love letter ②


◆◆◆



 朝起きて隣を見ても、桐子さんはどこにもいない。欠伸をしながらリビングに行っても朝ご飯を作る彼女の姿はないし、ソファでゆっくりとしている姿もない。本当に文字通りどこにもいない。

 僕はこの生活に慣れることはないし、慣れる必要はない。


 時が過ぎれば、彼女は僕の元に帰ってくるからだ。



 大学に出勤して、研究室に行くよりも先に図書館に向かう。朝早い図書館に柔らかな光が差し込む、僕は日本古典の棚に向かって、一冊の本を手に取った。昨日貼ったばかりの付箋はもう無くなっていた、返事はまだ来ていない。


 僕たちはあの日以来、ここでたわいのないやり取りを続けている。


 一種の賭けだった。

 桐子さんがこのメッセージに気づくかどうかは。


 しかし、桐子さんならいつかこの源氏物語の第二集を手に取る日が来ると信じていた。桐子さんは、一冊読み始めると、たとえ一度読んだことのある本だとしても読み始めたら最後まで読み続ける几帳面な性格だったからだ。


 最初に貼りつけた付箋は、想像していたよりも早くなくなっていた。ある日見に行った時に、僕が貼ったものの代わりにピンク色の付箋が貼ってあった。見慣れた桐子さんの筆跡で、こんな句が書き綴られている。



――かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを



『こんなにあなたの事が好きだという事でさえ、あなたに伝えることができないのだから、あの伊吹山のさしも草のように燃え上がる私の気持ちを、あなたは知らないでしょう。』



「……知ってるよ、ちゃんと」



 頬がゆるみよりも先に、ぽつりと涙がこぼれた。彼女がこれに気づいてくれたという喜びと、……一方的に別れを告げた今でもなお、彼女の心が僕にだけ向いているという事実に。


 その付箋をはがして、手帳に貼りつけた。

 このラブレターの交換は、不定期ながら続いている。まるで暗号を隠しあうスパイのような、もしくは遠いところにいて中々会うことのできない恋人同士のような。

 背徳感はもちろんある。しかしそれは、二人の恋に彩りを与える甘美な刺激と一緒だった。


 和三さんのお店には、あれ以来行くことはできなくなった。彼はきっと僕に対して憎しみの感情を抱いているだろうし、あの店に行くと桐子さんと出くわすことになる。



 僕は決めた。彼女が大学を卒業するまで、絶対彼女に近づかないようにしようと。桐子さんを守るために……疑惑の目が彼女に向かないように。たった2年我慢すれば、それぐらいすぐだと自分に言い聞かせながら。


 すべての講義や会議を終えるころには、すっかり陽も暮れていた。荷物をまとめて帰路につこうとするが……足は勝手にある場所に向かってしまう。

 桐子さんが今も働いている、あのバーに。


 二人にバレないように、こっそりと店の前まで行く。中からは何も聞こえてこないが、目を閉じれば……二人が楽しそうに店を切り盛りさせていく姿がありありと思い浮かぶからだ。


 月の灯りに照らされながら和三さんのバーに向かうと、人影が見えた。慌てて隠れてその姿を窺うが……ぴくりとも動かない。目を凝らしてその姿をちゃんと見ると、『彼』はゆっくりと僕の方を向いた。



「……徳永君?」



 呼びかけると、小さく会釈をして僕に背を向ける。慌てて近寄って、その腕を掴む。



「ココで、何してるんですか?」


「先生には関係ないでしょう? ……先生だって、何してるんですか? ストーカー?」



 少しだけ言葉に詰まると、苦々しく彼は笑った。



「まだ、未練あるんですか? 先生も」



 未練がないと言えば、嘘になる。なんて言い返そうか悩んでいると、ふと彼の言葉に気になるところを見つけてしまった。



「先生『も』ってことは……君も?」



 僕がそう聞くと、徳永君は深くため息をついて小さく笑った。知らないうちに墓穴を掘った自分自身に対する嘲笑なのか、同類を見つけて安心しているのか。その両方でもあるように見えた。



