思議な光彩が混ざって、きらきら輝きはじめる。


「ずっとこれまで、見る目のない女の子としか、知り合う機会がなかったんだね」


なぐさめなくてもかまいませんよ。自分に甲斐性がないことぐらい、わかってます」


「慰めなんかじゃないよ。裕介くんの素敵なところ、私はちゃんと知ってるもん」


 僕の自虐じぎゃくを退けて、お姉さんはけ合うように言った。

 ほんの直前まで沈みがちだった声音は、いまや平時の明朗さを帯びている。

 互いの傷を舐め合うような会話のはずだが、嘘みたいに陰鬱さがなかった。

 この変わり身の早さも、アルコールを摂取した影響なのかもしれない。


「裕介くんは、とっても気持ちが優しくて、いつだって純粋で――」


 美織さんは、喜びと愛しさをめるようにつぶやく。


「私みたいな売れ残りのアラサー女にも、ちゃんと向き合ってくれる男の子だよ」


 双方共に恋愛弱者である事実が、お姉さんを力付けたのだろうか。

 とはいえ、これで美織さんの引け目を感じる要素が霧散むさんした一方、改めて僕が取るに足りない人間だと明らかになったはずだ。


「……えっと。その、僕が……僕なんかが、美織さんのことを――」


 だから結局、僕は一度遠回しに投げ掛けた問いを、意気地なく訊き直してしまった。


「本気で、好きになったりしていいんでしょうか。大学中退のフリーターなのに」


「男性に経済力なんて求めてないよ私。お金は絵を描けば、自分で稼げるんだし」


「でも、宙ぶらりんな僕と違って、美織さんは本当に素敵だから……」


「逆に裕介くんはどうして、そんなに私を肯定ばかりしてくれるの?」


 自己批判を並べていると、あべこべに美織さんから訊き返された。

 僕は、唐突な反撃を受けて、咄嗟に応戦する術を見出せなかった。


「私って、たぶん君以外の人から見れば、かなり悪い年増女だよ。――だって、経緯はどうあれ七歳も年下の男の子を、自分のものにしようとしてるんだもん。二一歳って大人だけどね、まだ何かをはじめたいと思って努力すれば、何かできる可能性がある年齢だと思う。……君は、その若さをアラサーの私に売り渡しちゃって、本当にいいのかな」


 美織さんのたしなめるような言葉が、かえって僕には誘惑にしか思えなかった。

 なぜなら、それは「恋人同士になれば、どちらも相応の対価をささげねばならない」という事実を意味しているからだ。まるで取り引きの公正さを、裏書きされたようなものだった。


 僕は、お姉さんの狡猾こうかつさをうらめしく感じ、なじりたくなった。

 しかし喉まで出掛かった台詞を、寸前で飲み込んでしまう。


 そのとき、突然リビングに<――ピピッ♪>という、電子音が鳴り響いたせいだ。



「……お風呂の準備が済んだみたいだね」


 美織さんは、おもむろにカウンター脇の壁面を眼差す。

 視線の先を追うと、端末らしきものが設置してあった。


「夕食を作っていたとき、給湯器きゅうとうきのスイッチも入れておいたから」


 今のアラームは、浴槽よくそうの湯張りが終了した合図だよ――と、お姉さんは付け加える。

 あらかじめ浴室の掃除も、今日の外出前に終わらせてあったとか。用意万端ですね。



 僕は、今日の夜がまだ長いことを、ようやく実感しはじめていた。




     〇  〇  〇




 さて、何はともあれ夕食後になると――

 美織さんは当然の如く、僕にお風呂へ入るように勧めてきた。

 先に入浴することをうながされて、いささか戸惑ってしまう。


 すでに時計の針は午後九時を回り、窓の外にも夜闇で染まった街並みが広がっている。

 こんな時間帯に女性の部屋で入浴する意味は、僕だってそれなりに意識せざるを得ない。

 ただ、それを差し引いても日中は外出したから、汗やほこりを洗い落としておくべきだろう。


 ――いやしかし、女性より先にお湯を頂くのは、いかがなものか……? 

