秋 ~失われた恋と壊れた日常~ ③
◆◆◆
桐子さんのバイトが終わった後、僕は彼女を僕の部屋に招いていた。いつもの通り。
「それで、皆とはどこにいったんですか?」
「え? あ、あぁ……クラゲの展示会です」
「クラゲ?」
僕の部屋のソファに座る桐子さんは、置いていたカバンを引き寄せて財布を取り出す。その中から、ファンシーなクラゲのイラストが描かれたチケットの半券を取り出した。
「へえ、こんなことやってるんですね」
「私も知らなくて……」
「でも、桐子さんクラゲ好きだから良かったですね」
桐子さんは返事をすることなく、僕の体にもたれかかった。
「疲れました?」
桐子さんの肩を抱くと、桐子さんはため息を漏らした。
「……慣れないことしたせいかな?」
「いいんですよ? 僕の事なんて忘れて友達と出かけても」
「そんな事したら、やきもち焼くの紀一郎さんじゃないですか?」
「バレました?」
桐子さんの腕を引き、抱き寄せる。桐子さんの小さな背中に腕を回すと、彼女は僕の胸の中で深呼吸を繰り返していた。
「紀一郎さん」
「ん? 何ですか」
「……名前呼んだだけです」
「そうですか」
強く抱きしめると、桐子さんの腕が僕の背中に回る。肩に桐子さんの顎が乗り、僕たちの隙間は徐々になくなっていった。
「紀一郎さんのクラゲは……」
「クラゲ?」
「前、買ってくれたやつ。お揃いの……」
「ああ、筆箱につけてますよ。桐子さんは……」
スマートフォンにちゃんとついていますか? と聞こうとすると、それと同じタイミングで彼女のスマートフォンが鳴った。その着信音は途切れることなく鳴り続けた、電話がかかっているのだろう。
しかし、桐子さんは僕から離れることはなかった。
「桐子さん、いいんですか?」
「いいんです」
桐子さんは、「今は、こうしていたいんです」と僕の耳元で囁いた。そのちょっとした甘えのような言葉でも、僕は優越感を感じる。
その電話をかけてきた誰かよりも、桐子さんは僕を優先したのだということに。
「もう疲れたんじゃないですか、今日は」
「そうかもしれません」
桐子さんが、僕に体を摺り寄せる。その呼吸は、どんどん遅くなっていた。まるで眠るときのように。僕は体を離して、桐子さんの手を握る。
「寝ましょうか、今夜は」
立ち上がって、その手を引いた。桐子さんも小さく頷いて僕に続くように立ち上がる。そのどこにでもある何気ない仕草ですら、僕の心に愛しさと幸せがこみ上げる。
研究室の窓から中庭を見ると、教室棟から一気に学生たちが外に飛び出してきた。時計を確認すると昼休みに入ったばかりで、これは食堂に異動する人の波だということが見て取れた。
少しだけ腹が空いたのを感じるが、今食堂に向かうと混んでいて座る場所もないだろう。一つだけだがその席を見たことのない学生に譲り、ブラインドを下げて椅子に深く座った。
目の前に置いてあるパソコンの中で、論文は途中で止まっている。続きのキーを押そうとするが、上手くつなげることもできず、遡ってその一文を消していった。
ブラインドの隙間から、賑やかな声が聞こえてくるようだ。
この声の中に、桐子さんもいるのだろうかと思うと、少しだけ心が華やぐ。どれだけ時間が経とうと、桐子さんが僕の視界を全て埋めた日の事を忘れることはないだろう。
参考にしていた手元の本をもう一度熟読しようと開いた時、控えめなノック音が聞こえた。
「どうぞ」
「……失礼します」
ドアの向こうに呼びかけると、ほんの少しだけ間を空けて扉が開く。
「ああ……こんにちは、徳永君でしたよね?」
「どうも」
「君が受けている講義に課題は出してなかったはずだけど……何か質問でもありましたか?」
「あの……先生のそれ、クラゲですよね?」
彼の目は僕ではなく筆箱に付けたクラゲのストラップを見ていた。