「徳永君、今、暇?」


「……は?」


「ちょっと、一緒に飲みにでも行きませんか?」



 誘ったところで、呆れて断られると思っていた。だが、彼は「いいですよ」と頷いていた。



 僕は彼を連れて、学校からも和三さんのバーからも離れた居酒屋に来ていた。明日も平日なのにも関わらず居酒屋は賑わっていて、誰も僕たちの会話を気にも留めなさそうだ。


 徳永君も僕も、同じようにビールを頼む。ただ、彼は頑なに乾杯しようとはしなかった。



「それで、どうしてあんなところに?」



 そう聞いても、彼はじっと押し黙る。



「若村さん……桐子さん、元気ですか?」


「え?」


「同じゼミでしょう? 君と、桐子さん」


「そうですけど……名前、どうしてそんな呼び方……別れたはずじゃ」



 何かに気づいたようにハッと息を飲んでから、彼は唇を噛んだ。



「まだ、別れてなかったんですか?」


「別れたよ。ちゃんと自分の立場を考えてね」


「でも、そんな呼び方。まるで恋人を呼ぶ時みたいに」


「昔の恋人のこと、どう呼ぼうと僕の勝手でしょう? それとも、うらやましい?」



 ギリ……ッと歯ぎしりの音が聞こえてくるようだ。どうして彼が和三さんのバーの前で立ちすくんでいたのか、僕にはわかるような気がした。



「君も、桐子さんの事好きなんだね。だから、僕と彼女の関係を暴いて……別れさせようとした」


「それの、何が悪いんですか?」


「悪くはないと思うよ。君が桐子さんの事を好きというなら聞きたいことがあるんだけど……どうして君は、桐子さんのどこを好きになったの?」



 怒りに震えて赤くなっていた徳永君の顔は、呆気に取られたように口がぽかんと開く。



「どうして、そんな事を?」


「気になったから。ダメかな?」


「いや、それはちょっと……先生には関係ないし」


「僕は、気づいたら彼女のことを好きになっていた。元々桐子さんから好意を向けられていたという事もあるけれど」



 僕が勝手に話し始めると、徳永君はため息をついてから「ちょっと」と話を遮ろうとする。それでも、僕は一人で話し続けていた。



「初めて出会ったのが、桐子さんが一年生の春。と言っても、まだ彼女が自分の勤め先の学生だったとは知らなかったときにね。和三さん、彼女の叔父さんがやってるバーで」



 まだ口数が少なく、接客業にも不慣れだったころだ。



「名前がね、綺麗だと思ったんだ」


「名前?」


「桐壺の桐に、子どもの子と書いて『桐子』。彼女の雰囲気にもあっていた」



 彼女の叔父や友人が、「トーコ」と間延びした呼び方をしていても……僕はその一音一音を大事にしていた。たった三文字の言葉に、彼女のすべてが詰め込まれているような気がして。



「彼女の事を好きだと思ったのは、名前を呼んで欲しいと言われたときかな? その前に、僕は彼女の好意を跳ねのけているんだ。僕のことはもうきれいさっぱり忘れるから、最後に一度だけ呼んで欲しいって……」


「……」


「君は?」


「……え?」


「君は、どうして桐子さんの事を好きになったの? あるだろ、きっかけの一つや二つ」



 徳永君の強張っていた肩から、ふと力が抜けた。そして、ぽつりと話し始める。



「プレゼミの顔合わせの時、俺、髪を金色に染めてたんですけど……それ、みんな変って言ったんですよ。似合わないって。自分でも、そう思ってたので仕方ないなって……でも、若村だけが」


「桐子さんだけが?」


「光が透けたらキラキラしていて綺麗だって、そのあとアイツも笑ったんですけどね。それでも、似合うよって言ってくれたのは、若村だけでした」



 徳永君は俯いた、耳がほんのり赤く染まる。きっと、その時を思い出しているのだ。僕だって、桐子さんに「名前を呼んで欲しい」と乞われた時のことを思い出すと胸が温かくなる。


