2:お姉さんの部屋にいらっしゃい

 僕と美織さんは、喫茶店を出るとJR星澄駅へ向かった。


 お姉さんの自宅は、市内の雛番ひなつがいという地域にあるらしい。

 記憶違いでなけりゃ、この界隈じゃ有名な高級住宅街だ。

 星澄駅からの移動だと、たぶん電車で三〇〇円掛からない距離の区間。

 バスを乗り継いだとしても、五、六〇〇円ぐらいで着く場所かな……


 なんて考えていたら、美織さんは駅前で空車のタクシーに乗り込んだ。

 僕を後部座席の隣へ招き入れ、運転手に行き先の住所を手短に告げる。

 やばい。移動手段の選択だけでも、生活水準の差を痛感してしまった。



 アスファルトの上を滑る車中で、僕はお姉さんの表情を目だけで見て探る。

 いつ見ても大人の女性らしさと、不思議なあどけなさが混在する横顔だった。

 薄化粧の頬はかすかに緩み、口元には微笑が浮かんでいる。上機嫌みたいだ。


 ――つい誘いに乗って、美織さんの家で一泊することになってしまった。


 僕の頭の中では、様々な思考が錯綜さくそうし、せめぎ合っていた。


 我が身をかえりみれば、安易に同棲までは踏み切れない。

 もちろん、扶養してもらうことにだって躊躇ちゅうちょがある。

 ただ引け目は感じるけど、強いて交際するところまでなら現時点で許されるだろうか……

 と、話し合うにつれ、僕も徐々に心が傾いてしまった。正式に告白して恋人同士になったかはともかく、お互い両想いなのは確認できたし。


 そこへ再度、美織さんが食い下がってきたんだよな。


「恋人同士の大人だったら、デートのあとに相手の部屋で泊まるぐらい普通だよ?」


 ……いやいや、そりゃたしかにそういうことだってあるだろうけど。

 しかし付き合いはじめた当日から、いきなりってのはどうなんです? 


