去年の春 ~若村桐子の恋、志麻紀一郎の日常~ ③
アルバイトのない夜は、家で一人じっと過ごす。夕食を1人で食べて、図書館から借りてきた本をむさぼるように読む。
大体は、授業中志麻先生が勧めてきた本ばかりだった。そういう風に本を選んだ方が、当てもなく図書館をうろつくよりも時間の節約になることに気付いた。
図書館でも、志麻先生を見つけることがよくある。先生は私と目が合うたび、少し笑って会釈をする。私も、きっとぎこちなく笑顔を作りながら頭を下げている。
先生が、どこの書架に向かっているのかは、私は知らない。
大きく伸びをして、その勢いのまま床に寝転んだ。カーテンの隙間から、細くなった月が見える。
「……夏の夜は」
――夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいずこに月宿るらむ。
こんな月の晩、志麻先生はどこで何をしているのだろう。
私のいないお店で、また一人でしっぽりとお酒を嗜んでいるのかもしれないし、私の様に本を読んで過ごしているのかもしれない。
私の生活に、大きな変化はない。
ただ、少し、ほんの少しだけ志麻先生の事を考える時間が増えた気がする。本から目を離した瞬間、講義を受けるのに少し疲れて窓の向こうを見た時、校舎のどこかで志麻先生の後姿を見つけた時。私は、彼に名前を呼ばれた時の事を思い出してしまう。
◇◇◇
「こんばんは」
「こんばんは、志麻先生」
「今日は、若村さんのいる日だったんですね」
ドアベルがなり、顔を上げると志麻先生が軽く頭を下げていた。
志麻先生は、私の中で薄く雲が広がったのと同じタイミングでお店にくる。まるで、先生が私の中で住み着いてしまって、私の事を逐一観察しているみたいに。
「先生、何になさいます?」
「じゃあ、とりあえずビールで」
「ふふ、かしこまりました」
ビールとお水は、このお店で唯一私が用意できるものだ。
カクテルは全て叔父さんが作り、私はそれらに一切触れることが出来ない。これが、叔父さんの『こだわり』で、私もそこにずかずかと立ち入るつもりもない。それに、お客さんもほとんど、叔父さんの作るカクテルが目当てでこのお店に来る。
このお店でビールを頼むお客さんは、今は志麻先生だけだった。
「いいんですか?」
「何が?」
「前いらっしゃったときはカクテル注文されてたのに、最近はビールばかりで」
「……いいんです、これで。若村さんも上手になってきたし、僕はこれが良い」
「……ありがとうございます」
志麻先生に名前を呼ばれるたびに、他の誰か(それが例え友人のエリサであっても)と比べて耳が少し熱を持ちこそばゆくなる。他の誰よりも特別になった気がして……そして、すこしだけ欲が出てくる。
まだ少し濡れたグラスを置いて、ビールグラスを手に取り、サーバーから注いでいく。上にたまった不揃いの泡を取り除き、きめ細やかな泡を継ぎ足す。
そのグラスを、先生の前にあるコースターの上に置いた。
「先生は、このお店になるずっと前からここに通ってたって本当ですか?」
「ええ、本当ですよ。それこそ君くらいの頃から、家庭教師のバイトしていたんですけど、お金を貯めて、たまの贅沢をしに」
「……そうなんですね、今みたいにお一人で?」
こんな私に、誰かの事をいちから全て知りたいという願望が現れるなんて思っても見なかった。
「それは……どうだろう? 若村さんはどう思う?」
「先生が私くらいの頃の事なんて、なんか、あまり想像つかないです」
「それは、若村さんが今の僕しか知らないからですね。仕方がないです」
「そうですね……きっとそうですね」
拭き終わったグラスを棚に戻し、別のグラスを手に取る。涙でぬれた顔は、きっとこんな感じだ。
「……先生」
「何ですか? 若村さん」
「先生は、一緒に来ていた人の事、何て呼んでいたんですか?」
「え……?」
