4:お姉さんと二人だけの夕食

 美織さんが調理を再開したので、そのあいだに僕はゲームをプレイさせてもらう。

 食事を準備してくれている傍で、自分だけ遊んでいると居心地悪さを感じるけど……

 本日のところは来客あつかいということで、素直にもてなされておく。


 液晶テレビの横には金属製ラックがあって、据置機の本体がまとめて何種類か置いてあった。

 黒いゲームハードの接続をたしかめ、電源を入れて起動する。隣室から持ってきた格闘ゲームのソフトを、ディスク挿入口そうにゅうぐちからセットして立ち上げた。

 キャラクターの選択画面では、無難に一番スタンダードなキャラクターを選ぶ。

 試合開始を告げる音声と共に、コンピューターがあやつる敵との対戦がはじまった。


 僕は、画面上のキャラを操作しつつ、今日の出来事をあれこれ思い返していた。


 まさしく、怒涛どとうの展開だよな……。

 あまりにも濃密だし、初めての体験が多過ぎる。


 初めて女性から同棲を提案されたと思ったら、扶養してあげると言われて。

 初めて女性と両想いになれたと思ったら、いきなり相手の部屋へ招かれて。

 初めての恋人は年上のお姉さんで、初めて知り合ったイラストレイターで――

 このあとは初めて、血縁者以外が作ってくれた手料理を、ご馳走になると思う。

 さらにそのまま、僕は初めての恋人と、初めての一夜を共に過ごす予定だった。


 やばい。なんだこのあり得ないつながり方の連続攻撃コンボ

 めくり飛び込み中キックからの立ち大パンチキャンセル必殺技でもヌルいでしょこんなの。

 そもそも美織さんの年上と思えない可愛さ、喰らうと一撃で持っていかれる体力ゲージの量がハンパない! ていうか、こんなお姉さんの攻撃なら誰だって実質ガード不可なのでは? 