 などと一応訴えてみたものの、結局は僕がお姉さんの要求に折れた。

 やっぱり迂闊うかつだったかもしれない、と幾分今更な後悔は感じている。


 ――でも、申し出を全面的に突っぱねて、美織さんに嫌われたくもなかったんだ。


 だから身勝手で意思が弱いと非難されても、反論の術はなかった。

 この点に関しては、自分の本心から目を逸らすことしかできない。



 それで僕は、お姉さんの横顔に傍らで見蕩みとれつつ、

「誰かの部屋にお邪魔するなんて、いつ以来だろう……」

 なんて、ぼうっと密かに考えていた。


 小学生だった頃は、よく近所で仲がいい友達の家へ遊びに行っていた。

 中高生だった頃は、たまに親しい友達の家になら上がらせてもらった。


 さて、それ以後はどうだっただろう。

 自分の経験に限れば、ほとんど他人の家に立ち入った記憶がない。

 大学には地方から進学し、友達らしい友達もできないうちに中退。

 バイト先の知り合いとは、あくまで仕事上の付き合いしかない。


 なので「自分が居住している以外の家屋を訪問すること」は、僕にとって久々の行為だ。

 ましてや女性の部屋へ踏み入るとなれば、これはおそらく人生で初めての体験だと思う。

 未成年の頃から現在に至るまで、恋人が居た時期など一度としてない。



 ――そう、初めて入る女性の部屋だ。そして、そこで一晩過ごす……。


 僕は、現状を再認識し、かすかな体温の上昇を感じた。

 たとえ一夜限りだとしても、それによって何がどうなる可能性があり得るのか、もちろん想像できないわけじゃない。

 だってお姉さんの言葉を借りれば、すでに二人はどちらも大人と言っていい年齢だから。


 やっぱり、もう少し交際の段階を経てからの方がいいのでは……

 というふうに二の足を踏んでしまうのは、僕が童貞のせいだろうか。

 一方で、動物的本能に根差した期待感から、どうしても逃れられない男の性質さがが悲しい。


 僕は、ずっとタクシーの乗車中、理性で煩悩ぼんのうじ伏せ切れずに苦しんでいた。




     〇  〇  〇




 やがて僕と美織さんは、真っ白なマンションの前でタクシーを降りた。

 建物の正面には「ロイヤルハイム雛番」という、黒地に金文字の看板が掲げられている。

 ひと目見て地上一〇階以上の高層住宅と察せられ、近代的な雰囲気が外観に漂っていた。


 共用エントランスに入ると、美織さんは壁面の端末まで歩み寄った。

 おもむろにスマートフォンをかざして、エレベーター前のドアを開く。

 いかにも高級マンションらしいセキュリティだな。


 美織さんの自宅は、マンションを九階まで昇ると、すぐ目の前にあった。

「九〇一・HANAE」というプレートが、部屋の出入り口に見て取れる。

 ここのドアはディンプルキーで開けると、お姉さんは率先して家の中へ入っていった。

 僕もちょっとあわてて、それにならう。玄関で靴を脱いで、真っ直ぐ伸びた廊下を進んだ。


 その先に広がっていたのは、ゆったりして小綺麗なリビングだった。

 あちこちに瀟洒しょうしゃな家具やインテリア、観葉植物などが置かれている。


「そのへんで適当に座ってて。今、コーヒーをれるから」


 美織さんからうながされるまま、僕は手近なソファへ腰掛ける。

 ふかふかしていて、身体が半ば沈み込むような座り心地だった。

 傍らの窓に目を移せば、屋外の街並みが遠方まで見晴らせる。


 ――まるで、テレビドラマの中に出てきそうな部屋だ。

 想像通り経済的に余裕があって、自立した女性なんだな……と、思ってしまう。

 自分が寝起きしているアパートの狭い一室と比較して、多少気持ちが沈んだ。



 ほどなく、美織さんがキッチンからコーヒーを運んできた。

 目の前のテーブルに二人分のカップを並べると、ソファの隣へぽすんと腰掛ける。

 ふわふわした栗色のロングヘアから、ほんのりと甘い香りが漂っている気がした。


「……ねぇ裕介くん。ひょっとして、今少し緊張してる?」


 お姉さんは、こちらへ微妙に身を寄せ、ささやき掛けてきた。

 優しく澄んでいて、柔らかい声音。互いの顔が凄く近い。

 動揺を押し隠そうとして、僕は咄嗟に虚勢を張った。


「べっ、別にそんなことは、まったくありませんけど……」


「そう? 何だか、表情が強張こわばっていたみたいだったから」


 枯葉色の瞳が僅かに潤んで、僕の顔を覗き込んでいる。


「自分の家だと思って、楽にしてね? ……夜は長いから」


 なぜか美織さんの言葉は、いちいち意味深に聞こえた。耳が熱くなる。

 僕は、居たたまれなさを誤魔化ごまかそうとして、コーヒーへ手を伸ばした。

 カップをかたむけ、黒い液体を喉へ流し込む。砂糖もミルクも入れ忘れた。

 だが、苦みも香りもよくわからない。


 かつてない焦燥しょうそうに駆られていると、左手の甲に温かいものが触れた。

 ……美織さんの手のひらが、僕のそれの上へそっと重ねられている。

 目視でたしかめなくても、はっきり感触だけでわかった。


「ねぇ、裕介くん――」


 再び甘い声が、僕の名前を耳元で呼ぶ。


「今日は、私のワガママを聞いてくれて、本当にありがとう」


「……そ、そんな。別にワガママを聞いたつもりないですが」


「でも、無理言って来てもらっちゃったから。私の部屋まで」


「無理を言われたなんて、少しも思ってないですよ僕は……」


「……優しいね裕介くんは。私、君のそういうところが好き」


 美織さんの華奢きゃしゃな手が、ついに僕の手をきゅっと握ってきた。

「好き」の二文字が耳の奥で、ちいさく反響して聞こえている。

 僕も美織さんが好きです、と言おうとしたものの、声にすることはできなかった。

 頭の中がかーっとして、思考と挙措きょそが上手く連動してくれない。完全にまずい。


「あの、それでね。折角こうして、二人っきりになれたんだし――……」


 美織さんは、殊更ことさらに柔和な物腰で誘い掛けてくる。


 ――あっ、ああ……。何ですか美織さん。ふ、二人っきりで、どうするんですか……っ!? 


 僕は、僅かに息を切らしつつ、背筋に震えが走るのを感じていた。

 ほんの一、二秒挟んでから、お姉さんは綺麗なかたちの唇を開く。



「これから二人で、劇場版『ラブトゥインクル・ハーモニー』のBDブルーレイ見よっか?」



 …………。


 ……僕は、即座に言葉の意味が理解できず、両目を何度か瞬かせた。

 たっぷり数秒余りの間を挟んでから、よくよく情報を整理してみる。


 とりあえず、『ラブトゥインクル・ハーモニー』というのは――

 先頃深夜に放映され、人気を博した美少女アニメの第二期シリーズだ(略称『ラブハニ』)。

 女子高生アイドルの努力と成長を外連味けれんみのない物語で描き、多くのファンの心を掴んでいる。

 基本的には男性向けアニメだが、「アイドルとして成功するため、懸命に頑張る女の子たちを応援したくなる」という女性視聴者(例:美織さんなど)からの支持も少なくない。


 そのアニメBDのパッケージを、美織さんはどこからか取り出してみせた。

 ジャケットイラストには、躍動感あふれるアニメ絵の女の子が描かれている。


「……こっ、これから二人で、劇場版『ラブハニ』のBDを鑑賞する、と……?」


「うん……。実はネット通販で予約してたんだけど、昨日宅配便で届いたんだよ」


 鸚鵡おうむ返しに訊き返すと、お姉さんはこくりと可愛らしくうなずいた。


「でも私と一緒に『ラブハニ』見てくれそうな人って、裕介くんしか居ないから」


「は、はあ……。そう言えば、劇場版BDの発売日って、たしかに昨日でしたね」


 このとき僕は、うっかり重大な事実を失念していたことに気付いた。


 ――美織さんって、実はかなりオタクっぽい人なんだった……。


 いやまあ、僕だって美織さんほどじゃないにしろ、アニメやゲームは好きなんだけど。

 そもそも、二人がWeb上でやり取りするようになったのだって、サブカル的な趣味と無関係じゃない。同じ深夜アニメを一緒に視聴していて、話毎のユルい感想を短文投稿サイトツイッターに書き込んでいるうち、自然と相互フォロワーになったんだよな。


