去年の春 ~若村桐子の恋、志麻紀一郎の日常~ ⑤
◆◆◆
彼女が僕に対して好意を抱いているのは明白だった。それは弾け飛ぶ泡や、空に流れる雲のようにすぐ姿かたちが変わるものだと僕も分かっていた。それは、すぐに形を変えて姿を消す。
僕に好意を抱いた女性たちは、皆そうだった。それを利用して、何度もその女性たちをつまみ食いしたこともある。しかし、その全員が僕に飽きたか……他に好きな人ができたと言って去っていった。
そう、かつての恋人――明美のように。
そんなことが続いたせいで、僕の足は徐々に色恋沙汰から遠ざかっていった。僕に対する好意を感じたら、その芽を花を咲かせる前に事前に摘み取る。そんな日々を送っていたある日、若村さんが僕のことを好きになり始めたことに気づいた。若村さんの目が、呼吸が、頬のゆるみが、恋の熱に帯びている。それさえ感じることさえできたなら、僕がそれを摘みに行くには十分だった。
だから、僕はあの日……彼女の胸に眠る恋の花が咲き誇る前に、彼女の想いを根絶やしにした。聡明でたんぱくな彼女のことだ、すぐに僕への想いなんて諦めるだろう。
しかし、その目論見は彼女のたった一つ、淡い願いに打ち消された。
「もう一度だけでいいから、名前呼んでくれませんか?」
「……名前?」
「あの雷の夜のときみたいに、『桐子』って。そうしたら」
若村さんは、そこで言葉を区切った。外から聞こえる軽快な足音が近づいていることにお互い気づいたからだ。若村さんはそっけなく、「もう大丈夫です」と僕を突き放した。
「でも……」
「お客様にこんなことしてもらってるのばれたら、怒られるので」
僕は持っていたグラスのかけらを若村さんが持ってきたちりとりの上に置いた、そしてそっと座席に戻っていく。
僕の舌の上に、飴を舐めた時のような甘さが残った。それが彼女の名を、「桐子」と呼びかけた名残であるということに僕はしばらくの間気づかないでいた。
あの晩から、若村さんは少しだけ変わったように見えた。それは、僕だけがわかるものであって、彼女の友人や他のゼミ生にはいつもと変わらないように見えただろう。
「……若村さん」
「はい!」
ゼミが終わってから彼女に声をかけると、いつもと同じように振り返った。その頬にも、わずかに笑みが残る。
「今度ゼミでやる百人一首大会なんですけど、若村さんが読み手をやってもらえませんか?」
「え? わ、私でいいんですか?」
「だって、やってたんでしょう? こういうのは得意な人にやってもらうのが一番ですから」
僕の言葉にも、しっかり頷いて「わかりました」と応える。その間も、真っすぐ僕の瞳を見た。……だが、その瞳の中にはもう恋の名残は残ってはいなかった。
それでいい、と僕は考える。僕なんかに思慕の情を抱き続けてもろくなことにはならないだろう。
しかし、僕の舌の上に残る甘さは消えることなくとどまり続けていた。
「トーコちゃんが読むの? よかったー!」
僕の提案を喜んだのは彼女だけではなく、三竹くんや広瀬さん、他のゼミ生たちも歓喜の声をあげて胸を撫でおろしている。
「トーコがやったら、全部取られちゃうって話してたとこなんですよ」
「そんな事しないって、何枚か残すよ」
「ほら、トーコちゃん、めっちゃやる気じゃん!」
若村さんの友人が、彼女の名を気軽に呼ぶことに羨ましく思い、そのまま絞られるような痛みを感じる。僕は曖昧な笑みを浮かべながら、そそくさと教室を離れる。そのまま早歩きで研究室に向かった。
研究室のドアを閉め大きく呼吸をすると、一気に酸素が体中をめぐり目の前が眩む。目を閉じると、閃光のような明るい光が目の奥で何度も瞬いた。
あの日以来……図書館で若村さんに出会うことはなかった。
