秋 ~クラゲとキスマーク~ ⑦
「……でも、良かった。徳永君に会えて」
「……俺も。夜中にコンビニ行ってみるもんだな。珍しく小腹が空いたんだ」
「徳永君でも、そういうことあるんだ」
「俺でもって何だよ、あるよ、それくらい。若村は?」
「……たまに」
「ほら、誰にだってあるんだよ」
どんな人でも寝静まった真夜中に、紀一郎さんと二人でコンビニに行くことはある。少しだけ距離を置いて、二人で歩くのは私たちは好きだった。
きっと、今の徳永君みたいに並んでこの町を歩くことはできない。
二人で歩いているとあっという間にバーについた。私の手が震えているので、代わりに徳永君がドアを開けてくれた。鈴の音が響く。
その音にいち早く反応したのは叔父さんだった。
「おい、トーコ、どうしたんだよ」
叔父さんも、帰ってくるのが遅い私の事を案じていた様子だった。
横目でちらりと紀一郎さんを見ると、紀一郎さんも私を……そして私の後ろに立つ徳永君を見ていた。
本当の事を話しても、二人を不用意に心配させるだけだ。言葉を探していると、徳永君が私をフォローする様に口を開いた。
「道に迷ってたんです、若村」
「道にぃ?」
叔父さんはその言い訳を疑っていたが、私の様子から察したのか、すぐに口をつぐんだ。
「まあ、無事に帰ってきたならいいけど……。君、トーコの友達?」
「ええ、若村とは同じゼミで……。じゃあ、俺、これで失礼します」
「待ってよ。時間ある? うちの従業員が……俺の姪でもあるんだけど、世話になったから、少しくらいお礼させてよ」
座って、と叔父さんは紀一郎さんの隣の隣、空いた席を指す。私も、困惑しながら私を見る徳永君に頷いて、座るよう促した。
カウンターの内側に立って、徳永君に話しかける。
「甘いもの、平気?」
「ああ、まあ」
「わかった」
私は買ったものと共に、奥のキッチンに向かった。
冷蔵庫から、デザートを取り出し、お皿に盛りつけていく。慣れた作業はすぐに終わり、私は徳永君の前に置いた。
「……なにこれ」
「ガトーショコラ。店で作ってるんじゃなくて、近くのケーキ屋さんから買い付けてるものだけど」
「いや、旨そうだし高そう。なんか、わらしべ長者みたい」
「わらしべ長者?」
「安いおつまみ買いに行っただけなのに……若村に声かけただけで、こんなのに化けた。頂きます」
徳永君は、お皿の前で丁寧に手を合わせた。
「ごめんね、今日はありがとう」
店をでて、帰ろうとする徳永君を見送る。
「いいよ、これくらい」
「ううん。……叔父さんにも黙っててくれたし」
「でも、ちゃんと話しといた方がいいよ、こういうのは。何かあってからじゃ遅いし」
「うん、考えておく」
「帰りは大丈夫?」
「大丈夫」
「まあ、叔父さんいるなら問題ないか。……あのさ、なんか、志麻先生もいたんだけど……あれ、俺の気のせいじゃないよね?」
少し身が強張る。それを彼に悟られないように、私は笑顔を作った。
大丈夫、だと思う。
今日は、紀一郎さんはお友達と来ている、どこにも、私と紀一郎さんの関係がばれるような不審なところはない。
「うん、昔からよく来てたんだって。学生だった頃から、もう店も変わってるけど……懐かしいからって」
「そうなんだ」
「うん、そう」
「じゃあ、学校で」
「うん、またね」
軽く手を振って、徳永君の背中を見送る。
しかし、数歩歩いた徳永君は、急に振り返り、言うのだ。
「ねえ、若村」
「なに?」
「俺、かっこよかった?」
「え?」
「……何でもない、また学校で」
「うん、またね」
薄い雲に隠れる月を見ながら、私は徳永君の言葉を考えていた。…いや、あの言葉に深い意味も、言葉の裏も、何もないのかもしれない。
