去年の春 ~若村桐子の恋、志麻紀一郎の日常~ ⑥


 明美が僕と別れたがっていると告げたのも、友紀子だった。僕をあのバーに呼び出したと思えば、重々しく口を開く。



「明美の事なんだけどね」


「明美に何かあった?」



 友紀子を見つめようとしても、彼女は僕から視線をそらそうとする。友紀子の肩を掴んで、強引にうつむく表情を覗き込もうとする。友紀子の白い喉がびくりと震えた。



「志麻君と、別れたいって言ってる」



 明美がそう思っていることにはうすうす感づいていた。だが、飲み込めるほどの度量も覚悟もこの時の僕には全くなく、僕は何度も何度も友紀子に聞きなおしていた。



「どうして? 僕の何が不満だった? 定職についていないこと? 将来が不安だって?」


「……他に好きな人ができたって」



 友紀子が、ぽつりとつぶやいた。その静かな言葉は僕の鼓膜を引き裂き、頭の中を串刺しにして、心臓を掴んでつぶそうとした。息が止まり、目の前がくらくらとかすみ始める。指先は凍ったように冷たくなるのに、体がどんどんと熱くなっていく。目の端から、涙が伝った。



「どこの、だれ?」



 そう言うだけで、精いっぱいだった。



「職場の先輩って言ってた」


「どんな人?」


「そこまで知らないよ、私だって明美から聞いただけだもん」


「そう」



 グラスの中で、僕の熱に当てられたように氷が解けていく。言いたいことも聞きたいことも、たくさんあった。どうして僕と別れたいと思ったのか、その先輩とやらのどこが良いのか、どうしてそれを直接僕に言ってくれないのか。

 しかし、それは友紀子に聞いても意味がない。ただ、一つだけ確かめたいことがあった。



「その『好きな人』とは……もう付き合ってるんじゃないの?」



 僕の言葉を聞いた友紀子は、静かに頷いた。



「明美らしくないよ、二股かけるなんて。別れたいなら、素直にそう言えばいいのに」


「だって」



 友紀子の声が、静まり返ったバーの中に響く。友紀子はもう一度、「だって」と繰り返す。



「志麻君のこと、怖いっていうんだもん。直接そんな事言ったら、もしかしたら……」


「僕が明美のことを殺すかもしれないって?」



 僕の声は、震えていた。



◆◆◆



 僕はあれ以来、お店に行くことはなかった。あの空間でもう一度若村さんに出会ってしまったら、波に押し流されるように彼女の名前を呼んでしまいそうだったからだ。

 出会い方は、自然だった。あのまま客と店員という関係を続けていたら、彼女が望んでいた関係になっていたかもしれない。

 しかし、次に出会った瞬間僕たちの関係はくっきりと離れていった。大学の教員と学生、対岸に咲く花のようなそれは、種を広げることをあきらめひっそりと咲き続ける。



 夏休みも近づいたころ、1年生のゼミ生で百人一首大会を開くという宣言の通り、僕は普段授業で使っていない和室に学生を集めた。若村さんは、「結構本格的にやるんですね」と笑みを浮かべている。僕は彼女に、読み札を渡した。




「よろしくお願いします」



 もう、彼女の名前は呼ばない。呼ばなくても、コミュニケーションは十分に取れる、今だって読み札を渡しただけで彼女は気づいた。


 学生たちは僕が思っている以上に予習をしていてくれた。僕ばかりが札を取ることもなく、和気あいあいとしながら進んでいく。最優秀者にはクーポン券をプレゼントする、と僕が言ったせいでもあるかもしれないが。

 僕の真正面に座る若村さんも、読み札を片手に優しそうな笑みを浮かべていた。その読み方は、さすがかるた部で読む係をしていたと言うだけある。想像していたよりもうまかった。



「あっ!」


「へへーん、私が先~」


「くそ、トーコちゃん、次!」


「はいはい……」



 三竹くんにせかされるように、若村さんは姿勢を正して次の読み札を取る。そして、はっきりと透き通る声でそれを読み上げ始めた。



「あまりてなどか 人の恋しき」



 ――浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき



 頭の中に、びりびりとした電気が走る。考えるよりも、体が先に動いていた。少し遠いところにあったその札に手を伸ばし、指先で弾き飛ばした。目の端に、先ほど若村さんに催促していた三竹くんの武骨な手が映る。