あの雷が落ちた晩、先生がただの『お客さん』だったころ。彼が言った『トーコ』という一言だけが、まだ耳にへばりついて離れないでいる。
一緒に来ていた人の事も、きっと優しくそう呼んでいたのだろう。それか考えるだけで胸が痛くなってしまう。
どうして先生の事しか考えられなくなってしまうのか、どうして他の女性と一緒にいるところを想像しただけで胸がきしむ様に痛むのか。考えなくても、分かる。
体中から溢れてしまうその想いが彼にバレた時、きっと今のように接してくれなくなるに違いない。
何も考えたくない時、私はよく図書館に行っていた。
昔から、このしんと静まり返ったこの空間が好きだった。静けさを求められる図書館という場所は、どんなにおしゃべりな人でも無口にさせる。それに……ここに来たら、誰かと話す必要がない。だから、好きだった。
そして、ここにはよく、志麻先生がいた。
先生の後ろを追いかけてわざと図書館で出くわすように図ったわけではない。私は偶然に偶然を重ねて、タイミングよく先生に出会うのが好きだった。一目視界に入るたびに、きゅっと胃のあたりが痛む。
私は、馬鹿な子どもじゃない。彼に恋しているということは、ちゃんとわかっていた。
その優しい笑顔に、柔らかな口調に……私の名を呼んだ、とろけるような声音に。
それらにいくら手を伸ばしても、私が彼に届かないことは分かっていた。だからこそ遠巻きで……日陰に咲く花のように、ひっそりと。
それだけで満足できるなんて、なんて幼稚な恋だったのだろうと今なら思う。
「あれ? また会いましたね、若村さん」
志麻先生は、とてもとても小さな声で私に声をかける。よく耳をすませ、彼に意識を集中させないと聞こえないくらいの声だ。たったそれだけなのに、今その声が私だけのものだと思うと、優越感がじりじりと胸が焦がす。
「こんにちは、先生」
私の声も、小さくなる。私は声の大きさなんかよりも、自分の声が緊張して震えていないかだけが気になっていた。
「よく会いますね」
「そうですね」
「何か借りに来たんですか? 若村さんは」
「そのつもりなんですけど、あまりピンと来なくて……先生、なにかおすすめありますか?」
私がそう志麻先生に問いかけると、先生は顎に手を添えて少しだけ考え始めていた。そして、私に向かって手招きをする。さっさと歩いていく志麻先生について行くと……さらに階層を重ねた、図書館の隅。そこには古ぼけて黄ばんだ文庫本が並んでいた。
夏目漱石、森鴎外、坪内逍遥……志麻先生の専攻分野である近代文学の作家の本だった。古ぼけた本はきっと、私や志麻先生が生まれるよりもずっと前に発行されたものだろう。
「古いでしょう?」
「え、ええ、そうですね」
「ここにある本は全部こんな感じだから、皆さん敬遠してここには全く来ないんです」
「これが、先生のおすすめですか?」
私がそう聞くと、志麻先生は首を横に振った。
「本ではなく……ここが、僕のお気に入りの場所です。ここは、僕が学生だったころと変わらないんです」
「へぇ……」
先生は、この大学の卒業生なんですか? と聞こうと少しだけ口を開く。しかし、私はそっとそれをつぐんだ。その志麻先生の横顔が、一瞬だけ悲しそうに見えたからだ。
「先生は……今日、お店にいらっしゃいますか?」
「え?」
その表情を見たくなかった私は、まったく違う話題に切り替えた。あまりに唐突過ぎたせいで、志麻先生はあっけに取られたような表情をしていた。
「あ……そうですね、今日は会議が長くなるかもしれないですから」
「そう、ですか」
「今日は若村さんシフトの日?」
「はい」
「そっか。残念だったな」
その言葉が、ただのお世辞であるということも私にはわかっている。でも、彼が少しでも本当に「残念」だと思ってくれるのであれば、これ以上幸せなことはなかった。
私はうつむいて、小さく笑みを作った。志麻先生に気づかれないように。
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