そして、新しい春
そして、新しい春 ①
「それじゃ、トーコ。卒業おめでとう」
「まだ、卒論出しただけだし……」
おじさんがグラスを持ち上げると、私もワイングラスを同じように持った。涼やかなガラスの音が、お客さんがいなくなったバーの中に響いた。
「一応、審査会もあるんだし」
「でも、そこで落ちることはないだろ? 先生だって褒めてくれたんだろ?」
「まあ、うん」
「それなら大丈夫だって。春になったら卒業して、トーコも社会人か……早いな」
「そうだね」
季節は、就活や卒業論文の忙しさでかまけている間にあっという間に過ぎていった。クリスマスソングが流れる頃に卒論の締め切りがやってきて、無事に提出することができた私は久しぶりにおじさんのバーにやってきた。少し仮眠は出来たけれど、目の下にくっきりと付いた隈は取れそうにない。
「でも、良かったのか? 地元じゃなくてこっちで就職するんだろ?」
「うん」
幸いなことに、出身地と大学のあるこの町、両方の自治体の公務員試験に合格することができた。私は迷うことなく、この町に残ることを決めていた。
だって、この町には紀一郎さんがいる。
「お母さんも、別に良いって言ってたし」
「でも一人で暮らすのも寂しいだろ?」
「そうでもないんじゃないかな? ……もう、一人じゃないみたいだし」
「え?! まさか」
おじさんは驚いて大きな声をあげる。その反応を見て、私はいらずらっぽく笑みを作った。
「詳しいことは私もまだわからないよ? でも、『紹介したい人がいる』ってそういう事でしょう?」
「義姉さんもやるなぁ~。いや、西野さんか?」
「私もびっくりしちゃった。お正月に帰るから、その時にちゃんと話すって」
「そっか。……兄さんも、天国でびっくりしてるだろうな」
「そうだね」
「それにしても……娘よりさきに、母親が再婚するとはな。それで、トーコはどうなんだよ」
「え?」
今度は、叔父さんがクイッと口角をあげる。
「……『アレ』から、彼氏とか」
叔父さんは言葉を伏せたが、紀一郎さんの事を言っているのだという事はすぐにわかった。
「……いないよ」
「そっか。でも、卒業して就職したら、次は結婚だろ?」
「古い! 私の心配よりも、叔父さんはどうなのよ? いい人いないの?」
「いないよ。いたら、こんなに悠長に姪っ子と酒飲んでないって」
「確かに」
私と紀一郎さんが『まだ続いていること』に、叔父さんは全く気付いていない。四月になってから彼をお店に連れてきたら、火を噴きながら怒るだろうか? それとも、呆れたようにため息をつくのだろうか?
いつかそう遠くない未来にやってくるその日を思い浮かべながらまじまじと叔父さんの横顔を見ていたら、叔父さんは首を傾げた。
「何だ? 何かついてる?」
「ううん。何でもない」
◇◇◇
「……若村、ちょっといい?」
冬休みが間近に迫っていたころ、ゼミが終わった後ゼミ室から出てきた私を待ち伏せしていたのか……ドアの近くに立っていた徳永くんが私を呼び止めた。
「な、何?」
みんなと一緒にいる時はそうでもないけれど、二人きりになるとやっぱり緊張してしまう。また彼に何を言われるのか、何か見つかってしまったのか。自分の中にある後ろめたさや罪悪感が引っ張り出されるような感覚、私はついに慣れることはなかった。
「今日の夜、暇?」
「……え?」
「……バイト辞めて、ちょとだけ退職金貰ったから、何かごちそうしたいと思って」
「いいよ。別に」
「話したいこともあるし」
彼の真っ黒な瞳は、断りの言葉すら吸い込んでいってしまう。私が数秒置いて頷くと、彼は「また後で連絡する」と言って足早に去っていった。
「話って、なんだろう」
私のその呟きは彼に聞こえることなく、空気に混じってすっと溶けるように消えていく。カバンを肩にかけなおして、私は図書館に向かう。いつも通り、日本古典のコーナーで紀一郎さんとのやり取りに使っている源氏物語の第二集をそっと開く。
しかし、そこにはあの薄紫の付箋はない。このところ、彼からの「ラブレター」は途切れていた。私は本を閉じて、少し肩を落としながら帰路についた。
徳永君からは、夕方ごろ連絡が来た。20時に学校からも少し離れた居酒屋を指定され、私は少し首を傾げながらそこに向かった。学校や駅の周りにもっと行きやすいところがあるのに、どうしてそんな離れたところなんだろう? と。ただ、そう打ち返すのも面倒になってしまったので、私は「了解」とだけ返事をした。
