秋 ~失われた恋と壊れた日常~ ④
◇◇◇
昼時の学食は、毎日混みあっている。
食堂で席を探すのを諦めて、次の講義の教室で食べようと購買でパンとペットボトルの紅茶を買った。
財布を鞄に戻しながら外に出ると、偶然、徳永君に出くわした。しかし、偶然と思ったのは私だけで、徳永君は、私を探していたみたいだった。
「若村」
「何? 徳永君」
「この後、時間ある? ちょっとでいいから」
徳永君は、何かを摘まむように指先を動かした。そこに硬くて尖ったものがあるのか、徳永君の動きは慎重だった。
「うん、いいけど……」
「ありがとう。こっち」
徳永君について行くと、校舎の裏、人っ子一人いない暗がりに辿りつく。
「何かあったの? 徳永君」
「あの……若村ってさ、彼氏いるんだよね?」
「うん、そうだけど。それが、どうかした?」
「……その彼氏って、志麻先生だよね?」
言葉を失う。
口から洩れる呼吸が、まるで雪に触れたように冷たい。顔がさっと青ざめていくのを見て、徳永君はぎこちなく笑みを浮かべた。
「やっぱり、そうなんだ」
私が何も答えないのを見て、徳永君は何かを察するように小さく笑った。
違うよ、と言おうとしても動揺して喉が震えて、あっという間に説得力を無くす。私は深く息を吸って、あえてその逆の言葉を彼に向ける。
「悪い? 私が志麻先生と付き合ってたとしても、徳永君には関係ないでしょ?」
「そうはいかないだろ? 自分の大学の先生が、同じゼミの奴と付き合ってるんだから」
「そうだとしても……」
「そうだろ?バレたらどうなるかとか、先生と話したりしなかった?」
何度もそんな話はした。
もし二人の関係が誰かにバレたら、もう付き合ってはいられないかもね、と何度も念押ししたのは紀一郎さんだった。
「でも……っ!」
でも、の後に続く言葉はどこにもいなかった。どこを探しても、何も思いつかないし彼に返す言葉は中々見つからない。
しばらく間をおいてから、たった一言だけすっと頭をよぎる。
「でも、徳永君が黙っててくれたら」
念押しするように言うと、徳永君は足元にある石を蹴った。
「俺が黙ってると思ってる? そんなに、あの先生が大事?」
「そんなの、徳永君には関係ないじゃん!」
「……俺が若村のこと好きになったとしても?」
「何それ……。もし、本当にそうだとしても、やっぱり徳永君には関係ないでしょう? 私と志麻先生の間のことだもん」
「そっか。……残念だけど、それは分かってたよ。でもさ、あの先生にとっては関係ない事じゃないよ」
「何言ってるの?」
「若村に会うより先に、志麻先生と話してきた。今と同じ話」
私の周りにまとわりついていた雪は、すっと背筋を撫でた。背中は震え、次第に凍り付いていくような気がした。
「話、したんだよね? 誰かにバレたらどうするのか」
その言葉を最後まで聞くことなく、私は走り出していた。
◇◇◇
紀一郎さんの覚悟は、想像していたよりもずっとかたかった。
紀一郎さんの事だからいつもみたいに優しい笑みを浮かべて、「徳永君にはひみつにしておいてもらおうか」と冗談めいたことを言うと思ったのに、その甘い想像は粉々に崩れ落ちていった。
午後の講義を受ける気にもなれなくて、私は自分の部屋に戻っていた。ベッドになだれ込み、溢れる涙をそのままにしていた。シーツはじきに、じっとりと濡れ始める。
私の恋はあっさりと終わってしまったのだと、頭はちゃんと理解している。でも、心はそれを飲み込もうとするとガタガタと震え吐き出してしまう。目を閉じても瞼の裏に浮かぶのは紀一郎さんの柔らかな表情だけだった、私は目を閉じることもできず、じっと天井を見つめていた。
「あ……」
色々な絵の具がごちゃ混ぜになってしまった頭の中で、一つだけはっきりと浮かび上がることがあった。今日は夜からバイトのシフトが入っていた、こんな腫れあがった瞼で行くのはお客さんにも失礼だった。私はカバンの中からスマホを取り出して、「風邪を引いた」とうそのメッセージを叔父さんに送る。