 自分よりも20歳年下の彼と僕、同じ女性に恋をしているというのは何とも不思議な感覚だった。

 ただ、一つだけ彼と違うのは……この勝負、彼はすでに負けるのが決まっている。



「君と桐子さん、どう? 嫌われてない?」



 僕がわざとらしく笑みを浮かべながら言うと、それとは逆に、彼は自嘲気味に頬を歪める。



「表面上は普通ですよ。他のゼミ生とか先生の手前……ただ、二人で話すことはないですね」


「話しかけても無視されるとか?」


「いや……俺が、話しかけづらくて」



 彼は一気にビールを呷っていく、半分ほど飲んでからジョッキから口を離した。



「あいつ、若村……絶対に志麻先生のことは諦めたりしないって言ってたんですよね。あの後」


「桐子さんが?」


「二人の間に亀裂でも作れば、俺でも付け入る隙はあるかなって思ったんですけど」


「その目論見は随分外れたね」


「たった一度でもデートできたのを思い出にするしかないですね」


「え……?」



 その言葉に、今度は僕が驚く番だった。



「ああ、先生聞いてなかったんですか? ……若村の事だから、言わなかったんだろうな。随分嫉妬深い彼氏がいるって聞いてたし」


「そう。それは、いつ?」


「俺が、先生のところに行くよりも前。ゼミの皆でどこか行こうって嘘ついて」



 彼は余裕を取り戻したのか、大きく息を吐いてから……まっすぐに僕を見た。



「そんな、だまし討ちみたいなマネ。よく桐子さんが騙されてくれましたね」


「俺も意外でした。結構警戒心高そうなのに……その時に、どうして好きになったのか伝えればよかった。後悔先に立たずってやつですね。俺、聞かれたんですよ」


「聞かれた?」


「『どうして自分なんかと一緒に出掛ける気になったの?』って」



 徳永君はジョッキを空にしてから、店員を呼んだ。違うものを頼むようでメニューを見ている。

 僕は彼の言葉を聞いて……以前に、僕も桐子さんに似たようなことを伝えたのを思い出す。




「時間の無駄、か」



 確かにあの時、僕はそう言った。『こんな、おじさんの事なんか好きになるのは、ただの時間』だと、それでも彼女はその激流を乗り越え……今もなお、僕をとらえて離そうとしない。


 会えない時間だけが募る日々なのに、それこそ時間の無駄以外なにものでもないのに……僕たちは心のつながりなんていうあやふやなものだけで、一人寂しい夜をやり過ごそうとしている。

 傍から見たら滑稽に映るかもしれない、それでもその先に桐子さんがいると思えば……そんな夜も怖くはない。



「え、今なんて?」



 徳永君が聞き返しても、僕は首を振るだけだ。その仕草に『大人の余裕』を乗せて。



「いや。……君の恋はかなわなかったかもしれないけれど、一つだけ達成できたことがあるよ」



 徳永君は、きょとんと目を少し開ける。



「君の姿は一生、桐子さんの記憶からは消えない。僕たちの仲を壊そうとした人間として、彼女が死ぬまでずっと、徳永君は彼女の脳にとどまり続ける」


「……ただの不名誉じゃないですか」


「ネガティブにとらえるとそうだね。でも、好きになった相手にどんな形であれ一生残り続けるっていうのも悪くはないと思うよ」



 僕の言葉を、彼は鼻で笑って見せたのだ。



 桐子さんから返事が来たのは、その次の日だった。薄桃色の付箋に、可愛らしい文字。その見慣れた筆跡は、こう綴っていた。



――陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに



 いつか彼女が僕に伝えた“I love you”。あの時の彼女は、いつまで経っても色あせることなく僕の脳裏に焼き付いている。



「知ってるよ、桐子さん」



 その声は、とびきり甘い。桐子さんがいたらあの可愛らしい耳を赤く染めるくらいに。

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