秋 ~クラゲとキスマーク~ ⑤
「驚いた、昔と全然変わらない」
「昔あったバーの形のまま、いわゆる居抜きの状態で借りているので。……良く以前からいらっしゃっていたお客様に『懐かしい』と言われます」
「私も、そう言おうとしていた。志麻君、まだ通っていたのね?」
キョロキョロと友紀子は視線を巡らせる、そして、ある一点でピタリと止まった。
「あら、あなた」
「いらっしゃませ。……学校でお会いした方、ですよね」
「そう! あなたここでバイトしてるの? 奇遇ね!」
「あれ、若村さん、こいつと会ったんですか?」
「さっき言ったじゃない、志麻君の研究室を学生さんに聞いたって。それがこの子」
「ああ」
友紀子が、カップルと称していた女性の方がたまたま桐子さんだったようだ。桐子さんはぎこちなく笑みを作る。
「驚いた、志麻先生のご友人だったんですね」
口ぶりも動作も、大して驚いていないように見える。
桐子さんはいつも通り、バーに訪れた客と接する様にコースターを置いた。その纏う雰囲気に、違和感を覚えるのが……バーに来た僕に対しては、わずかでも恋人として接していてくれていたからだろう。
「友達じゃなくて、元カノなの」
「……え?」
「って、私が言ったらどうする?」
桐子さんはぐっと何かを飲みこみ、少しだけ笑って見せた。
「もし本当にそうなら、なんだか意外です」
「意外?」
「何か、私の思う志麻先生は……失礼な言い方になるんですけど、お付き合いされるならあなたみたいな人じゃないと思って」
そう言って、桐子さんは『申し訳ございません』と頭を下げた。
「ううん、大正解。志麻君は私に興味なかったし、私も彼は好みじゃないから」
「ひどい言いようだな」
「でも、そうでしょう? 志麻君にはちゃんと首ったけな女の子がいたから。こういう話って、学生さんも聞いてみたいでしょ?」
友紀子が軽口を叩いた瞬間、ゴトッ、と聞きなれない音が聞こえた。桐子さんの手元を見ると、小さな器に入ったチャームを置いている。いつもなら音を立てないように静かに置くのに。桐子さんは僕にも同じ器を置いた後、首を振った。
「飲み会のネタにはなるとは思いますけど、私は興味ないです」
きっぱりと断るその声に、震えはない。
「そう? 残念」
「思い出話に浸りたいなら、学生である彼女を巻き込む必要無いだろ? 悪いね、若村さん」
「いいえ、ごゆっくりどうぞ」
桐子さんはもう一度首を振り、裏に戻っていった。
「ずいぶん落ち着いた子ね、今時珍しい」
その背中を見ながら、友紀子はポツリと呟いた。いたく感心している様子だ。
「そうだな」
「こう言っちゃ悪いけど、あなたの好きそうなタイプ。明美もあんな感じだった」
僕は大きく息を吐いた。
女と言う生き物は、いくつになっても目ざとい。20年前、僕に『志麻君って明美の事好きなんでしょう?』と最初に言ったのは友紀子だった。
桐子さんと話す時、僕は平静を保つようにしなければならない。あっという間に僕たちの関係がばれてしまいそうだ。
「見る?」
友紀子はカバンの中からスマートフォンを取り出した。
「写真送ってもらったの。明美のとこの上の子、中学校入学したって」
「早いな」
「年も取る訳よね、私たち。この年になって結婚もしないし子どもをいないなんて、周りからどんどん取り残されていくわよ」
画面には、制服を着た女の子と明美と、初めて見る明美の夫が表示されていた。
明美が、僕の他に好きな人が出来たという話を初めてしたのも、友紀子だった。おそらく、親友に相談したかったのだろう。
好きな人が出来たこと、できるなら僕ではなくその人と結婚したいこと。どうしたら嫉妬深い僕と穏便に別れる事が出来るかということ。
「志麻君、今、誰かいい人はいるの?」
「……いるよ」
「良かった。明美はそれだけが気になっていたみたいで、会うたびにその話するの」
「昔の恋人じゃなくて、子どもの心配だけをしていたらいいものを」
「そうよね。そうよねぇ……でも、今でもあなたの事を思い出すって」
そのわずかに甘さが残る言葉が、少しだけ僕の心臓を揺らした。
「おい、トーコ」
和三さんが、桐子さんを呼んだ。視界の端っこで小さく二、三、会話をして桐子さんは和三さんから財布を受け取る。
エプロンを外す彼女に、僕は声をかけた。
「若村さん、おつかいですか?」
「ええ、こんな時にすみません」
桐子さんは小さく笑みを浮かべ、小走りで店を出ていった。扉に取り付けられた鐘の音を聞きながら、友紀子がポツリと呟く。
「あの子、名前、『トーコ』っていうのね」
「桐壷の桐に、子どもの子で、桐子」
「ふーん、今時珍しいね。『子』のつく名前の女の子」
和三さんは、それぞれのコースターの上にグラスを置いた。少しだけグラスをあげて乾杯をして、話の続きを友紀子は始める。
思い出話というよりも、友紀子はほぼ明美の話だけしていた。お酒の酔いが回って口が滑らかになったのか、こっちがとっくに忘れているような思い出話も次々と
随分と長く話し込んだ、と感じだ。
ふと気づくと、桐子さんの姿はまだなかった。
帰ってくるのがずいぶん遅いなと感じていると、和三さんも心配そうに扉を見る。すると、タイミングよく鐘を鳴らしながら扉が開く。
扉の向こうには、少し俯いた桐子さんと徳永君がいた。
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