秋 ~失われた恋と壊れた日常~ ⑤
「それにさ、トーコ」
「ん? なあに?」
「……お前、諦めてないだろ。志麻さんの事」
「え……?」
顔をあげると、叔父さんはぎこちない笑みを浮かべていた。私の事を応援しようかどうか、迷っているような表情だった。
「本音を言うと、トーコはもうきれいさっぱり志麻さんの事わすれて……誰か年の近い人の事好きになって、その人と生きていくのが幸せなんだと思う。でも、トーコは、志麻さんじゃないと嫌だって言うんだろ?」
私が深く頷くと、叔父さんは額に手を当てて大きなため息をついた。
「でも、諦めないって言っても……私、どうしたらいいの?」
「知らねーよ。自分で考えろ」
「そこまで面倒見てくれないんだ……」
「だって、お前もう子どもじゃないじゃん。でも、経験の少ない小娘に言えるとしたら……今持っている手段は全部使え」
叔父さんの表情は、先ほどとは打って変わって自信たっぷりだった。
「周りからどう言われようが何されようが、手に入れたいものがあるなら手を伸ばし続けろ」
「叔父さん、それで成功できた?」
「モチロン! だから店続けてられてるんだろ?」
叔父さんは「元気になったみたいだから帰る」と言って、早々に帰宅していった。私の目は完全に覚めてしまっていて、ぼんやりと息を吐いた。
それでも、泣きつかれて腫れた目のまま大学に行く気持ちにはなれなくって……私はその日一日中ベッドに横になっていた。スマートフォンでずっと、紀一郎さんから来ていたメールを一からずっと読んでいた。紀一郎さんの事を、深く胸にとどめるように。
付き合い始める時メールアドレスを交換したこと。紀一郎さんは他の皆が使っているメッセージアプリを使っていないから、メールボックスはすぐに紀一郎さんのメールでいっぱいになった。さかのぼれば、初めて家に誘われた時のメールが出てくる。
二人で並んで映画を見て、手を握られた。泊っていくように勧められて……そこからは、ジェットコースターに乗るように早く二人の関係は進んでいく。紀一郎さんと初めてベッドを共にした日に来たメールは、私の体を労わるものだった。
私の予定を聞くメール、観た映画や読んだ本の感想。まるで紀一郎さんの日記帳をめくっているような気持ちだ。そこで、私はふと思い出す。
「これ、お前の忘れ物だって志麻さんが持ってきた」
帰り際、叔父さんは紺色の袋に入った……本を私に手渡す。紀一郎さんの家に何かを忘れてきた記憶はない私は、少しだけ困惑しながらそれを受け取った。手を伸ばしてその袋を取り、中身を取り出す。
表紙には『源氏物語 第1巻』と書いてあった。もちろん私の本ではなく、紀一郎さんの部屋で見た覚えもない。もっとも、紀一郎さんの部屋に本は無数にあったから覚えていないだけかもしれないけれど。
彼の意図を掴めないまま、私はそれをぺらぺらとめくる。何度も読んできた話だから、大体の流れは覚えている。それでも、私の本をめくっていく手は止まらなかった。
次の日になって、ようやっと私は大学に行くことができた。エリサには『ちょっと風邪を引いた』と話をすると、エリサは何も気づかなかった様子で『大変だったね』といつも通り軽い調子で返した。
エリサと別れて、私は講義教室に向かう。向かっている途中で、誰かが私の腕を強く掴んだ。一瞬、紀一郎さんじゃないかと期待する。とっさに振り返るが、そこにいたのは紀一郎さんではなく……私の腕を掴む三竹くんと徳永くんの二人。徳永君の頬は、赤紫色に腫れていた。
「トーコちゃん、今時間ある?」
「え、でもこれから授業が……」
「すぐ終わらせるから!」
三竹くんは強引に私の腕を引く。徳永君の頬が腫れた理由も聞けないまま、私たちは学生も疎らなサークル棟の裏に来ていた。
「ごめん、本当に」
三竹くんは私の腕を話し、深く頭を下げる。
「ど、どうして三竹くんが……?」
「徳永に全部聞いた! コイツが元気なかったから聞きだした、トーコちゃんの事とか……志麻っちのことも」
ハッと息を飲んで、徳永君を見た。彼は気まずそうに目を伏せる。
「大丈夫、聞いたのは俺だけだし……他の誰にも言うつもりはない。でも、トーコちゃんはコイツのせいで志麻っちと別れることになったんだろ?」
唇を噛むと、三竹くんが大きく息を吐いた。
「俺だって、志麻っちとトーコちゃんが付き合ってるって聞いてショックだった。だってトーコちゃんのこと好きだったから」
「三竹くん……」
「でも、それを壊そうなんて思わない。だって、トーコちゃんのこと想えば、見て見ぬふりするのが一番幸せなんだって、そう思えるから」
「……」
「徳永に聞いたんだ、どうしてこんなコトしたのかって」
三竹くんの言葉を遮るように、徳永君は声を張り上げた。
「だって、変だろ! いくつ歳離れてると思ってんだよ!」
「好きだったら、年の差なんて関係ないだろ! それでトーコちゃんと志麻っちは上手くいってたんだよ、お前が変な気を起こすまでは!」
「変な気ってどういうことだよ、俺だって俺なりに……」
「それは俺だってそうだよ! でも……好きだったら、その人の幸せ願うもんだろ!」
「お前はそうかもしれないけれど、俺は違う!」
徳永君が、三竹くんの胸倉をつかむ。彼は驚いた様子だったけれど、まっすぐに徳永君を見据えた。
「……そうだよな、俺と徳永も、トーコちゃんも志麻っちも違うよな」
「え……」
「好きの形って、人ぞれぞれだもんな。でも、トーコちゃんにとってその形がぴったり嵌ったのが俺たちじゃなくて志麻っちだったってこと。最初から俺ら負けてたんだよ」
