そして、新しい春 ②
クリスマスが過ぎて、あっという間に年の瀬が迫ってきた。私は寒さに耐えながら、実家への道をたどる。今年の夏は就活や卒論で慌ただしくしていたため、帰るのはお正月以来になる。
「ただいま」
鍵を開けて玄関で呼びかけても、反応はない。母の物と思しきショートブーツがきれいに並んでいて、私は靴を脱いでからその横に同じように並べた。
「あ、おかえり。早かったね」
母は居間で、洗濯物を畳んでいた。その中には母の物だけではなく、大きなサイズの男物も混じっている。……それは、紀一郎さんが着ているものよりもさらに大きい。
「うん、ただいま。西野さんは?」
「仕事」
「大変だね、年の瀬なのに」
私はそう言いながら、そのままお母さんの横を素通りして仏間に向かう。陽の光を受けたお父さんの仏壇は、いつもよりきれいに見えた。
「仏壇ね、最近西野君がよく掃除してくれてるの」
「え?」
「朝出勤する前に。いいのにって言ってるのに、そういうところは律儀なんだから」
「……ふーん」
私はしばらく、仏壇に手を合わせていた。お父さんが死んだ今、どんなことを考えているのかもわからない。西野さんに掃除なんてされて、不快にはならないのかな? なんてことも思う。
「でも、良かったかもね」
私はポツリと呟いた言葉にお母さんは少し声を張り上げて、「なんで?」と言いかえす。
「だって、お母さんの掃除雑だしあんまりしてなかったじゃん。西野さん方が丁寧だしマメにしてくれてるんでしょ。そっちの方がお父さんもいいよ」
「言うようになっちゃって。桐子、晩御飯の材料買ってきてよ」
「えー。私今帰ってきたばっかりなんだけど」
「いいでしょ、これくらい。親孝行なさい」
鞄の中から財布を取り出し、ぽいっと投げて渡す。私はため息をついて、重い腰を上げた。
「晩御飯、何にするの?」
「決めてない、あんた作ってよ」
「またそういう事言って……」
「桐子もそうそう帰って来れなくなるんだから、今のうちにこれくらい甘えたっていいでしょう?」
お母さんの声は、どこか寂し気に聞こえる。私は「期待しないでよ」とだけ言って、その財布と自分のカバンを持ってもう一度外に出た。冬のひんやりとした空気が、肺に潜り込んで体を冷やす。温かいものが食べたいな、とふと考えた。お母さんと西野さん、それから私。その三人を囲う温かいものが。作る物は、もう一つしかない。
「えー、鍋物? 安直じゃない?」
私が帰ってきて早々買い物バックを覗き込むお母さんは、落胆したような声をあげた。
「もうちょっとイイ感じの料理、和三さんから習ってないの?」
「叔父さんはバーテンダー、料理人じゃないからね」
「あんた料理できる方なんだから、こういう時くらい気合入れていきなさいよ」
「はいはい、また今度」
野菜とお肉を切り、専用スープで満ちた土鍋にそっと入れていく。その後ろでは、三人分の食器の準備を始める。そろそろ、西野さんが帰ってくる時間らしい。
「……あんた、彼氏にも似たような料理だしてるんじゃないわよね?」
「……そのことなんだけど、お母さん」
「ん?」
土鍋の中に入った野菜は、温まったスープの中でグラグラと揺れる。私の声はそれ以上に小刻みに震えていて、うまく話ができるか分からなかった。それでも紀一郎さんの事を話そうとしたときに、タイミング悪くチャイムが鳴る。
「ああ、西野君。帰ってきたんだわ」
お母さんはそそくさと玄関に向かう、ドアが開く音のすぐあと……お母さんの笑い声が響き渡った。驚いた私が慌てて向かうと、そこにいたのはお腹を抱えてうずくまるお母さんと、きっちりとスーツでめかしこんだ西野さんの姿だった。
「へ、変ですか? 似合いませんか? さっき買ったんですけど、これ」
「似合わない~。どうしたの、急にそんな改まって?」
「トーコさんが帰ってくるって言うから……」
西野さんはしょんぼりとしながら、私を見る。肩を落とすその姿は、大きな男の人と言うよりも小さな子どもみたいに見えた。
「……お久しぶりです、西野さん。晩御飯そろそろできるので、早く上がってください」