それが彼女なりの決別の合図だったのだろう。僕は本棚にもたれかかる、ひっそりと 静まり返った図書館に僕がずるずると崩れ落ちる音が響き渡った。目を閉じると、明美が僕から遠ざかっていく姿が今でも瞼の裏に焼き付いている。しかし、それを上書きするようにあの時、「名前を呼んでほしい」と僕に懇願する若村さんが重なる。
今まで感じたことのない、未知の感情が僕の体をぐるぐると回り続ける。それは血に混じり、体中くまなく満たしていく。固く目をつぶって、僕は明美のことを思い出そうとしていた。どれだけ若村さんが邪魔をしても、明美の事だけを一心不乱に思い出そうとしていた。
明美とは、大学2年の時に出会った。文学部に所属する僕と、経済学部の明美との接点はそれまで全くなかった。僕たちが出会ったのは、僕と同じ文学部に在籍していた友紀子が僕に、同じサークルの友達である明美を紹介したからだった。
明美を紹介した後、友紀子はそっと僕に耳打ちした。
「志麻君のこと、気になるんだって。まあ、ぼちぼち仲良くしてあげてよ」
その言葉通り、僕が明美を見ると明美は頬を赤らめてうつむいた。僕たちが付き合い始めるまで、そう長くはなかった。
明美は、僕を見つけるのがうまかった。僕がどこにいても、明美はすぐにやってくる。教室の隅、図書館の奥まったところ、中庭のベンチ。僕を見つけた時、明美は決まってこう言った。
「もう、探したよ」
と、とびきり優しげな声で。
僕が手を伸ばすと、明美は僕の手を握り隣に立つ。そこが自分の場所だと周りに宣誓するように。僕も、明美の隣が一番心地よかった。
明美と付き合い始めてから、明美の親友だという友紀子とつるむ時間も増えていった。
あのバーを見つけ僕たちに紹介したのも、友紀子だった。学生が通うには高めの価格だったそこに行くために、僕たちはアルバイトを増やしたりしたものだ。
バーに行った後、明美は決まって僕の部屋に泊まる。狭いワンルームのシングルベッドで、僕たちは汗だくになってくっつきながら深い眠りにつく。
それが、僕たちの日常だった。
あっという間に、大学を卒業する時がやってきた。明美も友紀子も民間に就職したが、僕は大学院に残ることにした。恩師がそう勧めたのだ。
「でも、研究者ってあってると思うよ」
明美も、そう僕の背中を押してくれたから僕は胸を張ることができた。しかし、同じような時間を過ごしていた僕と明美は、次第にすれ違うことが増えていった。
初めて違和感を覚えたのは、僕が修士を修了して博士課程に進んだ頃だった。明美が、あのバーに行きたがらなくなった。バーに行くことも、僕の部屋に来ることもめっきり減っていた。
「仕事、忙しいんだ」
たまに会ったとき、僕がそう聞くと明美は何も言わず曖昧に笑って見せた。何か言いかけているということに、僕でも気づいた。でも、気づかないふりをした。
「うちに寄っていきなよ、久しぶりにさ」
明美は、僕の手から離れようとする。その手を強く掴んで引き寄せようとすると、明美の脚が震えた。
「明美? 大丈夫?」
顔を覗き込むと、明美は僕から一歩離れていく。
「あ、明日、早いの。私」
明美の声も同じように震えた。明美は嘘をつくとき、必ず声を震わせる。長い間付き合ってきた中で、いつの間にか見抜いていた癖の一つだった。最近、明美が声を震わせることが増えた。
「仕事?」
それに、僕はわざと気づかないふりをする。明美に問いかけると、曖昧に頷いた。名残惜し気に僕が手を離すと、明美はあからさまにほっと息をついて「またね」と手を振る。僕は遠ざかっていく背中を、見えなくなるまでじっと見つめていた。月の灯りはぼんやりと夜の闇を照らそうとするが、厚い雲がそれを遮った。
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