 なんてことも考えたが、まだ自分は美織さんと同棲しているわけじゃない。

 あくまで今夜のところは、来客として部屋に招かれている立場なんだよな。

 ちなみにお姉さん自身は「夕飯の食器を片付けたあとに入るから」という。


 それで、少し逡巡したものの、僕は素直に入浴させてもらうことにした。



 脱衣所では、できるだけ生地にしわが付かないように衣服を脱いで、丁寧に畳む。

 何しろ突然外泊する事態になったせいで、湯上りに着るものが他にないからな。

 無造作に脱衣籠だついかごへ放り込めないぶん、手間が掛かって煩わしいけど仕方がない。


 僕は、すっかり裸になると、硝子がらす製のドアを潜って浴室へ入った。

 小綺麗な室内は、浴槽と洗い場の占める割合が概ね半々ぐらいだった。

 単身者の住居に設置された風呂場としては、比較的広い印象があるな。


 まずは水栓をひねり、ざっとシャワーで肌をらす。

 次いで、シャンプーとリンスを拝借し、しっかり頭髪を洗った。

 それからボディソープを使用しつつ、くまなく全身をこすっていく。

 泡と一緒に汗や汚れを流すと、湯船にゆっくり肩まで浸かった。

 手足が温水で弛緩しかんし、自然と口から呼気が漏れる。


 ――美織さんの部屋を訪ねてから、初めて緊張が解けたかもしれない。


 何だかんだと、やっぱり気疲れしていたんだなあと思う。

 もっとも、このあと明日の朝日が昇るまでに何が起こるかを想像すると、落ち着いてばかりも居られないけど。むしろ本格的に精神力を試されるのは、風呂を上がってからかも……。



 と、浴槽の中でくつろいでいたら。

 にわかに浴室の外から、何やら物音が聞こえてきた。

 僕は、はっとして顔を上げ、出入り口のドアを眼差す。

 磨り硝子越しに脱衣所の様子を窺うと、人影が見て取れた。

 ぼんやり浮かび上がる姿は、栗色で長い髪の女性のそれ――


 そこに居るのは、明らかに美織さんだった。

 何かただならぬことが起こるのでは……と、僕は本能的に予感した。

 果たして見立ての正しさは、ほぼ間を置かずに証明されてしまう。


 磨り硝子越しに覗く人影が、予告なしに着衣を脱ぎはじめたからだ。

 僕は、視界に映るものが現実離れして感じられ、思わず目を剥いた。


 ――お姉さんは、いったい何をしているのか? 

 いや、そんなことはおそらく疑うまでもない。

 浴室と隣接した脱衣所で、服を脱いだあとの行動と言えば、普通は入浴だろう。

 ただし、今この場面で普通じゃないのは、すでに僕が浴室の内部に居ることだ。

 すなわち、このままだと男女二人の混浴になってしまう。


 どう考えてもまずい、どうすればいいのか。

 ていうか、美織さんは何を考えているんだ。


 突如、謎の状況に置かれ、僕は当惑するばかりだった。

 浴室の出入り口は、脱衣所に通じるドアだけしかない。

 でもお姉さんは、まさにそこからこちら側へ立ち入ろうとしているはずだ。

 ゆえに逃走経路はふさがれており、もはや僕は実質的に追い詰められている。


 ――こっ、これじゃ、浴室から逃げ出す手段はない……!? 


 なぜ僕に対して、美織さんが先に入浴するようにうながしたのか、今頃になって気付いた。

 きっと、僕を風呂場から逃げられない状態にして、否が応でも混浴するつもりだったんだ。



 ……す術なく湯に浸かっていると、やがて浴室で唯一のドアが開く。


「あっ、あの。裕介くん――」


 美織さんは、こちらの反応を窺うような挙措で、おずおずと風呂場に姿を現した。

 白い素肌の上から、大きなバスタオルを巻き付けただけの恰好だ。下着を着用している気配もなく、身体を覆うものを一枚取り去れば、きっと全裸だろう。豊かな胸部やくびれた腰が綺麗な曲線を描き、すらりと伸びる手足は驚くほどか細い。露出した肩や太ももがなまめかしかった。


