去年の春 ~若村桐子の恋、志麻紀一郎の日常~ ④
それは思い出し笑いとなってしまって、私の横顔をまじまじと見つめるエリサは不思議そうに私の顔を覗き込んできた。
「トーコ、どうしたの? なんかあった?」
「ううん、何にもない」
「ふーん。トーコ、百人一首覚えた?」
志麻先生は以前話をしていた通り、ゼミの中で百人一首大会を開こうとしていた。優勝賞品は目下考え中らしい。
「覚えるも何も……」
「そうだよね、トーコかるた部だったから覚えてるもんね~……私、受験終わったら全部忘れちゃったよ」
「ふふ、練習付き合ってあげようか?」
「うーん。でも成績につながるわけじゃないし……テキトーにやるよ」
大学生活に慣れると、適度に手を抜くことを覚える。授業に出席することにも、課題をこなすことにも。
私も、たまに授業を休むことがあった。だけど、週に二コマある志麻先生の授業だけはさぼることはなかった。今振り返ると、志麻先生との接点を増やしたかったのだと思う。叶わないと頭の中では理解できているのに、心は何をしていても志麻先生を向く。深い海に沈んでいくときに、太陽の光に向かって手を伸ばすように。
「そうだ。今度の金曜の夜、暇?」
エリサは、何か思い出したかのように口を開いた。
「どうだろ? 金曜の夜は突然バイトのシフト入ることあるから……何かあるの?」
「いや、高校の時の同級生なんだけどさ……理系の大学行って女子が全然いないから、紹介してほしいって言われて」
「何? 合コンってこと?」
「まあ、そうなるね。トーコ彼氏いないでしょ? ちょうどよくない?」
「うーん」
「もしかして、もう付き合ってる人いるとか?」
私は静かに首を振る。そして、エリサの言う通り『ちょうどいい』のかもしれない。夢みたいな恋から体も心も引き離し、現実に戻るチャンス。
「考えておく」
「オッケー、まあ無理しなくてもいいからね」
「うん、ありがとう」
私は途中でエリサと別れ、一人図書館に向かう。何を借りるという訳でもなく、私の足は自然と志麻先生の『お気に入りの場所』に向かっていた。
日に焼け、黄ばんだ紙の臭いがツンと鼻につく。私は深呼吸せず、浅く息を吸って、長く吐いた。
背表紙を指でなぞり、一冊ずつタイトルを読み込んでいく。時折、題字がかすれて読めない本もあった。その分、降り積もった歴史を感じる。その中に、この学校に通っていたころの志麻先生も含まれているのだ。
誰かの過去に、嫉妬するようなことがあるなんて思いもよらなかった。私が知らない、聞くこともできない、知る由もないもの。きっと、誰かに恋をした志麻先生がそこにいるのだろう。
私は、自分の手のひらをじっと見た。そして、そのまま手ごたえもなく空を掴む。
どれだけ祈っても懇願しても、この世界には手に入らないものがある。そのことを、私はよく知っている。
「……若村さん?」
気づかぬうちに……志麻先生が、私の顔を覗き込むように立っていた。
「え? ……先生?」
「大丈夫ですか? 体調がわるいとか……」
志麻先生が、私の肩に触れようとする。しかし、私は一歩だけそこから遠ざかった。志麻先生の手は、少しだけ私の肩を掠めて空を切った。
「だ、大丈夫です。私なら……」
「そうですか?」
「はい、あの……先生は、」
私はぎこちなく笑みを作りながら、言葉を探した。いうべき言葉なら、いくらでもある。もう授業はないんですか? とか、今日はお店きますか? とか。しかし、堰をきって溢れ出した言葉は私の意図しないものだった。
「先生には、今恋人はいるんですか?」
「……え?」
先生は、驚いたように目を丸くさせた。私の顔に熱が集まり、どんどんと赤くなっているのが分かった。私は、先生の瞳から慌てて顔を反らした。
「あの、気になって。先生は、いつもうちのお店に一人でいらっしゃるから」
「ああ、それで……あのお店は、今も昔もカップルばかりですからね」
先生の声音に、失礼なことを言われて怒っているような気配はない。いつも通り、落ち着いた口調だった。ただ、瞳だけは……私を通り過ぎて遠くを見ているような気がした。
「最近は、とんと……そういうことからはさっぱりですよ」
「そう、ですか」
「若村さんは?」
「え、あの……」
「大学は、楽しい?」
私は、小さく頷いた。志麻先生は小さく、「良かった」と呟いた。
「失礼な言い方になるかもしれないけれど、教室で君の自己紹介を聞いたとき……少しだけ不安に感じて」
「あ、ああ……」
「でも、ちゃんと好きな物もあって。バイト先でも笑ってみせてくれるから、大丈夫だとは思っていたけど……君がちゃんとそう思ってくれて良かった」
志麻先生は、笑みを深くした。それを見た私の胸に、暖かいものが降り積もっていくのが分かった。じんわりと熱をもつ胸に手を添え、私は膨らんだ空気を抜くように細く長くため息をついた。
「ねえ、若村さん」
そんな私の隙をついて……志麻先生の指が、私の髪に触れ、そのまま横顔にかかった髪を耳にかけた。私の赤く染まった耳が外気に晒され、その一点に志麻先生の視線が集中していることに気づいた。
「もう、やめなさい」