「ずっるい! 先生まで来るなんて」


「あは、あはは……」



 僕との競争に負けた彼は、勢いに乗って和室の隅にまで飛んでいったその札を取りに行ってくれる。



「……この札だけは、他の誰にも取られたくなかったんです」



 札を受け取った僕は、そう返した。

 その言葉に、真正面に座る若村さんが目を丸くさせていたのを今でもはっきりと覚えている。


 あの札は、二度目に彼女に会ったとき……『若村さん』に会ったとき、彼女が好きだと言っていた和歌だ。



 ――この思いを耐え忍んでも、耐えきれぬほどにどうしてこれほど、あなたのことが恋しくてたまらないのだろうか



 耳と顔が、赤くなっていくのが分かる。

 年甲斐もなく曝け出した独占欲が、誰にもばれていないかと不安で仕方がない。それなのに、彼女だけには知っておいて欲しいという矛盾した気持ちが心を占めていく。何度も深呼吸しても、せわしない心臓の音は落ち着くことがなかった。鼓動と誰かの足音が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり始める。


 自分でも、愚かであるという事が分かる。一度突き放したのに、手が届かなくなってからこんなに恋しいと思うなんて、あるわけがない。それでも、舌に残るあの甘さが、くっきりとした黒目が体中を駆け巡る。


 踏み出した時には、もう手遅れだった。深い海の中に沈むしかない。


 図書館の、誰も来ないあのお気に入りの場所に来ていた。本棚を背に、僕はずるずると崩れ落ちる。呼吸どころか、体中熱っぽい。何度深呼吸を繰り返しても、心も体もざわめいたままでちっとも落ち着こうとしない。そのうち誰かが近づいていることに気づくが、平穏を取り繕うことも出来ない。



「先生……?」



 その鈴の鳴るような声は、僕をあっという間に絡めとる。顔をあげると、息を切らして頬を赤く上気させる若村さんが立っていた。



「若村さん?」


「先生、大丈夫ですか」


「どうしてここに」



 ふらりと立ち上がり、彼女に目を合わせる。彼女の瞳は、僕を心配する色で満ちている。その色に中心に映る僕は、なんと情けない姿だろう。



「先生が、前にここが好きって言ってたから……」



 ふにゃりと、若村さんは笑みを作る。それが、僕を荒波の中に引きずり込んでいった。


 彼女が言葉を紡ぐより先に、彼女の腕を引いて自分の胸に引き込んだ。ふらりとよろけるその体を支えるように、背中に腕を回して彼女を抱きしめていた。まるで、荒れ狂う波の中で細い枝に縋り付くように。二度とそれを離さないように。


 大きく深呼吸をすると、甘い香りが鼻腔をくすぐる。それが、若村さんの香りであるということに気づくのはそう時間はかからなかった。もう一度深く呼吸をしようとすると、腕の中で若村さんがもがく。目を丸くさせて僕を見上げる彼女の瞳を見ていると、魔が差したのだ。



「志麻せんせ、ん……」



 彼女の言葉も呼吸もすべて、僕の唇で塞ぐ。噛みつくような口づけに、若村さんは驚き、僕の胸を押して抵抗しようとした。僕が舌を滑り込ませ、彼女のそれに絡みつく。若村さんは僕の胸板をドンドンと叩いたけれど、やがて力が抜け、シャツをぎゅっと握りしめるだけになった。


 唇を離す。若村さんの頬は上気していて、彼女は細く長く息を吐いた。



「……ずるい、ずるい、ずるい!」



 僕に抱きしめられたまま、彼女は小さく叫ぶ。僕の耳をつんざくように突き刺さっていった。



「……どうしてこんな事するんですか、自分のことなんか忘れろって言ったの先生なのに」


「若村さん」



 俯く若村さんの小さなこぶしが、僕の胸を何度も何度も叩く。



「忘れようとしたのに……あなたが忘れろって言うから、そうしようと思ったのに。諦めようと思ったのに」



 その声は、徐々に涙まじりになっていった。僕はその頬に手を添えて、ゆっくりと上を向かせる。僕の指先が若村さんの涙で濡れる。大きな黒い瞳に、僕の姿が映った。その表情は若村さんの戸惑うような表情ではない。柔らかな、今まで見たことのない笑みがそこにあった。



「ずるい、です」


「ごめんなさい、大人はみんなずるいんです」


「こんなずるい人……あなたの事なんで、好きになるんじゃなかった。」



 彼女の額に、こつんと自分のそれを当てた。



「貴女の、名前を呼びたいんです。貴女のすぐ近くで、ずっと」



 その言葉に、若村さん……桐子さんは頷いた。僕の背中に腕を回して、おずおずと力を込める。僕は、その小さな体を今度は包み込むように優しく抱きしめていた。


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