秋 ~失われた恋と壊れた日常~
秋 ~失われた恋と壊れた日常~ ①
長い夢を見ていた気がする。頭に触れる紀一郎さんの手の温かさを感じて、私は目を開けた。
紀一郎さんは目を覚ました私に、頬や耳に口づけを落としていく。
「……おはようございます」
そう言って紀一郎さんは、キスを何度も繰り返す。それがこそばゆくて、私は首をすくめた。寝返りを打つと、紀一郎さんは私に覆いかぶさって、首筋に吸い付こうとした。私は慌てて、彼の胸を押し返す。
「だ、だめですって」
「……どうして?」
「どうしてって……。もう、見えちゃうところだからダメです」
「それなら……」
そう言った紀一郎さんは、私が着ていたシャツをめくった。肌が彼の眼前に晒され……紀一郎さんは、鎖骨の下に強く強く、痕を残すために吸い付いた。
私の体には、紀一郎さんがこんな風に付けた痕跡がたくさん残っている。
昨晩、彼は路地裏でキスを繰り返した。街を行く人が、たまにちらりと私たちの様子を窺い見る人や冷やかすように口笛を吹く人がいて、その間ずっと冷や汗を流していた。
知っている人がいたら、どうしよう。
私たちの関係がばれたら、どうしよう。
彼の高ぶりが収まらなかったら、どうしよう。
そんな不安ばかりが胸をよぎる。私が紀一郎さんの胸を押すと、彼は私の背中に回した腕の力をさらにこめる。
「ん、ん……」
くぐもった声は、紀一郎さんの腔内に吸い込まれていく。滑り込んだ彼の舌は縦横無尽に私の口内をめぐり、互いの水音が耳についた。
紀一郎さんは、次第に私をがんじがらめにしていた力を抜いていく……すっとその腕がほどけ、彼は私を引き離した。
目を丸くさせて……まるで信じられないと言うように。
「紀一郎、さん……?」
私がその名を呼び掛けても、彼は少しも反応しない。まるで凍ってしまったみたいに。私は恐る恐るとその強張った頬に手を伸ばす、ひんやりと冷たい指先で触れる紀一郎さんの頬は、火が付いたように熱かった。
「……ごめんなさい」
紀一郎さんは、頭を伏せた。下から覗き込むように彼の表情を見ると……泣きそうな顔をしていた。
「どうして……私と徳永君が一緒にいたからですか?」
「……」
「それとも、私がまた……本当のことを言わなかったから?」
「……ほら、道に迷ったなんて嘘じゃないですか」
「だから、それは……」
私が口をつぐむと、紀一郎さんは私の顎を掬い、もう一度口づけた。今度はとても優しく、慈しむように。
「どうせ、僕が友紀子と話しているの思い出して、気が引けたのでしょう?」
「……」
「……何があったかは、言いたくなったら話してください。君は、自分を強く見せようとするときがあるから。僕に甘えたくなった時にでも話してくれたら、もういいです」
「……はい」
「でも、次からは」
そこで言葉を区切り、彼はまた私にキスを落とす。今度は唇を割り、舌先が私の舌に触れ、そのままゆっくり絡まってくる。私がそれに応じると、紀一郎さんは私の腰に腕を回し……ぴったりと体を密着させてくる。
「次からは、必ず僕を頼って。……桐子さんが、他の男に頼るところは見たくない」
私は深く頷く。紀一郎さんは安心したように笑い、私から離れていった。そして、するりと私の手を握る。
「ま、待ってください!」
私の手を握り、指を絡ませる。街の中を歩くカップルがしているみたいな手のつなぎ方だ。紀一郎さんはスタスタと歩き始め、私は少し遅れて小走りでついて行く。
「ねえ、離して、ダメですって」
「いいじゃないですか、少しくらい。……こんな遅い時間なら誰も知っている人なんていませんよ」
「でも……」
「それに、桐子さん一人で歩かせるの危ないから」
彼は歩くのをやめない。紀一郎さんはこんなとき強情だ、私はあきらめて、その後ろをついて歩く。
紀一郎さんの手はカサカサとしていて、私よりも少しだけ温かかった。紀一郎さんが私に触れる時の温度が、私は好きだった。頬を摺り寄せたいと思うくらい。
それは、彼の家に着くまで我慢していた。紀一郎さんも同じだったようで、その晩、私たちはずっと触れ合っていた。浴室でも、ベッドの中でも。
「それじゃ、名残惜しいけれど……僕はもう大学に行きます」
「もうそんな時間ですか?」
勢いよく飛び起きり、ベッドサイドにある時計を確認する。紀一郎さんが言っていたとおり、彼の出勤する時間になっていた。
「桐子さん、今日は何講から?」
「3講です」
「それなら、もう少しゆっくりしていっても大丈夫ですよ。疲れたでしょう?」
私は首を横に振る、それを見て紀一郎さんは「若いな」と囁いた。
「今日は、バイトの日?」
「いいえ、今日は休みです」
「分かった。それなら、今日は桐子さんの家に行ってもいい?」
「……え?」
「最近、僕の部屋ばっかりだから。たまにはいいでしょう? ……それじゃ、遅刻したら困るのでもう行きます、また夜に」
私に何も言わせず、紀一郎さんはあわただしく部屋を飛び出していった。私は崩れ落ちるようにベッドに沈み込み、ため息をつき体をぎゅっと抱きしめた。まだ体中に、紀一郎さんが残っているみたいだった。
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