去年の春 ~若村桐子の恋、志麻紀一郎の日常~

去年の春 ~若村桐子の恋、志麻紀一郎の日常~ ①


 その日は雨が降っていた。

 春の初めに降る雨は氷水のように冷たく、はあと大きく息を吐くと、それは少し白く濁る。


 このバーでアルバイトするのを勧めたのは、叔父さんだった。今までお店を手伝ってくれた人が独り立ちしてしまって人手不足になってしまったことと、きっと初めて一人暮らしをする姪の事が心配だったのだろう。自分の目の届く範囲にいて欲しい、心配性の叔父の気持ちもよく分かる。私が叔父のバーで働くことになってからお母さんに連絡すると、電話越しの母もほっと胸を撫でおろししていたことが伝わってきた。


 大学の入学式の前に、初出勤の日がやってきた。

 お客さんが来る前に一通りの説明を受ける。基本的な接客や、レジの使い方。そして、ビーツの次ぎ方。試しにやってみろ、と言う叔父さんの前でビールサーバーから見よう見まねでグラスに注いでいく。



「なんだ、思ったよりうまいじゃん」



 気持ちのこもっていないお褒めの言葉。私が小さく笑うと、叔父さんは私の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でる。まるで幼い子供にそうするみたいに。



「それじゃ、今日は一日よろしく」


「はい」



 私の返事に満足したのか、叔父さんは安心したように笑う。それと同時に、ドアに付けている鈴が軽やかになった。叔父さんが落ち着いた声で「いらっしゃいませ」と言ったのを真似る。


 そこに立っていたのは、カッターシャツにジーンズというどこにでもいる出で立ちの男性。

 これが、まだ何者でもなかった紀一郎さんの最初の姿だった。


「こんばんは」



 いつもそこに座っているのか、慣れたようにカウンターの隅に座る。



「何になさいます?」



 叔父さんが一息ついたそのお客さんに聞く。彼は少し迷ってから、『スコッチのロック、お願いします』と告げた。私は習った通り、お通しの器を音を立てないようにそっと置く。彼の視線が、まじまじと私を見つめていることにはすぐ気づいた。見慣れぬ光景だったのか、物珍しそうに。



「姪です」



 そのお客さんが私の事を見ていたことに気づいた叔父さんは、コースターとグラスを置きながらそう彼に伝える。考えていたことが見透かされて驚いたのか、首をすくめた。



「姪御さん?」


「この春から近所に越してきまして。ちょうどいいから手伝いでもさせようと思って」


「へえ……」


「まだ不慣れなとこばかりですけど……ご容赦ください」


「とんでもない。何だか落ち着いていて、随分前から働いているみたいですよ」



 突然褒められると、恥ずかしくて居たたまれなくなる。照れてしまったことが彼に伝わったのか、彼は満足げに口角をあげる。



 平日のまだ早い時間だったのか、お客さんはそれっきりぱったりと止まってしまった。やることのない私は、グラスを磨き続ける。磨き終わったものでも、繰り返し入念に。そんな事をしていると、バックヤードから電話の鳴る音が聞こえてきた。仕事だと駆け付けようとしたら、叔父さんに奪われてしまった。私は誰にも気づかれないように肩を落とす。



「トーコ」



 電話が終わったばかりの叔父さんが、私の名を呼ぶ。



「はい」


「わるい、ちょっと出るわ」


「え? あの、用事があるなら、私が代わりに行きますけど」


「いいよ、お前まだこの辺慣れてないし……それに、雨降ってるから、危ないだろ」



 叔父さんはそう言って、お客さんに小さく頭を下げて裏から出て行ってしまった。二人きり、取り残された私はちらりと彼を見る。彼も私を見ていたらしく目がバチッと合ってしまって、いたたまれなくなった私はすぐに目を反らした。



 雨はやむ気配は無く、さらに雨脚は強くなっていくばかりだった。お客さんはグラスを舐めるように少しずつ傾けていく、私もただひたすらグラスを磨き続ける。



 その時、近くで雷鳴が響いた。


 しかし、その音よりも近くで鳴り響いたグラスの割れた音がこの場を支配する。雷の音は好きじゃない、お父さんが死んだ日の事を思い出してしまう。手は震えて、するりとグラスが抜け落ちてしまった。

 その音に驚いたのか、彼も目を丸めて私を見ていた。



「あの……も、申し訳ございません」



 体がうまく動かない。でも、どこか冷静な頭で詫びなければいけないと思ったのか口からそんな言葉が滑り出す。


 そんな私に向かって、彼は思ってもみなかった言葉をかける。



「もしかして、雷嫌いですか?」


「……え?」


「いや、僕が勝手にそう思っただけなので……気にしないでください」



 ふにゃりと優し気に浮かべるその笑顔に、私も力が抜けてしまったのかポツリと呟いていた。



「……あまり、好きではありません」



 それを隠すように、カウンターの中でしゃがみ込む、割れたグラスの破片を拾おうとしても、手が震えてうまく拾えない。



「……トーコ、さん?」



 その名を呼ばれ、ハッと顔をあげる。カウンターを覗き込むように、あのお客さんが立っている。私の名を呼んだのは、その人以外いない。



「は、はい」


「ちりとり、ありますか?」



 彼はカウンターに回り込む。私と同じようにしゃがんで、目線を合わせた。まっすぐに私を見つめるのその視線が、すとんと私の心臓に真裏に落ちて行って、鼓動に合わせて体中に広がる。



「ちり、とり?」


「破片、僕拾っておくので」


「でも、お客様にそんなこと」


「手、震えてる。そのままガラスに触れたら、トーコさん怪我しますよ」



 私が何を言っても、彼は頑なに拒み続けるだろう。その言葉に甘えて、私はすぐに箒とちりとりを取りに行く。彼はそのちりとりの上に、グラスの破片を一つずつ乗せていく。証明に照らされた破片は、キラキラときらめいている。



「……トーコ」


「え?」



 もう一度名前を呼ばれた私は、ガラス片から視線をあげて、ただ彼を見つめていた。



「漢字で、どう書くんですか?」


「漢字で?」


「ええ、気になってしまって」


「……木へんに、同じと書いて、子どもの子です」


「桐壷の桐?」


「え、えぇ」


「もしかして、夏の初めの生まれですか?」


「はい……」



 そこまで言い当てられるとは、この人は一体何者なのだろうととても不思議だ。彼が私の名前を知りたがるのと同じように、私も彼の事が知りたくて仕方がない。



「いい名前ですね…桐は、気高さの象徴だ」


「え?」


「美しい女性になるように、ご両親が願いを込めて名付けられたんですね」



 私の名を呼ぶだけじゃなく、その背景にある意図も汲み取ろうとしてくれる。そんな人に、生まれて初めて出会った。心が震えるのは、きっと嬉しくて仕方がないからだ。



「……私の名前を付けたのは父なので、由来は、聞いたことないですけど……そうだと嬉しいです」


「そうですよ、きっと。桐子さん」



 彼は私の名前を一音ずつはっきりと呼ぶ。物語を紡ぐように、優しく、丁寧に。そしてそっとそっと、大きな手のひらを頭の上に置いた。


 その体温を感じるたびに、私は彼に出会ったその夜のことを思い出す。


 じんわりと紀一郎さんの熱が伝えわってくる、夏の暑さは嫌いだけど、紀一郎さんの体温はどれだけ暑くても、好き。


 誰かをこんなに恋しくなる日がくるとは思わなかった。ただ、これが「愛」といわれる感情なのか聞かれたら、私は答えに迷ってしまう。


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