三竹くんの声音は、いつも明るい彼の口調と違ってとてもやさしい。徳永君の手の力が抜けて、だらりと落ちていった。
「あの、三竹くん……」
「うわっ! び、びっくりした……そういや、トーコちゃんもいたんだもんね」
「うん、色々ありがとう。でも……あんまり大きな声で『志麻っち』って言われるのはちょっと……」
「え?」
「私たちの事がこれ以上バレると、学校に居続けることができなくなるから。私としては、そこまで言ってくれて本当に嬉しかった、ありがとう」
私の言葉に、三竹くんは顔を赤くしたり青くしたり忙しそうだった。徳永君は顔を伏せて、私と目を合わせようともしない。
「あとね、徳永君。私は、諦めてないから」
「……は?」
その言葉に、ようやっと徳永君が顔をあげた。
「たとえ志麻先生……紀一郎さんが『別れる』って道を選んだとしても、私は諦めない。二人でいても、変じゃない方法を見つける」
「何それ……」
「決めたの、私は」
じゃあね、と彼から離れようとすると、今度は徳永くんは私の腕を掴んだ。振り返っても、彼は視線を合わせようとしない。
「がっかりした? こんな諦めの悪い女で……元はね、違うんだよ。私はすぐなんでも諦めて、自分から遠ざけようとするの。でも、紀一郎さんだけは、絶対に手放したくないの」
腕を強引に振り切って、私は校内を駆けていく。その先に、「ごめんね」と申し訳なさそうに微笑む紀一郎さんがいたらいいのに、と願いながら。
◆◆◆
僕を殴ろうとした和三さんの拳は、僕に対する恨みつらみがこもっているはずなのにとても弱弱しかった。ただ一言、「どうして」という言葉が僕の心臓を鷲掴みにして、きつく離れそうにない。
「トーコは、傍から見てもあんたの事が大好きだったのに」
大切な姪を捨てようとしている男の顔を食い入るように、和三さんは見つめてきた。その瞳に吸い込まれないように、僕はお腹に力を込める。
「……桐子さんと話はしていたんです、誰かに僕たちの関係が知られたらその時は終わりにしようと」
「そりゃ……トーコと志麻さんは、大学の教員と学生っていう立場ですけど。急にそんなことになって、トーコは納得したんですか?」
僕が首を横に振ると、和三さんはため息をついた。
「……トーコでも、失恋したら泣くのかな?」
和三さんはぽつりをそう呟いた。
僕がうつむいて唇を噛んでいると、和三さんはそれを「肯定」とみなし、また大きくため息をついた。沈黙がバーを包み、ますます居たたまれなくなっていく。目を閉じると、あの桐子さんの嗚咽がまだ耳の中に響いているのを感じていた。僕の手が、腕が、足が、体が、なぜあの時桐子さんを抱きしめに行かなかったのか……四肢が引き裂かれんばかりに痛み始める。
しかし、これから先の桐子さんの人生を考えれば……誰かに知られてしまったあの瞬間、彼女から離れるのが最良の選択だった。
桐子さんに、謂れのない醜聞が降りかかるのを避けるためには……僕は離れなければならない。
「それで、誰にバレたんですか? もしかして、この前トーコのこと届けてくれた男子?」
「すごいですね、当たってます」
「こういう勘だけは当たるんです。彼かぁ、見るからにトーコの事気になってる感じだったからな……恋敵に、してやられたんですね」
彼は、僕たちのウィークポイントをよく知っていた。それを攻めることができる度胸に舌を巻く。
「でも、俺が一番許すことができないのはあんたですよ、志麻さん」
「重々承知です」
「うちの大事な姪を悲しませた奴は一生憎むでしょうし……もう二度と、トーコには近づかないでください。あんたのことなんかとっとと忘れさせて、この世にはもっといい男がいるってこと教えるんで」
まだ飲みかけのグラスを、和三さんは引き上げていった。もう帰れという事だろう。
僕はカバンの中から紺色の袋を取り出して、和三さんに渡した。
「これを、若村さんに」
「なんですか、それ」
「彼女が僕の家に忘れていったものです」
嘘、だ。
それは僕が持っている源氏物語の第一集。図書館にも同じ本が並んでいるくらい、ポピュラーなものだ。
それに一縷の望みに願いをかけて、僕はそのまま足早に和三さんのバーから去っていった。
明るく光る月ですら、僕の事をひんやりと冷めた目で見ていたような気がした。
あれ以来、僕たちは会うことはなかった。大学の廊下ですれ違うことも、二人がよく行っていた図書館で出会うこともない。全くの赤の他人になってしまったのだと、彼女に似ている人を振り返って見るたびに実感する。
「あ……」
「こんにちは、先生」
その中で一度だけ、徳永君に会った。彼はいつも通り、小さく頭を下げる。
「本当に別れたんですね」
「……何のこと?」
「いや……」
知らばっくれると、彼は気まずそうに顔を伏せる。
「その程度だったんですか、若村のことは」
「……僕と、若村さんに何の関係があるのか知ったことじゃないけれど、大人には、大事な人を守るためにはどんな手段でも取る場合があるんだよ」
「それが、若村を泣かせることになってもですか?」
「君、若村さんが泣いているところ、見たの?」
僕の喉が、大きく震え始める。冷静さを取り戻すために、深呼吸をした。枯れ始めた葉の匂いが鼻腔をくすぐる。とても寂しくて、悲しい匂いだった。
徳永君は、何も言わず大股で歩いていった。
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