「え、えっと。私も君と、一緒にお風呂に入って……いいかな?」


「いいかな、って……も、もう入っちゃってるじゃありませんか」


 事後承諾を求められたものの、僕は消極的に非難することしかできない。

 だって、もう袋のネズミも同然だし、浴槽の中で金縛りに遭ったように身体が動かなかった。

 極度の異常事態に動揺したせいか、お姉さんの魅力に心が囚われてしまったせいか……

 おそらく、その両方が同時に作用したのだろう。


「ていうか、さっき夕食で使った食器を洗っていたんじゃなかったんですか」


「しつこい汚れがないかたしかめて、もう食洗器に全部セットしてきたから」


 今更のように問い質すと、美織さんはもじもじしながら答えた。


「――だから、私もお風呂に一緒に入ろうと思って」


「な、なんで僕が上がるまで待たなかったんです?」


「本格的に同棲しはじめたら、こういうことだって頻繁にあるよきっと」


「まさか実地に試すつもりで、予告もなく混浴しようとしたわけですか」


「わっ、私は君と一緒に入浴したりしない、なんて言ってないもん……」


 ほとんど、駄々をねる子供みたいな言い逃れである。

 だが、そんなお姉さんの横暴を、僕はなぜか酷く可愛らしいと感じた。

 そのせいで少し口篭もり、いよいよどうしていいやら混乱してしまう。

 湯船の中で僅かに背を丸め、ただ成り行きにうろたえるばかりだ。



 すると、美織さんはこちらの反応を窺うように続けた。


「裕介くんは、いきなり混浴コンヨクしようとしてくるようなお姉さんは嫌い?」


「いえ、その……嫌いってことはありませんけど。僕だって男ですから」


「裕介くんは、いきなり婚約コンヤクしようとしてくるようなお姉さんは嫌い?」


「って、どうして急に婚約するって話が出てくるの!? 重いですよ!」


「裕介くんは、いきなり拘束コウソクしようとしてくるようなお姉さんは嫌い?」


「逃げられないようにする気ですか!? 事件性が出てきましたけど!」


「本格的に同棲しはじめたら、こういうことだって頻繁にあるよきっと」


「本格的に同棲しはじめたら、頻繁に拘束するつもりですか!?」


「ひとつ前の話だから安心して。頻繁に婚約を申し込むだけだよ」


「それも充分厳しいと思いますけど!? 心理的圧力の面で!!」


 はにかみながらお姉さんは囁いたものの、まるで心穏やかに聞けない話だった。

 本格的な同棲が開始してしまったら、その先に何が待ち受けているのだろうか。

 ほんの僅かながら、将来の雲行きに怪しさを感じてしまう。



「……ねぇ裕介くん。実は私、お願いがあるんだ」


 ほどなく、美織さんが浴槽側へ一歩進み出て言った。

 綺麗な声音はかすれ、華奢な肩もかすかに震えている。



「わっ、私の身体――裕介くんに見て欲しい……」



 僕は、あっと短く叫んでから、美織さんを咄嗟に制止しようとした――

 たおやかな手がバスタオルを、自分で裸身の上からぎ取ろうとしていたからだ。

 こんなに至近距離で、そんなことをされてしまったら、確実に大変な事態になる。


「そっ、それは駄目ですよ美織さんッ!」


「君のことが好きなんだ、本当に私……」


 美織さんは、半ば熱に浮かされたようにつぶやいた。

 さっき飲んだ酒の酔いが回っているとしか思えない。


「もう二人は大人だって、何度も言ったでしょう? ――だから私のことを好きになってくれるなら、裕介くんには全部を受け止めて欲しい。私の全部、愛して欲しいから……」


 言葉が途切れるよりも早く、はらりとバスタオルが取り除かれる。



 ついに覆い隠すものを失って、美織さんの一糸まとわぬ裸身が目の前にさらされた。

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