その居酒屋に行くと、徳永君はもう座って待っていた。私と目が合うと、軽く手をあげた。
「悪い、こんな所に」
「びっくりしたよ。結構遠いから……どうして?」
椅子に座ると、店員がおしぼりを差し出した。それを受け取って軽く手を拭いていると、徳永君は「前、志麻先生と来たんだ。ここ」とポツリと口を開いた。
「……いつ?」
「一年位前」
「どうして、今更そんな話をするの? 私と志麻先生はもう……」
「まだ続いてるって、先生が言ってた。何飲む? 好きなもの頼んでいいよ」
徳永君はメニューを差し出す。私はそれを受け取らず、じっと彼を見つめた。徳永君は観念したように大きく息を吐き、メニューをテーブルの上に置いて……深く頭を下げた。
「あの時は、本当にごめん」
「……」
「何を言っても言い訳になると思うけど……俺、若村に振られて悔しかったんだ」
「……今更、何言ってるの? バカじゃないの?」
「言われると思った。何か飲む?」
店員が近づいてくるのが目の端に映った。私は彼が持つメニューを見ることなく、「ビールで」と店員に伝えた。彼も同じものを選ぶ。
「振られて悔しかったから、自暴自棄になった。それと同じくらいの時から、うすうす感づいてたんだ。若村と志麻先生のこと、もしかしたら付き合ってるんじゃないかって」
「私も、気になってた。どうして気づいたの?」
「クラゲ」
「え?」
「若村のスマホと、先生のペンケース。同じクラゲのストラップついてる、お揃いで買ったんだろ?」
「そう、だけど……」
「つめが甘いよな。絶対誰にも知られちゃいけないなら、そういうのもやめなきゃ」
言い返すこともできず、私は頭を抱えた。あのクラゲのストラップを貰った時はうれしくて……少しだけ不安だったけれど、まさかそれだけで二人の関係に気づく人がいるなんて思わなかったのだ。
「でも、すぐに別れるのは意外だった。嫉妬深いって言ってたから、絶対別れないんだろうなって思ってたから」
「約束してたし。それに……」
「ん?」
ビールはすぐにテーブルの上に置かれた。私はそれを一口だけ飲んで続けた。
「志麻先生には、他に大切にしなきゃいけない学生がいっぱいいるから」
口の中いっぱいに苦みが広がる。
「もし『先生』に何かあれば、その人たち全員を裏切ることになるし……それに、紀一郎さんは大学の仕事なくなったら、他のところで働くなんて絶対にできないもん」
「お前、すっごい好きなんだな。志麻先生の事」
徳永君はゆっくりと顔をあげた。その表情に曇りはなく、すっきりとしている。
「うん、そうだよ。離れることなんて考えられないくらい、私は紀一郎さんのことが好き」
離れてみて分かったことがあった。彼が傍にいないと……身が引き裂かれるような、体がきしむような痛みを感じる。彼の熱を感じないと、心が落ち着かない。それはきっと、紀一郎さんも同じなのだろうと、心の底から信じることができた。
「先生、言ってたよ。俺の事」
「え?」
「俺は一生、若村の記憶から消えないって。先生と若村の事を引き裂こうとした男だって、ずっと若村の記憶に残り続けるって」
「言いそう。たぶん、すごい怒ってるよ徳永くんのこと」
「だろうな。……つくづく、人を好きになることって呪いをかけられることに似てると思うぜ」
「呪い?」
「そう」
彼はあまりビールに口をつけない、グラスからは泡が小さくはじけ飛び、その姿をかき消そうとしていた。
「誰かを好きになったっていう事実は、何があっても一生自分の中に残り続ける。相手がそのつもりがなくても、俺は若村に……呪いをかけられたようなもんなんだよ」
「でも、その代わり徳永君も私たちに残したんだね、呪い」
「ふん、それが呪いなのか……お前たちの恋愛に与えたちょっとした刺激なのか、もう分からないけどな」
そう言って、彼はビールに口をつけた。透き通った黄金色を、ゆっくりと体に流し込むその姿を見ていると……彼に対する怒りが、徐々に私の中から消えてなくなりそうな感じがしていた。
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