「先生って、クラゲ好きなんですか?」
「まあ。可愛いでしょう?」
「それ、同じの、俺見たことあるんですよね」
僕がどれだけ、それこそ頭のてっぺんから足の先まで彼を見ても、徳永君は僕を見ることはない。彼の視線は、筆箱につけた……桐子さんとおそろいのクラゲのストラップに向いたままだった。
「……若村と付き合ってるのって、先生ですか?」
「……どうして?」
「若村も、同じの持ってるから」
「……それだけそんな事を言うんですか?」
「あとは、ただの勘です」
「そう。話っていうのは、それだけ?」
「もう一つ」
この時初めて、彼は僕と目を合わせた。金色の髪の隙間から真っ黒の瞳が見える。
「もし、先生が若村桐子と付き合ってたとして……それが誰かに知られたら、別れたりします?」
「どうだろう? ……もし僕が真っ当な教育者なら、別れると思うけど」
「そうですか。それだけです、急にすいませんでした」
言いたいことを全て言い終えたのか、スッと切れるように背を向けて徳永君は研究室を出ていく。
潮時なのかもしれない。僕の体を満たしていた幸福は一気に引いていき、空虚だけが残る。
それなのに、僕は桐子さんのことを好きになった日のことを、まるで昨日のことの様にありありと思い出せる。
騒々しい足音が、だんだん近づいてくる。その足音は僕の研究室の前で止まり、矢継ぎ早に何度かドアを叩いた。
「せ、先生、いますか?」
ドアの向こう側から、桐子さんの震える声が聞こえてきた。
「……どうぞ」
大きな音を立てて、桐子さんはドアを開けた。普段落ち着いている彼女らしくはない。額から汗が落ち、息を荒げている。急いでここに来たということが、はっきりわかった。
「紀一郎さん、あの……徳永君、来ました?」
「ええ、徳永君なら少し前に来ましたよ。『若村さん』」
椅子を少し回し、桐子さんを真正面に見据える。陽炎の向こう側にいるみたいに、ゆらゆらとその姿が揺れて見えた。
わざとらしく『若村さん』を強調していうと、桐子さんはさっと青ざめていった。
「若村さん、残念だけど」
「……やだ、いやです」
「ここまでです、僕言ったでしょう?誰かに知られたら、君を守れない」
「嫌です!」
「若村さん、声、周りに聞こえますよ」
「……」
桐子さんは薄桃色の唇に強く歯を立てる、その唇に触れ、口づけを落としたい。しかし、もう僕は彼女に触れることはできなかった。
「僕は、君を守るだけじゃない。守らなきゃいけない仕事もあるし、何より、教え子もいる」
「でも……っ!」
「君を、一番にするわけにはいけないんだ。分かるよね? 『若村さん』なら」
「……『先生』は」
桐子さんも、先ほどの僕の様にわざと呼び方を変えた。
「先生は、ずるいです。いつも」
「君にそれを言われたのは、2回目だな」
「あの時、あなたのことなんて、嫌いになっていれば良かった」
揺れる姿を見まいと目を瞑った。それでも、桐子さんは、いつも僕の瞼の裏にいる。
桐子さんは、崩れるように座り込んだ。その頬に、涙が幾筋も伝っていく。僕はそこに右手を伸ばそうとするが、左手がそれをいさめるようにそれを掴む。僕はその姿を視界に入れないように、椅子を回して桐子さんに背中を向ける。
それから、どれだけの時間が過ぎただろう。ゆらりと桐子さんが立ち上がる気配があった、彼女は緩慢な動きで、研究室から出ていった。最後に一つ、恨みがましいようなため息を残して。
僕は、筆箱からクラゲのストラップを取った。うかつにもこんなものを買ったせいで、彼女に渡したせいでばれたのだとごみ箱に向かって放り投げようとしたが、手は勝手にそれを大事に握りしめていた。
クラゲの足が、手のひらをじわりと痛めつけていた。
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