 ……なんて考えつつゲームしていたら、七ステージ目でゲームオーバーになった。

 対空技を入力失敗した直後、敵キャラに畳み掛けられたせいだ。集中力を欠いている。

 キッチンから僕の心をき乱す張本人の声が聞こえてきたのは、丁度そのときだった。


「――晩ご飯できたよ、裕介くん。冷めないうちに一緒に食べよ?」


 美織さんがエプロンを外し、ダイニングカウンターへ手招きしている。

 僕は、すぐにゲーム機の電源を切ると、誘われるまま室内を移動した。




     〇  〇  〇




 カウンターの席に腰掛けると、美織さんの手料理が目の前に並んでいた。

 粗挽き肉のハンバーグ、かぼちゃのポタージュ、シーフードサラダ……

 どれも見た目と香りだけで、酷く食欲を刺激される。


「裕介くんはお酒飲むの、大丈夫だよね?」


 美織さんは、隣の席に座ると、赤ワインの注がれたグラスを勧めてきた。

 ありがたく受け取り、二人でちいさく乾杯する。それほどアルコールに強いわけじゃないが、僕も人並み程度ならたしなんでいるつもりだ。


「折角ワインと合わせるんだったら、もっとお洒落な料理の方が良かったかなあ」


 美織さんは、ちょっと心配そうに僕の顔を覗き込んで言った。


「普段から私、味覚が子供っぽくて。あまりお酒に合うようなものが得意じゃないんだよね」


「……僕は凄く美味しいと思います、美織さんが作ってくれた料理。どれも好みの味付けで」


 切り分けたハンバーグを口の中へ運びつつ、感想を伝える。

 決して、お世辞なんかじゃない。本当にお姉さんの手料理は美味しかった。

 粗挽あらびき肉のハンバーグは、割るとチーズが溶け出して、デミグラスソースに混ざりながら幸せな味をつむぎ出す。かぼちゃのポタージュは、まろやかな甘さが抜群にいい。


「あはは、そう? だったら、とっても嬉しいな……」


 美織さんは、はにかむように微笑むと、ワインのグラスを傾けた。

 まだあまり飲んでいないはずだが、もう少し頬が赤くなっている。

 僕より七歳年上なのに、そんな横顔がやっぱりとても可愛らしい。

 元々女子大生ぐらいにしか見えないお姉さんだけど、今はもっとあどけなく見えた。

 ……それこそ、あたかも「初めて恋している女の子」みたいだ。純朴さすら感じる。


 美人で明朗で、立派な自宅に住んでいて、絵を描く才能があって、おまけに料理上手……

 美織さんの素敵な魅力をいくつも目の当たりにして、すっかり胸の奥が苦しくなってきた。



「……あの、美織さん」


 僕は、衝動的につまらないことを問い質してしまった。


「どうして、美織さんは僕なんかを好きになってくれたんですか」


「どうしてって……。当然、裕介くんが理想の男の子だからだよ」


 美織さんは、こちらを振り向き、僅かに枯葉色の瞳を見開く。


「逆に裕介くんはどうして、私に今更そんなことを訊くのかな?」


「……それは美織さんのことを考えると、不思議だからというか」


 会話しながら、つくづく自分は青臭い愚かさに囚われているな、と思う。

 でも美織さんは明らかに素敵な女性で、僕は何者でもないフリーターだ。

 おそらく世間一般の物差しで測れば、恋人として釣り合わないだろう。


 ただ、それを包み隠さず伝えるのは、いかにも卑屈だととがめられかねない。


「美織さんなら、いくらでも魅力的な男性を恋人にできるはずなのに、と思って」


 なので、僕はお姉さんの反応を窺いつつ、いささか間接的な表現で続けた。


「美織さんは綺麗で、優しくて……。立派なマンションに住んでて、自立した女性で。こんなに素敵なお姉さんが、なぜ僕と両想いになってくれたのか、よくわからないんです」


「……私のこと、裕介くんはそんなふうに見てくれてるんだ。ありがとう、とっても嬉しい」


 なぜか言葉とは裏腹に、美織さんはちょっと沈んだ表情をのぞかせた。

 透き通るような枯葉色の瞳が、どことなく物寂しそうに翳っている。

 お姉さんは、不意にお道化おどた口調になると、自嘲じちょう的に言った。


「でも私、もう二八歳のアラサーだよ。男の人から見れば、とっくにオバサンじゃないかな」


 思わず虚を衝かれ、いささか戸惑ってしまった。

 僕は、自分の宙ぶらりんな生き方に劣等感を覚えていて、美織さんとの交際を悩んでいる。

 だがそのせいで、美織さんにも引け目を感じている部分があることについて、ほとんど考えていなかった。むしろ、魅力的な部分ばかりに目を奪われていたぐらいだ。


「僕は人間の年齢なんて、単に今まで何年生きてきたかの目安でしかない、と思っています」


 僕は、咄嗟に少しになって、ありのままの気持ちを告げる。


「美織さんが今、素敵なお姉さんであることが僕のすべてです……」


 また急に体温が上昇してきた。美織さんの顔を、真っ直ぐ見られない。

 つい勢いに任せて、とんでもなく恥ずかしいことを口走ってしまった。

 ひょっとして僕って今、美織さんが好き過ぎて暑苦しい男みたいになってないか? 

 いやたしかに美織さんのことは好きだけど! 本気で素敵だと思ってるんだけど! 



 羞恥心を誤魔化すため、僕はシーフードサラダを口の中に詰め込んだ。

 美織さんは、それをカウンターの隣で、やや伏し目がちに眺めている。

 それから逡巡しゅんじゅんするような間を挟んで、再度かたちのいい口唇を開いた。


「……ねぇ裕介くん。少し恥ずかしい話だけど、この際だし君に打ち明けたいことがあるの」


 秘密めいた調子で、唐突に囁き掛けられた。

 僕は、サラダを掻き込む手を止め、かたわらを振り向く。

 物憂げなお姉さんの面差しが、ほんの間近にあった。


 ――美織さんの、恥ずかしいことだって……? 


 この素敵で可愛いお姉さんにも、恥ずかしいことなんてあるのか。

 まさか、僕がたった今発した言葉より恥ずかしい秘密があるのか。

 ていうか、ここまでの人生自体が恥ずかしさのかたまりである僕に対してすら、恥ずかしいと感じるようなことがあるのか――


 と、色々憶測を巡らせて、勝手に身構えていたら。

 美織さんは、あまりにも予想外の事実を披歴した。



「実は私、これまで一度も男の人とお付き合いしたことがないんだ」



 ……今日は何度、美織さんに唖然とさせられただろう。


 しかし意外さという点についてなら、この告白にまさる驚きはない気がした。

 こんなに可愛いお姉さんが二八年間も、男女交際の経験皆無ゼロだって……? 


「さ、さすがにそれは嘘でしょう。いきなり悪い冗談は止してください」


「嘘でも冗談でもないよ。本当に私、誰ともお付き合いしたことないの」


「で、でも美織さんみたいに素敵な人だったら、今まで絶対異性にモテてきただろうし――」


「モテるとかモテないとか以前でね……。私って、昔から恋愛にまるで縁がなかったんだよ」


 僕は、美織さんの言い分を、まだ即座には信じられなかった。

 ある意味じゃ相当に不可解で、ささやかな謎にさえ感じられる。


 美織さんは、グラスに残った赤い液体を、喉の奥へ流し込んだ。

 微量の陰鬱さを含む声音で、独白めいた言葉を紡ぎはじめる。


「子供の頃から絵を描くのが大好きで、イラストレイターになってみたけれど。この歳になって振り返ると、その代償に絵を描く以外のことは何もかも犠牲にしてきちゃった気がする」


 僕は、いったん隣の席で口を閉ざし、じっと耳を傾けることしかできない。

 お姉さんは、手酌で二杯目のワインを注ぎながら、ぼそぼそと話し続けた。


「小学生、中学生、高校生、大学生――いつの時代も、来る日も来る日も絵を描いて、アニメを見たり漫画を読んだりゲームで遊んだり、そんな毎日ばかり過ごしてきた。最初のうちは学校の漫画研究会でラクガキを描き散らしているだけだったけど、そのうちWeb上にイラストを公開しはじめて、同人誌即売会だとかにも参加するようになったんだよね。他にも動画共有サイトに投稿する自主制作アニメで、キャラデザしたり、原画動画を描いたり……」