私のその声は、少しだけ緊張しているように聞こえた。
「それで、二人はいつ籍入れるの?」
小鉢に取り分けながら私がそう聞くと、二人は驚いたように顔をあげた。
「桐子、お母さん再婚してもいいの? イヤじゃないの?」
「イヤって言うと思った?」
「思ってた。お父さん以外の人と結婚するなんてダメとかなんとか」
「もうそんな事いうほど、子どもじゃないんだし。どうせ私が反対しても結婚したでしょ」
「そういう訳にはいかないですよ。トーコさんから、ちゃんと許可いただかないと……」
西野さんはどれだけ言っても足を崩そうとしない。
「許可もなにも、お母さんの人生なんだから……私が決めることはないでしょう?」
「そうだけど、あんたがそんな事言うなんて……随分大人になったのね」
「でしょ。もう私だって23なんだし、春には社会人なんだから。お母さんも、子ども離れして、自分の人生歩んだら?」
私がそう言った途端、お母さんの肩から力が抜けていくのが分かった。
「わかった。それじゃ、決まったら連絡する」
「その時はちゃんとお祝いするから。西野さんも、お母さんの事よろしくお願いします」
頭を下げると、西野さんも慌てて箸をおいて私よりも深く、そして勢いよく頭を下げた。
「ああ、よかった。これで一安心ね、西野君」
「はあ、拍子抜けしたって言うかなんと言うか」
「それで、桐子はどうなの?」
「ん?」
私は鍋の具を掬っていると、お母さんはふと思い出したように口を開く。私は持ってたものをすべて置いて、背筋を伸ばした。
「今、ちょっと距離置いてるっていうか……少し離れてる」
「どうして?」
お母さんに、本当の事を言う日が来た。私は深呼吸して、お母さんの目を見つめた。瞳の色は、私によく似ている。
「私の付き合っている人……私の大学の先生なの」
「はぁあっ?!」
お母さんの手から箸が落ちていく、驚いて物を落とす人がいるんだなって緊張して強張った頭の中でぼんやりと思った。
「大学の先生って……あんた、どうやったらそんな人と付き合えるの?」
「叔父さんのバーの常連だったの。それで知り合ったのが、先」
「和三さんも、知ってたなら教えてくれたっていいじゃない!」
「私の口から言うべきことだって」
「でも、あんた……大学の先生って」
お母さんは頭を抱える。西野さんは私たちの話に付いてこれなかった様子で、とても冷静にお母さんの箸を拾っていた。
「桐子さんの彼氏って、前聞かせてくれた人のことですよね?」
「そう……桐子より20歳も上で、それだけでもびっくりなのに……まさか大学の学生に手を出すような男だったなんて」
「それは、違うよ」
お母さんの顔が次第に青ざめていくのが分かった。隣に座る西野さんも、不穏な気配を感じて背筋を伸ばしていた。
「違うの、私が先に好きになったの」
「だからって、普通女子大生に手を出す? 教育者として間違ってるわよ」
「そうかもしれないけど、でも」
「二人とも、落ち着いて」
西野さんがなだめすかしても、お母さんの怒りが納まる気配はない。顔が赤くなったり青くなったりを繰り返しながら、お母さんは震える手でぎゅっと握り拳を作る。
「……それで、桐子さんはその人のどこを好きになったの?」
しんと静まり返る空気をやんわりとほぐすように、西野さんは私に問いかけた。私は少しだけ目を閉じて、紀一郎さんの事を思い出す。初めて出会った時のこと、触れ合った時のこと、彼のすべてを。粉々に散った欠片を集めていくように。
「名前をね、呼んでもらったの」
「……名前?」
「一音ずつ、はっきりと。私の事を見て」
「それだけで?」
「人を好きになるって、そういう事じゃないかな? 本当に、たったそれだけのことで」
「……僕は、桐子さんのいう事分かる気がします」
「西野君まで」
西野さんは笑みを浮かべながら、私を見た。その笑い方が、記憶の端っこに残るお父さんに似ている気がした。だから、お母さんはこの人の事を好きになったんだなって理解できるほどに。お母さんも、西野さんの横顔をじっと見つめる。そして、諦めたように息を吐いた。
