秋 ~クラゲとキスマーク~ ②



◇◇◇


 

 プレゼミが終わった後、私だけ戸崎先生に引き止められた。

 他のゼミ生には先に志麻ゼミとの合同飲み会の会場に行ってしまって、私と先生は向かい合って座っていた。


 

「急にごめんね、楽しい会の前に」


「いえ、大丈夫です」



 そんな前置きをするということは、戸崎先生は楽しくない話をするつもりなのだろう。……多少の事なら、そんなもの苦ではない。



「進路とかって考えてる?」


「え?」


「大学を卒業した後の事」


「ちょっとだけ。公務員試験受けるつもりなんです」



 指で軽く空気を掴むと、戸崎先生は深く頷いた。



「公務員試験を?」


「はい。三年生になったら大学で開かれている公務員講座とって、公務員試験の準備を始める予定です」

 

「そう。それで、地元に帰るのかしら?」


「入学した時はそのつもりだったんですけど……」



 私の頭の奥で、紀一郎さんが笑った。地元に帰るということは、必然的に彼と離れて過ごすことになる。


 彼と未来を生きるヴィジョンに目を向けないくせに、彼と離れることを惜しむ私がいる。結局、まだどっちつかずのままなのだ。



「地元は、お母様おひとり?」


「あと父方の祖父母と、母方の祖母もいます」



 あと、母の彼氏も。ポッと浮いて出てきそうだったその言葉はぐっと飲み込む。



「同居されているの?」


「いえ、母の方の祖母は老人ホームにいます。父方は近所で暮らしています。……でも」



 ただ、現実を直視しようとすると、紀一郎さんの姿は霞んでゆく。



「でも……母の事も心配ですし、いつかは地元に帰るのがベストかなとは思ってます」



 私はそれを振り切るように前を向いた。戸崎先生を見ようとすると、夕日が逆光となって目の奥がじんわりと痛んできた。その痛みは、心の軋みに似ている気がした。



「……最初は、母みたいに、母は看護師なんですけど、看護学部にある大学に行って手に職つけようと思ったんですけど。それは反対されて」


「あら、どうして?」


「看護師なんて向いてないって言われました。私もそう思います……それで、大学ぐらい好きな勉強してこいって言われて、ここに来ました」



 そして、この町で紀一郎さんに出会って、恋に落ちたのだ。あの日の事はありありと思い出せる。


 

「……高校卒業してから大学に入学するまで一年時間が空いたのは、看護学科受験から、受験科目が変更になったせい?」


「いいえ、初期費用貯めてました。入学金や引っ越しの費用とか」

 

「もし……経済的に苦労することがあるならすぐに相談してね。力になれると思うから」


「それは大丈夫ですよ、母も働いてますし。……それに結構父の事故の相手の賠償金で賄っている部分もあるので」


 

 戸崎先生が言葉を飲みこむ音が聞こえてきた。この11年で、随分と聞きなれた音だった。


 私はまだ、紀一郎さんのこの音は聞いていない。



「なんか、辛い話をさせてしまったわね。ごめんなさい、もう行きましょうか」



 老齢の戸崎先生はゆっくりと立ち上がるのを見て、私は細く長く息を吐いた。父の話をするとき、どうしても体中が強張ってしまう。



「今から行ったら、、ぎりぎり始まる前に間に合いそうですね」



 合同での飲み会は和気あいあいとした和やかな雰囲気のまま進んだ。


 見知った学科の同級生同士、なんやかんやと話に花が咲いていた。志麻ゼミのみんなは、やはり徳永君の金色の髪が気になっているらしい。私たちがゼミが始まる前にした質問を、そっくりそのまま彼にしていて、彼も私たちにした答えを返している。


 一度聞いた話なのに、お酒の酔いもあってか私もクスクスと笑っていた。


 

「そんなに面白い話かな? とどのつまりは、先輩のカットモデルになっただけの話なのに」



 徳永君のキラキラ光る金色の髪は、さっきから良いが回った三竹くんのいいおもちゃになっている。



「うん、寝て起きたら金髪って、やっぱりすごいびっくりするよ。良く気付かなかったね」


「ブリーチの途中で気づかない?」



 エリサの口ぶりは、どこか呆れかえっている様子だ。


「髪染めたことなかったから」


 

 徳永君は、憤慨していて、頬を膨らませる代わりなのか鼻がぷくっと広がった。それも面白くて、彼に気付かれないように、顔を逸らして笑おうとした。


 その時、慣れた視線を感じた。


 視線を感じた方を向くと、するっと私から視線を逸らした紀一郎さんは戸崎先生との歓談に戻る。


 その冷たさは今まで感じたことのないものだった。土砂降りの雨に当たったみたいだと錯覚するくらい。


 佇まいを少し直して、横目でちらりと紀一郎さんの方を窺い見る。紀一郎さんも同じように私を見るが、それは秘密を抱えた者同士の甘いやりとり何かではなくて……ぼんやりと薄暗いトンネルで互いを探り合う行為に似ている。