見上げると、先生はとてもやさしい目をしていた。その言葉の意味を理解するのは、大分時間がかかった。それでも先生は、私が理解するまでじっと、深い呼吸を繰り返しながらじっと待っていてくれた。
志麻先生に私の淡い好意がばれていた恥ずかしさよりも、始まるよりも前にそれが終わってしまう、足元から崩れ落ちていくような恐怖が私を襲う。氷水に浸されたように、体はどんどん冷たくなっていく。志麻先生の指先が、熱く感じるくらいに。
「こんな、おじさんの事なんか好きになるなんて……ただの時間の無駄ですよ」
「でも……」
「僕も長いからね、すぐ気づくんです。君みたいな、若くてまだ未熟な女性に好意を寄せられたら」
「……」
「この仕事も長い、年度が替わるたびに……僕は必ずと言っていいほど、誰かに好意を持たれるんだ。こんなのんびりとした性格だし、いい歳して独身だというのもあるだからか、君たちにとって……20歳近く上でも身近に感じるのでしょう?」
テキストを読み上げるように、志麻先生は淡々と話を続ける。
「だからこそ、僕はその芽を摘むことにしている」
「……どうして?」
「言ったでしょう? 僕なんかに使う時間なんて、ただ無駄なだけですから」
志麻先生は、私から手を離した。その表情は、いつも通り優しくて……だからこそ、先生が本気で言っているのだと伝わってきた。
「それに、君たちはすぐに切り替えることができるのがいい所です。さっさと年の近い人と、楽しい恋愛をした方がいいですよ」
「……」
「……次会うときは、いつもの若村さんに戻っていてくださいね」
志麻先生の笑顔は、いつも通りだった。彼の背中を見送った後の私は、どうやって家に帰ってバイト先に向かったのか全く覚えていない。
その夜、先生は言葉通り本当にお店に来た。隅の席に座り、私が聞くよりも先に「ビールください」と口を開いた。私はわずかに震える手でビールをグラスに注ぎ、先生の前に置く志麻先生はいつも通り、「ありがとうございます」と小さく呟いた。
時間が経つにつれて、お客さんはだんだん減っていく。閉店が近づいてきたころには、もうお客さんは志麻先生しか残っていなかった。
「トーコ、ちょっと」
おじさんがとても小さな声で、私をバックヤードに呼ぶ。志麻先生はそれに気づかぬふりをしながらグラスを、まるで濃度のあるカクテルを飲むように、少しずつ傾けていた。
「何かあった?」
「いや、知り合いから前から欲しかった酒が手に入ったから来いって連絡があったんだけど……行ってもいいか?」
「大丈夫、だと思う。今お客さん一人だけだし、もう閉店だから」
「悪いな、すぐ帰るから」
叔父さんはエプロンを外し、志麻先生に一言お詫びを行ってからそそくさと出て行ってしまった。ずっと欲しいと話していたから、きっと浮足立っているのだろう。
シンと静まり返った店の中で、私は志麻先生と二人きりで過ごすことになった。いつも出会う図書館よりも静かで、志麻先生の呼吸すら聞こえてきそうなくらい。手持無沙汰になった私は、もう乾いているグラスを拭き続けた。布巾とガラスが擦れあう、きゅっきゅっという心地いい音が響く。何回か擦っている合間に、志麻先生は一口ビールを煽る。その繰り返しだった。
こういうとき、先生に話しかけた方がいいのだろうか? 振られた方が振った方に気軽に話しかけた方が、これからの遺恨は残らないのだろうか?
今までこんなこと、経験したことがないから……私にはどうしたらいいのか皆目見当がつかない。でも、たった一つだけ私のも分かることがあった。
諦める。それだけだ。諦めることには慣れている。お父さんが死んだあの夜から、私は全ての事を諦めた、執着してしまうといざ別れなければいけない時、辛くて仕方がない。
先生が好きだったことも、彼とどうにかなりたいと思ったことも、すべてなかったかのように諦める。私の手元に残ったカードはそれだけで、それを切り札にするほかなかった。
志麻先生のグラスが空になり、小さく口を開いた。その言葉を遮るように、私の手からするりと拭いていたグラスが滑り落ちていく。ガラスが粉々に砕け散る音が大きく響く、それなのに、私の耳には志麻先生が息をのむ音が真っ先に届いた。
「……申し訳ございません!」
「いや、大丈夫ですか?」
私は何度も頷いて、カウンターの中でしゃがんだ。割れたグラスの破片に照明が反射して、私の憂鬱な表情も写り込んだ。私が破片を拾おうと手を伸ばすと、いつの間にかカウンターに回り込んでいた志麻先生がそれをとめるように私の手を握る。私がハッと顔をあげると、志麻先生はいつも通りの柔らかな笑顔を浮かべている。
「若村さん、ちりとり持ってきてください。怪我をしたら危ないから」
志麻先生の手は、私からすっと離れていく。大事に握りしめていたものが指からすり抜けていくような錯覚に陥る。私はこらえることができず、「先生」と声を出していた。
「どうかしましたか? 若村さん」
「もう一度だけでいいから、名前呼んでくれませんか?」
「……名前?」
「あの雷の夜のときみたいに、『桐子』って。そうしたら」
たった一言、それだけ言ってくれたら……私は先生の事をちゃんと諦めることができる。
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