 ややきょかれて戸惑っていると、美織さんが改めて反応を窺うように問い掛けてきた。


「あ、あのっ。――それで、いいかな裕介くん?」


「……え? えっと、いいのかとは何がでしょう」


「劇場版『ラブハニ』のBD、一緒に見てくれるのかなって」


「あ、はい。僕も美織さんと見たいです、劇場版のやつ……」


 無下に断る気にもなれず、僕は素直に同意してみせた。

 が、すると美織さんは無駄に遠慮がちな素振りを取る。


「本当に? もしかして、劇場版よりテレビシリーズを収録したBDの方がよかったんじゃ」


「いや本当に劇場版で大丈夫ですから! 二人で一緒に見ましょう、劇場版『ラブハニ』!」


 何だか変な気のつかわれ方をされそうになった。

 なので慌てて、賛成の意思を強調してみせる。


「そう? じゃあ、ちょっと待っててね裕介くん」


 美織さんは、嬉しそうにソファから腰を上げると、早速アニメ視聴の準備に取り掛かった。

 リビングへ西日が射し込むのを防ぐため、カーテンを閉める。液晶テレビとBD再生機の電源を入れて、劇場版『ラブハニ』のディスクをセットした。




 ……それから約二時間に渡り、僕と美織さんのアニメBD観賞会がはじまった。


 薄暗い部屋の中で、若い男女が二人っきり。

 相手の息遣いや体温まで、互いが間近で感じられる距離に寄り添っている。

 本来であれば、この上もなく好ましい雰囲気になりそうな状況だけど……


「はぁ、はあああああぁぁ~!! やっぱりみんな可愛いいぃ~!!」


 美織さん(二八歳)は、口元にだらしない笑みを浮かべて、身悶みもだえていた。

 画面に映る美少女キャラを見詰め、やや前傾気味の姿勢で食い付いている。


《――だって、本気で好きになっちゃったんだから、仕方がないじゃないですか!》


 液晶画面の中では、アイドルグループでリーダー格の女の子が叫んでいた。

 劇場版『ラブハニ』でも「ファンなら一度は感涙する」と評判の名場面だ。


舞台ステージで歌って踊ることが、私たちは好きなんです。……たとえ報いがなくても!》


「うあああああ圧倒的わかりみいぃ――!! 私も好きいいぃ~!!」


 美織さんは、泣き顔を浮かべて、何やら画面に向かってうなずいている。

 登場キャラクターにメチャクチャ感情移入しちゃってるみたいだな……。

 ていうかお姉さん、短文投稿サイトツイッターでアニメ実況してるときと、ノリがまったく同じですね? 


 その後、ついにアニメはクライマックスに到達し、めくるめくライブシーンへ雪崩なだれ込んだ。

 CG技術を駆使した美麗な映像と、メロディアスな主題歌の融合したステージが展開される。


「はあああああ~ここで神曲流れるの反則だよおおおぉぉ~!! でも最高アンド最高~!!」


 美織さんは、嗚咽おえつ混じりに騒ぎつつ、頭上でサイリウムを振り回している。

 ていうか、いつの間に用意していたんですかサイリウム。しかも僕の分まで取り出して、最後の曲がはじまる前に手渡されちゃったし。仕方ないから、隣で一緒に振ってますけど。


 高級マンションのお洒落しゃれなリビングは、もはや『ラブハニ』の即席ライブ会場と化していた。

 若干お姉さんが盛り上がり過ぎで、他の部屋の入居者さんのご迷惑じゃないかと心配になる。

 もっともアニメが終わるまで、幸いにしてどこからも苦情は来なかった。マンションの建築が防音性に優れているのか、思ったほど周囲には聞こえていなかったのかもしれない。



 しばらくすると液晶画面が暗転し、エンドロールが流れはじめた。


 僕は、タクシーの車内と同じ要領で、美織さんの横顔を盗み見る。

 可愛らしいお姉さんは、枯葉色の瞳に涙を溜めつつ、文字が上から下へ流れる画面を、じっと眼差し続けていた。暗闇の中で、アニメの余韻に浸っているみたいだ。


 そんな有様を眺めていると、少しだけ気持ちが温かくなる。

 美織さんの喜んでいるところが見られて、僕も嬉しかった。


 ……まさか、いきなり二人っきりでアニメを見るだなんて、この部屋にお邪魔した直後は予想

してなかったから、ちょっと調子が狂っちゃったけど。

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