 そこでひと呼吸置くようにして、また美織さんはぐいっとワイングラスをあおる。


「大学卒業後はゲーム会社にデザイナーとして就職したけど、仕事漬けで休みの日なんか一年に二、三日あるかないか、むしろ男女問わず会社に泊まり込みで働くのが当たり前のブラック労働だよ。まあ、ゲームを作ってる現場なんか、どこも同じようなものなのかもしれないけど。開発チーム内での人間関係だって、何かしら嫌気が差すことばかり。……で、とうとう二年ぐらい前に耐え切れずに退職して、フリーランスでイラストレイターになったんだ」


 お姉さんの経歴を仔細に知らされ、ますます呆気に取られるしかなかった。

 大学中退したフリーターの僕には、どこを取っても輪郭だけしか理解できそうにない、どこか

遠い世界の話みたいに感じられた。こんな人が本当に実在するのかという、憧憬どうけい畏敬いけいの相半ばした気持ちに囚われてしまう。


 でも、美織さんはしょんぼりして、酷く情けなさそうだった。


「今じゃ仕事の打ち合わせも、大半ネットのやり取りで済ませちゃってるの。もう自発的に外出しない限り、引きもり同然の生活だよ。学生時代も社会人になって以後も、好きなことばかりに打ち込んで、人付き合いなんてして来なかった挙句にこれ……。おかげで当然、恋愛もろくろくしないまま、気付いたらいまやアラサー! ――あはは、何だっけ私みたいなのって。干物女ってやつかな? じゃなきゃ、ネットでよく聞く限界オタク……?」


 一頻りしゃべり終えてから、お姉さんは「はあ……」と深く嘆息した。

 二杯目のワインも一気に飲み干すと、おもむろにこちらを振り向く。

 両目の端にじんわり涙を溜めて、華奢な肩をぷるぷる震わせていた。

 頬は殊更に赤く染まっていて、ほんのり熱っぽく見える。


 ……ひょっとすると美織さん、もう酔っ払っているのか? 

 自らワインを用意したくせして、あまり強くないらしい。



「――ねぇ裕介くん」


 美織さんは、赤面涙目のまま、めそめそと語り掛けてきた。


「高校時代の友達から、年賀状に子供の写真が貼られて送られてきたことってある?」


「えっ……。ま、まだそういうのは見たことがないですけど」


「じゃあ久々に実家へ帰ったら、年下の親戚が既婚者や子持ちになっていたことは?」


「ぼ、僕、地元を離れてからは一度も帰省してないんで……」


 やや当惑しつつ返事すると、美織さんは「あはは、そっか……」と弱々しくうなずく。

 でもって、グラスへワインを三度みたび注いだ。やばい。お姉さんの全身からは今、強い負の想念が漆黒の波動と化して、うっすら立ち昇っているように見える。


「……今どきね、必ず結婚しなきゃいけないなんて、私も古い価値観だとは思うんだ」


 美織さんは、ちょっとはなすする仕草を交えて言った。


「でも、恋愛もある程度経験した上で未婚を貫くのと、最初から結婚はおろか恋人ができるよう

な見込みもないのとじゃ、全然意味が違うと思わない? ――ていうか私、はっきり言って好きな男の子と恋愛したいし、ずっと毎日一緒に居てイチャイチャしたいよ」


「は、はあ。毎日イチャイチャ、ですか……」


 何となく雰囲気に気圧けおされ、僕は適当に相槌あいづちを打つことしかできない。


「もっと言うと、年下の男の子と同棲したい」


 ワイングラスの縁に口を付けながら、美織さんは妙に平坦な口調でつぶやく。

 枯葉色の瞳には、何か得体の知れない陰影が宿り、僅かににごっていた。怖い。


「私のことだけを好きになってくれる、真面目で純粋そうな男の子とお付き合いしたい。むしろ中高生でさえ恋人同士になってデートしたりキスしたり、それ以上のことしたりするカップルは居るわけだよね。私より年下で、結婚して妊娠して出産している女性も多いことを踏まえたら、やっぱりアラサー的にはラブラブしてイチャイチャして甘やかしたり甘えたりしてアレしてコレする程度の必要はあるし、そう考えると同棲ぐらいはしないと何もはじまらない……そう、まずは自宅へ恋人を連れ込んで、同棲の合意を取り付けることなんだよ。何としてでも同棲しなきゃ二八歳だもんアラサーの私――……」


 お姉さんは、徐々に消え入りそうになる声で、ぶつぶつとうなり続けている。

 それを辛うじて途中まで聴き取ると、僕は密かに戦慄せんりつめいたものを覚えた。



 ――こりゃあ、あり得ないレベルでこじらせ過ぎなのでは? 

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