秋 ~失われた恋と壊れた日常~ ②
彼を見送った後、私は自分の部屋に戻ってシャワーを浴びる。時間ぎりぎりまで部屋を掃除してから、私は大学に向かった。講義のある教室に向かうと、もう教室は学生で埋まっていた。後ろの方の席をあきらめ、仕方なく私は前に座る。
教科書とレジュメを仕舞っているクリアファイルを出して、私は講義が始まるのを待つ。この講義はエリサが取っていないため、私はいつも一人で受講していた。
そんな私の肩を、誰かがトントンと叩いた。
「え?」
驚きのあまり、声がひっくり返ってしまった。その声を聞いた彼は、クスクスと笑う。
「悪い、びっくりさせた?」
「徳永君……ううん、大丈夫」
徳永君は、私の後ろを通って二つ隣の席に座る。彼もカバンの中から教科書を取り出した。三竹くんの姿はないから、きっと彼も一人で受けているのだろう。
「昨日、帰り大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「そう、なら良かった。結構びびってたみたいだから、心配してた」
「ごめん」
「おじさんに送ってもらったの?」
徳永君は、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。私が戸惑っていると、講義室の前のドアから先生が入ってくる。私はほっとして、前を向いた。
講義の間も、隣からは時折徳永君の視線を感じていた。
講義が終わった後、私はそそくさと帰る準備を始めていた。悠長にしていると、また徳永君から何を聞かれるか分からない……気を抜くと、どうしても墓穴を掘ってしまいそうな不安に駆られるのだ。
出していたレジュメと教科書を仕舞い、顔をあげる。徳永君に「さようなら」と言おうとするよりも先に、彼は「あのさ」と私を引き留めた。
「今度の土曜って、暇?」
「……夜からバイトだけど、どうして」
「いや……ほら、さっき他のゼミの奴と話してて……この前の合同飲み会じゃなくてウチラのゼミだけで懇親会出来たらなって思って、今度の土曜、昼間、皆でどっか行かない?」
「どっかって、どこ?」
「それは、まだ決まってないけど……若村、どう?」
「昼間なら、大丈夫」
「わかった、待ち合わせ場所とか時間とか……後で連絡するから」
今度は徳永君が足早に去っていく。彼に「またね」ということもできず……私は何かもやもやしたものを感じながら図書館に向かっていた。
学校から帰って、部屋掃除の続きを始める。洗濯物を畳み衣装箪笥にしまう、ベッドを整える。掃除機をかけて、お風呂とトイレの掃除。紀一郎さんがこの部屋に来るときは、いつもよりもやることが多くなる。
紀一郎さんは、夜の19時ごろやってきた。ドアを開けるとすぐさま滑り込んでくる。そして、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「誰にもバレてないかな? セーフ?」
「大丈夫だと思います」
「良かった。失礼しますね」
「はい、どうぞ」
紀一郎さんはベッドの脇にカバンを置いて、その場に座る。そしてキョロキョロと部屋の中を見渡す。何度も来たことがある部屋なのに、物珍しそうに。私にはそれが恥ずかしくて……だからこそ、紀一郎さんが来る前に念入りに部屋の掃除をすることにしている。
「紀一郎さん、晩御飯オムライスでいいですか?」
「もちろん、僕はなんでもいいですよ」
「はーい。少し待っててくださいね」
エプロンをつけ、私は台所に立った。狭い台所でフライパンをふたつ並べるのは中々難しい。それに、後ろからはチラチラと紀一郎さんの視線が降りかかる。
「桐子さん」
ケチャップで味をつけたチキンライスを、薄く焼いた卵で包もうとしているとき……座っていた紀一郎さんが私に声をかける。
「あれ、描いてほしいです」
「あれ?」
「オムライスに、ハート。憧れてたんだ」
振り返ると、紀一郎さんは楽しそうに頬をほころばせていた。その表情は私にも伝染する。私は紀一郎さんの『お願い』の通り、卵で包んだオムライスの上にハートマークを描いた。