 時折、横目で伺い見る紀一郎さんの表情は、私の目からは浮かないものに見えた。周りの誰もが気付いていない、私だけが気付く小さな変化だ。


 それでも、この場で、その肩に手を添えていつもの様に『大丈夫ですか?』と気軽に声をかけることもできない。私たち以外の他の誰かがいる、ということはこういうことだ。



 誰かの目がある前で、私は表立って紀一郎さんへの気持ちを見せる前にいかない。ひとたびそれが露見したとき、その瞬間、私たちの関係は終わるのだ。



「二次会行く人―?」



 エリサの元気な掛け声が響き渡る。

 一次会の会計を終えてたゼミ生たちは、門限だったり終電の時間だったりがある人以外は次々と手をあげた。


 戸崎先生と紀一郎さんはと言うと、二人とも首を横に振って持っていた財布を開いていた。



「カンパです」


「私たちの分も楽しんできてね」


「わぁ! ありがとうございます!」



 紀一郎さんを見ると、彼は私を見て眉を下げて笑った。喉から声が出そうになった瞬間、エリサは私に声をかける。



「トーコも行くでしょ?」


「え、あ、うん……」


「じゃあ行くよー」




 エリサは私の腕を引っ張りながら月が見える方向へ進んでいく。私はこの視界の端にも、紀一郎さんを捉えることが出来なかった。


 二次会はカラオケボックスで、狭い部屋に押し込められたゼミ生は好き勝手に歌いたい曲を入れていく。いつしかめいいっぱい上げられた音量に酔ってしまった私は割り当てられた部屋から出て、壁に張り付くように姿勢を整える。


 四方八方から聞こえる賑やかな声を耳に入れながら、大きく深呼吸をすると、蒸された空気に満たされた肺は、一気に冷やされた。


 ぼんやりとたたずんでいると、部屋から徳永君が顔をのぞかせる。



「若村、酔ったのか?」



 私がいないことに気づいたのは彼だけだったのか、そう優しく声をかけてくれる。



「徳永君……うん、少しだけ。久しぶりの飲み会だから調子に乗った」


「大丈夫?」



 徳永君は、一人分のスペースを開けて私の隣に立つ。その目は、本当に心配しているようだった。目線を少し上げると、蛍光灯の光が透ける金色の髪が目に入る。



「私、金髪の人と話すの初めて」


「若村、随分これ気になってるよな」


「私の周りにそんな髪の毛の人いなかったから、なんか、ツチノコか何か見つけた気分」


「UMA扱い? ひどいな」


「……でも、徳永君って黒髪でいるよりも似合うかもね。色白いから、馴染んでるんじゃないかな、アッシュグレーとかも似合いそう」


「それ、何色?」



 色を説明するのは中々難しかった。私はスマートフォンを取り出して、検索バーに『アッシュグレー』と打ち込もうとした。しかし、『あ』と入力するよりも先に、徳永君は言った。



「若村、クラゲ好きなの」


「え?」

 

「ストラップ、クラゲでしょ? それ」


「うん、まあ」

 

「何か、俺にとっては若村の方が正体不明」


「そうかな?」


「ケータイにストラップつけるイメージじゃなかったし、あ、悪い意味じゃなくて」



 首を振ると、チクチクとネックレスのチェーンが皮膚を擦る。



「大丈夫、良く言われる」

 

「広瀬も、『聞かれないと話さないことがある』って言ってたし」


「そういうつもりもないんだけどね」


「ねえ、若村の彼氏って、どんな人?」


「え? 何?」



 あまりに思いかけない言葉だったせいか、思わず聞きなおしてしまった。



「もしかして、エリサが言ってたの?」


「ふとした拍子で聞きました、はい」


「他にもろくな事言ってないでしょ、それ。エリサはいっつもそうなんだから」


「あー……まあ、そうかも」



 徳永君の目線が揺れながら、私から逸れていく。先ほどの戸崎先生の目の動きと少し似ているような気がした。


 そこで、ようやっとピンときた。エリサが口を滑らせた『余計な事』は一つだけじゃないかもしれない。


 今まで紀一郎さんに話していなかったことが……思いがけない所から、何気ないどこにでもありそうな瞬間から、紀一郎さんに漏れてしまったのだ。



「……私、もう帰ろうかな?」


「……いや、何か悪い」


「徳永君のせいじゃないよ。お酒が回りすぎただけ。あ、お金どうしよう」

 

「俺が立て替えておく」


「ありがとう」


「気を付けて帰れよ」


「うん」



 徳永君が誰にも気づかれないようにこっそりとカバンを取りに行ってくれて、私は急ぎ足で自動ドアを潜り抜ける。



 月の光は、私の背筋を冷たくなぞる。


 そのさやかな光と焦燥が、走り出す私の背中を押した。柔らかなアスファルトの感覚と不安が這い上がるように足元から伝わってくる、あの時、みんなを振り切ってでも彼を追って、駆けだしておけば良かった。


 いつか、今日の日を後悔してしまいそうな日が来るような気がした。その雑念を振り払いながら、重たくなり始めた脚を急がせた。


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