「……私としては距離置いたままでいて欲しいけど、どうしてそんなことになったの?」
「話、聞く気あるんだ」
「だって、夢だったもの。娘とコイバナするの、高校の時はさっぱりしなくて詰まんなかったわ」
「何それ」
思わず笑みがこぼれると、お母さんも釣られるように笑った。
「同じゼミの子にバレたの」
「え? あんたとその先生が付き合っていることが?」
「そう」
「その子、男の子でしょ?」
「どうしてわかったの?」
「女の勘。モテる娘がいると辛いわね」
「モテたつもりはないんだけどね」
今なら、はっきりわかる。どうして徳永君が私の事を好きになったのかも。
徳永君は呪われるようなものだと言っていたけれど、誰かに想いを抱くことって、当てのない道に迷い込むことに似ている。右も左も、正解すらも分からない道を。ただその道を行くのは一人きりではなくって、隣には必ず誰か……私には、紀一郎さんがいた。不安な日も喜びに満ちた日も、私たちはそれを共有し、補いながら進んでいく。お母さんも西野さんも、きっとそう。
これが、恋であり日常なんだと。
「しめ、何にする? うどん? それとも雑炊? どっちの用意もしてあるけど」
「あら、準備いいわね」
「だって、西野さんが何が好きか知らないから。……こういうのも、追々知っていかないとだめだね、家族になるんだもん」
お正月休みはすぐに終わり、私は駅に向かう車中にいた。お母さんが出勤なので、バスを乗り継いでいこうと思ったのだけれど……遠い昔の夏のように、西野さんがその役を買って出てくれた。断ろうとしても、西野さんは笑って「家族なんだから」と付け足した。その響きはまだこそばゆく聞こえた。
「ねえ、桐子さん」
「何ですか?」
「その人、僕も会っていいの? 桐子さんの、恋人って言う人」
「……どうぞ。その時は、前もってちゃんと相手に話しておく。私、お父さんが死んだのも言ってなかったんです」
「え?!」
西野さんは、大きな声をあげる。その声は狭い車の中でガンガンと響く。
「どうして? 大切なことじゃないですか?」
「……かわいそうって、言われたくなくって。今までお父さんが死んだって言ったら、その度に言われてたから」
「僕も、似たようなこと言ったな」
「お母さんに?」
「そう。もう思い出せないんだけど、何かの時に……『大変でしたね』って言っちゃって、すごい怒られた。『私の人生、大変そうの一言で片づけないで』って」
「言いそう、お母さん」
「でも、それくらい言い返してもいいと思いますよ。自分の人生を決めるのは、結局自分自身なんですから」
「そうですね。ねえ、西野さん。……お母さんのこと、よろしくお願いします」
どんどん駅に近づいてくる。西野さんは車のスピードを緩め、路肩に止まった。そして、少し迷ったように口を開く
「あの、トーコさん。一つ、お願いがあるんですけど」
「ん? 何ですか?」
「トーコ『ちゃん』って呼んでもいいかな? トーコ『さん』だと、他人行儀な気がして……曲がりなりにも、これから家族になるんだし……」
西野さんがうつむいてもじもじと体を揺らしながらそんな事を言うもんだから、私は思わず吹き出してしまった。
「どうして笑うんですか? こっちは決死の覚悟で聞いているのに……」
「いや、なんか面白くなっちゃって。いいですよ、西野さん。でも、私は」
「大丈夫。無理して『お父さん』なんて呼ばなくても、僕は君のお母さんの夫で、トーコちゃんの父親にはなれないから」
「うん」
私は車のドアに手をかける。ドアを開く前に、私は西野さんの方を向いた。
「落ち着いたら、連れてきます。私の彼氏」
「うん、楽しみにしてる。元気で、頑張ってね」
「……はい」
車を降りて振り返っても、西野さんはずっと手を振っていた。私が小さく振り返すと、その腕の動きは大きくなっていった。
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