「そうだ、紀一郎さん」
「ん? なんですか」
お皿をふたつ、テーブルの上に置いた。ハートが描かれたオムライスを置くのと同時に、私は口を開いた。
「今度の土曜日、うちのゼミの懇親会があるんですって」
「夜? 桐子さん、バイトの日じゃないですか?」
「いいえ、昼にやるって……みんなでどこかに行くんだって聞きました」
「聞いたって、誰から?」
「……同じ、ゼミの子」
今の紀一郎さんの前で、『徳永くん』の名前は禁句なような気がして、私はとっさに口を濁した。
「行ってもいいですか?」
「まあ……ゼミの人と仲良くするのも、大事ですからね。気を付けて」
「はい」
「それなら、夜は僕とデートしましょうよ。和三さんのバーに僕も行きますから、そのまま僕の家に行きましょう」
「紀一郎さん、寂しいんですか?」
はい、とスプーンを差し出す。その私の手を、紀一郎さんが握った。
「もちろん」
次の土曜日。
徳永君から来たメールの通り、私は駅前でゼミのみんなが来るのを待っていた。時間は刻々と迫ってきているのに、誰も来ない。何度もスマフォを確認しても、誰からも遅刻するというようなメッセージは来ていない。
果たして今日でよかったのか、この時間で大丈夫だったのか……どんどん不安に駆られる私は、徳永君から来たメールを確認しようとアプリを立ち上げた。
「……若村」
「え? あ、と、徳永君」
肩を叩かれ、振り返るとバツが悪そうな顔の徳永君が立っていた。金髪は少し伸びてきて、根元のあたりは黒くなり始めている。私はほっと胸をなで下ろす。
「良かった、誰も来ないから、私、時間間違えちゃったかと思った」
「そう」
「他のみんなは?」
「来ないよ」
「え?」
「俺が図ったの、若村を誘うために」
どういうことなの? と聞こうとするより先に、彼は私の腕を掴んで駅の中に入っていく。強い力で引き込まれ、私は抵抗もできず改札を抜けていた。
「図ったって、どういうこと?」
ホームに着くと丁度良く電車がきていた、徳永君に連れられた私も彼と同じように飛び乗ると、ドアが閉まった電車は滑るように発車していく。
「ゼミの奴らと出かけるって言うのは、嘘」
「嘘?」
「ここまでうまくいくとは思わなかった。若村はさ、良くも悪くも付け込まれやすい性格なんだな」
「嫌味?」
「いや、俺にしてみたら都合がいいから良かったけど。……若村、デートに誘うの難しそうだから」
「デート?」
その言葉を、何度も頭の中で反芻する。
私と紀一郎さんは、あまり『デート』というものをあまりしたことがない。人目に付くことを恐れる私たちは、お互いの家で会うことしかできなかった。
だから、あの水族館に行った時が数少ない『デート』だった。
「普通に誘うと、若村断るだろ? 彼氏がいるからとか言って」
「う、うん……でも、たとえそうだとしても騙して人を連れ出すのは良くないと思う」
「俺も、そう思う。でもさ……なんか、そうしたくなっちゃんだよね。三竹にも若村にも、誰にも内緒で連れ出すの」
徳永君は、屈託なくはにかんだ。その幼く見える表情は、彼らしくないような気がしていた。
「……すぐ帰すから、少しだけ付き合ってよ」
「本当に、すぐ?」
「もちろん。約束する」
徳永君はそこで言葉を区切り、窓の向こうをじっと見つめていた。私もうまく言葉が出なくて、口をつぐんだ。
もし、これが……この『デート』が紀一郎さんにばれたらとんでもないことになるだろう。私は彼にばれないように、胸の奥にそっと仕舞い込んでおくことに決めた。
徳永君はスマホで時折地図を確認する、いつのまにか、私たちは小さなギャラリーに来ていた。
「何の展示をしてるの?」
「クラゲ」
「クラゲ?」
「ほら、若村、クラゲ好きなんだろ?」
彼が指さす先に、私のスマートフォンの下で揺れるクラゲのストラップがあった。
「だから、こういうの好きかなって」
「う、うん」
徳永君は、受付でさっさと二人分のチケットを買っていた。私が自分の分の代金を押し付けようとしても、彼は頑なに受け取ろうとしなかった。
「結構混んでるな」
「人気なの? これ」