そのまま電源を落として、再びベッドに沈み込む。こんなことになってしまってから、私は紀一郎さんの事をこの部屋にあまり招かなかったことを悔いてしまっていた。後悔先に立たずという言葉がこんなに身に染みるのは、後にも先にもこれが最後になってしまうのだろう。
この狭いワンルームの中に、紀一郎さんの痕跡はこれっぽっちもない。ベッドの匂いを嗅いでも私の気配しか残っていない、小さなテーブルにも、私一人が立ったら狭くなるキッチンにも。どこを探しても。
それでも、私は彼を探すようにぎゅっと目を閉じて、何度も何度も深呼吸を繰り返す。
何度か浅い眠りについている間に、暗さを増していたはずの空はうっすらと白み始めていた。日付や時間を確認しなくても、朝が来たということだけはわかる。どれだけ辛くてもどれだけ悲しくても朝だけは平等にやってくる。
時間を費やしてみたけれど、この部屋に、紀一郎さんは欠片も残っていなかった。また、ぽとんと涙が零れ落ちていった。
涙の筋をいくつか作っているうちに、部屋のチャイムが鳴った。
気づかないふりをしていても、何度も何度もつんざくように、ドアの向こうの誰かはチャイムを鳴らし続ける。それはけたたましく、隣の部屋の人の迷惑になりそうなくらい。
私は起き上がって、ドアの覗き穴を覗く。そこにいたのは、怒った表情をしている叔父さんだった。
私がカギを開けると、叔父さんは私が開くよりも先にドアノブを回して大きな動きで引いた。
「携帯の電源ぐらい入れろ、バカ。俺がどれだけ心配したと思ってんだ!」
軒先で、叔父さんは声を張り上げる。あまりにも近所迷惑なので、私は慌てて叔父さんを室内に招いた。
先ほどまで横になっていたベッドの、枕元に伏せておいてあるスマホを見て叔父さんはため息をついた。
「どうせ飯食ってないだろ、適当にあまりもの持ってきたからあとで食べな」
「でも……」
「食欲ないっていうんだろ。……志麻さんに聞いたよ」
「え……」
私が見上げると、叔父さんは労わるように、優しそうに微笑んでいた。
「大変だったんだな、お前も」
そして、私の頭を何度も何度も優しく撫でる。その叔父の気持ちに触れた私は、飽きることなくまたポロポロと涙を流していた。嗚咽を漏らす私の背中に腕を回して、まるで小さな子どもにするように私をあやす。
「……閉店間際に来てさ、今日はトーコ休みだって言ったら、俺に言うことがあるって」
紀一郎さんはそのまま、『私のゼミの同期が、自分たちの関係に気づいてしまったこと』『二人の関係が誰かに露見するようなことがあれば、その時点で関係を打ち切るという話はしていた事』『突然、私の事を悲しませるようなことになって本当に申し訳ないという事』を、ゆっくり、大事な物を取り出していくようにそっと話続けたと言う。
「だからさ……人の大事な姪を何悲しませてんだ!って殴っておいた」
「え、ど、どうしてそこまで?!」
「当たり前だろ? トーコの事を幸せにしてくれると思ったのに……結局はこうして、泣かせることしかできなかったんだから」
叔父さんは私をあやしたまま、ぽつりとつぶやいた。
「でも……お前も、失恋して泣くくらい大きくなったんだな」
「……」
「兄貴が死んでから、トーコってどこか冷めてるって言うか……去る者追わずみたいというか、自分では手に届かないと思ったらなんでもかんでも諦めるところがあったから」
「……そう?」
「うん。だから、志麻さんと別れるってなっても、きっと飄々としてるんだと思ってた。……お前、そんなに泣くくらい、志麻さんの事好きだったんだな」
叔父さんは『好きだった』と過去形で……もう無くなってしまったのだと表現する。それでも私の胸は、じくじくという喪失の痛みと共にふっと甘い感傷も蘇る。私はまだ、紀一郎さんのことが好きだ。彼が私から離れると言った今でもなお。
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