秋 ~クラゲとキスマーク~ ⑥


◇◇◇


 あれ以来、紀一郎さんに会うのは少しだけ気まずい。



 大きな波に連れ去られるように、深い海に溺れるように紀一郎さんにのめり込んでいる自分がいることに気づく。エリサだったら、もっと普通の女の子だったあんな強引な抱き方は殴ってでも止めただろう。

 

 でも、私は彼を拒むことはできなかった。体はすぐに紀一郎さんを求める。ベッド以外で彼に抱かれるのは初めて。それ以上に、何も付けない紀一郎さんを受け入れたのも初めてだった。


 その熱を思い出すたびに、頭が沸騰したように熱くなる。もう外は秋の涼しさが混じっているのに、一人だけ常夏にいるような気分だ。


 少しでも振り払うために、私はいつも以上に学業に勤しんでいた・



「若村、さっきぶり」


「あ、徳永君。こんな所で会うなんて奇遇だね」



 プレゼミが終わった後、先生方の研究室がある研究棟のエレベーターホールで、ばったり徳永君に出会った。私は降りるところ、彼はこれから乗ろうとしているところだった。

 金色の髪はここでも良く目立つ。



「何しに来たの?」


「西脇先生の講義のレポート出しに。徳永君は?」


「俺も」


「そっか」


「……ああ。そういえば、消えた? アレ」



 その言葉に、私は自身の首筋を押さえた。掌の温度よりも首の方が熱い。


 紀一郎さんが、また私の気づかないうちにキスマークをつけた。それにいち早く気付いたのは、私ではなくエリサでもなく、この徳永君だった。彼は誰にも気づかれないように、静かに耳打ちをして、隠すために絆創膏までくれた。



「おかげさまで。その節はどうも、お世話になりました」


「よかった。……面白い彼氏だよね、若村の彼氏」


「面白いのかな?」


「それに、若村、その彼氏のこと相当好きなんだな。そんなコトされても怒らないなんて」



 その言葉に、耳を赤くする。ポッと熱を宿したことに、徳永君も気づいたのかまた少し笑った。


 羞恥心を捨てきることもできずに、早々と立ち去ろうと『じゃあ、またね』と言おうとした時、徳永君は私の背後を見た。私も釣られるように振り返る。



「……あの、すみません」


「はい、何か?」



 その人影にいち早く気づいた徳永君は、はきはきと返事を返していた。



「え? ……あ」



 少し出遅れた私は、真後ろに立つスーツに身を包んだ女性をまじまじと見るほかなかった。ちょうど、紀一郎さんと年齢が同じくらいの……だけど、年齢を感じさせない雰囲気を身にまとっている。



「志麻……えっと、志麻先生の研究室って、どこかわかりますか?」


「え? えっと」


「6階です、615号室」



 フロアマップを確認する徳永君よりも先に、私の口が動いていた。紀一郎さんの研究室なら何も見なくても言える。



「ありがとう、助かりました」



 その女性は、颯爽とエレベーターに乗り込んでいった。



「……あ」


「え? 何かあった?」


「いや、同じ6階なら、一緒に乗っていけばよかったのに」



 徳永君は、一機しかないエレベーターが昇っていくのをただ見ているだけだった。

 

 彼は、『西脇先生の研究室も6階だろ?』と続ける。


 それよりも私は、あの人が何故紀一郎さんを訪ねてきたのかだけが、気になって仕方がなかった。


 あの人は、お客さんとしてその晩バーにやってきた。その傍らには……紀一郎さんがいる。二人はとても親しげで、対等な関係であることがうかがえる。



 注文を聞くより先に、お通しをお客様の前に出さないといかない。私がそっとカウンターに置こうとすると、その人は面白おかしく口を開く。



「志麻君にはちゃんと首ったけな女の子がいたから。こういう話って、学生さんも聞いてみたいでしょ?」



 指先から力が抜けて、器がゴトンと音を立てて落ちていく。こんな言葉一つで簡単に揺さぶられる自分が憎い。

 紀一郎さんが首ったけだった女の子。きっと若かった彼は、その人と水族館に行ったのだろう。その人の顔を想像しようとするだけで、頭の上でどんよりとした分厚い雲が立ち込める。その動揺が紀一郎さんにバレないように、私は受け流した。


 叔父さんから、お使いを頼まれた時は正直ほっとした。


 あの女の人の声はお酒が回るにつれ甲高くなって、耳が痛くなっていく。そんな人の話に耳を傾ける紀一郎さんを見ているのも、心底嫌だ。だから私は飛び出すようにお店を出ていく。空はさっきの私みたいに、どんよりと曇っていて星は見えない。


 歩いて10分くらいのところにある輸入用品のお店に行って、叔父さんのメモに書いてあったものを買う。いつもの店員さんにきちんと領収書を書いてもらって、店を出た。


 急いで帰ろうと、来た道を早歩きで戻る。少し歩いているうちに、今まで感じたことのない冷たい気配が背中に触れた。


 私が一歩、歩くたびに、二つの足音が響く。

 不思議に思って後ろを振り返ると、街灯の向こう側に誰か……見知らぬ男の人が立っているのが見えた。



 私が一つ歩くたびに、また二人分の足音が聞こえた。私が少し歩みを止めると、その足音も止まる。私が早く歩くと、その足音も早くなった。



 気のせいだと思いたかった。でも、私が走ると、後ろで歩いていたその男の人が距離を詰める様に、私の足音よりも早く近づいてきた気がした。



 慌てて角を曲がる、そこに確かコンビニがあったはずだ。そこまで行くことができたら、誰か他に人がいるところまで来たら、きっとこの人も諦めてくれるに違いない。


 コンビニに着いたら、誰かに連絡しよう。手をぎゅっと握ると、手のひらに少し伸びた爪が食い込む。小さな痛みが恐怖心をほんのわずかに払う。



 紀一郎さん……紀一郎さんに会いたい、でも、紀一郎さんはだめだ、折角昔の知り合いと楽しい時間を過ごしているのに。



「わっ!」


「ごめんなさい……!」



 角を曲がったところで、誰かにぶつかりそうになった。私は小さく頭を下げ、その脇をすり抜けようとする。

 しかし、その「誰か」は少し強引に私の腕を掴んだ。



「おい若村、待って!」



 そして、『彼』は私の腕を掴んだ。見上げると、金色の髪に街灯が透けて見える。

こんな暗闇の中で、星みたいにキラキラ光る髪は私を随分と落ち着かせた。



「と、くなが、くん……?」


「お前、大丈夫? 何かあったか?」


「……うん、大丈夫。ありがとう」



 彼から離れようとすると、徳永君はさらに強く私の腕を引いた。



「大丈夫じゃねえだろ、顔青いし……何かあったんだろ? 言えよ」


「……後ろ」



私の呟きは、上擦っていて聞き取り辛かったに違いない。



「後ろ?」


「誰か、ついてきてる気がして」


「分かった」



 徳永君は私の腕を掴んだまま、私の真後ろを窺い見た。ガサガサと、ビニール袋の擦れる音が聞こえる、徳永君の手元を見るとコンビニの帰り道であることが分かった。



「大丈夫、もういない」


「ごめん、ありがとう……」


「危ないし、家まで送るよ。どこ?」


「あの、今私……バイト中で」


「バイト? ああ、例の高級バーか」


「うん、だから大丈夫……」


「送らせてよ、どっちにしろ一人になるのは危ない。バイト先どこにあるの?」



 徳永君は私に有無を言わせないようだった。私は、『向こう』と指差すと、徳永君は私の腕を掴んだまま歩き出した。


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