「さあ? でも今結構クラゲって流行ってるらしいから」
徳永君は、ふうっと息を吐いた。まるで体の中のこわばりを抜いていくようなため息だった。私が彼の横顔を見上げると、徳永君も私を見下ろす。
徳永君の身長は、紀一郎さんよりも高い。だから、こんな風に見下ろされるのは慣れていない。私が一歩だけ引いて行こうとすると……それよりも先に、徳永君は私の手を握った。
「え……?」
「はぐれたら、悪いから」
強く私の手を握る徳永君の耳が、みるみる赤くなっていく。
私は、その手を握り返すことはなかった。……でも、伝わってくるその熱が、彼が私のことを憎からず思っていることが伝わってきた。
その体温を感じると、戸惑いと……かつての自分が味わったぬるいセンチメンタルが胸の中で蘇る。私は、徳永君を見ないようにうつむいた。
「若村、大丈夫?」
「え?」
「いや……やっぱり、無理やり連れだしたら詰まらないよな」
私は「大丈夫」と小さく頷いた。薄暗いギャラリーの中、小さなクラゲが雲のように泳いでいる。
「……若村、どれが好きとかあるの?」
「種類ってこと?」
「うん」
「私、そう言うのはよくわかってないんだ。でも、ふわふわ気持ちよさそうで、羨ましいなって」
「確かに。何も考えてなさそう」
徳永君は、薄く笑みを作った。
「徳永君は、楽しいの?」
「何が? クラゲが?」
「ううん、私となんか一緒に出掛けて」
その言葉を言い切るより前に、徳永君は私の手を強く握る。痛いくらい、紀一郎さんが私の手に触れる時は、いつも柔らかく包み込む。その感触を思い出すたびに、私は紀一郎さんが恋しくて仕方がない。
「なんか、って言うなよ」
「え?」
「自分の事卑下するみたいで、俺は好きじゃないんだ。そういう言葉」
徳永君の視線は、クラゲに向いたままだったが言葉だけが鋭く私に突き刺さる。
「そっか……」
「わるい、面倒くさい事言ったな。もう行こう」
徳永君は、私から手を離した。彼の恋がそこですっと途切れたのが、私にも伝わってくる。私は小さく頷いて、彼の後ろをついて歩いた。
薄暗いギャラリーの中だと、彼の金色の髪はくすんだ色に見えたような気がした。
「それじゃ……本当にここでいい?」
「うん、私寄りたいところあるから」
「わかった。今日は悪かったな、ムリに連れてきて」
「うん、でも楽しかったよ」
「それなら良かった。また学校で」
徳永君は軽く手を振って、駅に向かって歩き出した。私は少しだけその背中を見送った後、当てもなく歩き始める。仕方なく本屋によって少し時間をつぶしてから、いったん家に帰ってからバイトに向かうことにしていた。手には、まだ徳永君の手の感触が残っている。かさかさしていて、強張っていて……紀一郎さんの手よりも大きかった。それを振り切るように、その感触を服でぬぐっていく。
家に帰ってから疲れた体を癒やすように少しだけ昼寝をして、髪を整えてメイクを軽く直してバイト先に向かう。玄関のドアを開ける前、紀一郎さんからメールが来ていたことに気づいた。開くと、「今日行くの遅れます」とだけ書いてあった。一見そっけないようなメールなのに、私の心はじわりと温かくなる。
たとえ少し遅れたとしても、紀一郎さんは必ず来てくれるということに。
紀一郎さんはその言葉の通り、私のシフトが上がるぎりぎりの時間にやってきた。少しだけ、表情が疲れているようにも見えた。
「お疲れ様です。何になさいますか?」
「ビール、お願いします」
「かしこまりました。……どうかしたんですか? お疲れのように見えますけど」
「もうすぐ学会のシーズンですからね、その準備が終わらなくって」
「……お店来て、大丈夫なんですか?」
「大丈夫。目途はついているので」
私はグラスにビールを注ぎ、紀一郎さんのコースターに置く。紀一郎さんはそれを手に取り、一気に煽っていった。
「桐子さん、おいしいです」
「いつもと同じですよ?」
「桐子さんが入れてくれると、いつもの倍おいしいんですよ」
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