それでも、私はあの時聞いておくべきだったのかもしれない、ねえ、どうしてそんな事を言うの? と。
何故か、物語が終わってしまうような怖さを感じながら踵を返すと、紀一郎さんの『お友達』がちょうど店から出ようとしていた。
「ありがとうございます、お気をつけて」
「こちらこそ、ねえ、さっきの彼氏?」
「いいえ。ただ、同じゼミなだけで……」
「そう。……あなたには、そう見えるだけで彼はそう思ってないかも」
今度こそ、『それは、どういう意味ですか?』ときちんと言えるチャンスが巡ってきた。しかし、私が口を開くよりも先に、その人は悪戯っぽく笑うのだ。
「ねえあなた、彼氏っているの?」
「ええ、まあ……」
「そうよね、お年頃だもん。あなたみたいな可愛い女の子と付き合えるなんて、うらやましいわ。……またね」
「……また、お越しください」
高いヒールのコツコツという音が夜道に響いていった。
いいな、と羨ましく思う。胸を張って、何かの影に隠れることなくどんな道でも歩くことが出来る彼女が……徳永君が。
今度こそ店に戻ると、紀一郎さんも帰る準備を始めていた。
「トーコも、もういいよ」
「でも、まだ上がる時間じゃないし」
「もうお客さんいないから、遅くなる前に帰れよ」
「わかった」
店の裏に回って、制服から私服に着替える。裏側から店を出て表に向かうと、紀一郎さんがお店の前に立っていた。さっきの私の様に、月を見ながら。
「帰りますか?」
「はい」
私が数歩先を歩くと、紀一郎さんはその後に続くようにゆっくりと歩み始めた。さっきのせわしない足音とは違う。心の底から安心できる音だった。
「さっきの彼」
「徳永君ですか?」
真後ろから聞こえる紀一郎さんの声はいつもより小さく、よく耳をそばだてないと聞き取ることができない。
「桐子さん、道に迷ったなんて嘘でしょう?」
「……本当ですよ」
「だったら、僕に連絡をくれたってよかった。すぐ迎えに行くのに」
「できないですよ。紀一郎さんだって、せっかく友達と一緒なんですから」
「そんなもの、どうだっていい。僕には君がいたらいい」
「……そんなこというなんて、紀一郎さんはいじわるなんですね。折角会いに来てくれたのに」
息継ぎなく一気に言葉を言い切ると、紀一郎さんの足音が止まった。それに合わせるように、私も歩くのをやめる。紀一郎さんの息遣いを背中で感じていると、紀一郎さんがその呼吸すら飲みこむ音が聞こえた。
「桐子さん」
「なんですか?」
時々、紀一郎さんは甘えた子どもみたいになる。
「桐子さん、本当の事、話して」
「だから、本当に道に迷って」
紀一郎さんは、私の腕を強引に引いて路地に連れ込んだ。その勢いのまま、私は壁に体を押し付けられた。
「……紀一郎さん?」
灯りのない路地裏では、紀一郎さんの顔ははっきりと見えない。輪郭ばかりぼやけている。それでも、紀一郎さんの言葉はしっかりと私の耳に届いた。
「君は僕のものなのに、君は、僕を君のものにはしてくれない」
そして、その言葉を発したばかりの唇で私の唇を押さえつけた。まるで、私の中の全てを吸い込むみたいな、そんなキスだった。
雲の切れ間から、月の灯りが差し込む。紀一郎さんの耳が照らされて、それに触れたいのに私の体は紀一郎さんが強く抑えているの……身動きもできない。
いつも、一方的に私を愛そうとする。私が好きだと伝える間もなく。
私は、まだ覚えている。
この人を好きになった時の事を。
初めて、紀一郎さんにキスをされた日の事を。
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