秋 ~クラゲとキスマーク~ ③
マンションの呼び鈴をいくら鳴らしても、紀一郎さんはドアを開けなかった。あの軽やかな音は、廊下のあたりでこだましているだけだろう。
私は鍵を取り出して、急ぎ気味で鍵穴に差し込み、ドアを開ける。がらんとした廊下を進みリビングに入ると、真っ暗な部屋の中、ちかちかとソファの前に置かれたテレビが何かを流していた。
「……紀一郎さん?」
リビングに入ると、テレビの賑やかな音が聞こえてくる。紀一郎さんはソファに寝そべっている。彼に声をかけるが、彼は何も言わずじっと押し黙っている。紀一郎さんの呼吸の音すら、テレビがかき消してしまっていた。
私はソファの前に回り込むと、紀一郎さんが見上げるように私を見る。その紀一郎さんの頭のあたりで、私は膝をついた。そして、もう一度名前を呼ぶ。
「ねえ、紀一郎さん……」
「……桐子さん」
今度は、返事があった。安心して胸を撫で下ろしていると、その隙をつかれた。
紀一郎さんはむくっと起き上がり、いつもより強い力で私を突き飛ばした。私はそのまま重力に引っ張られるように、床に倒れ込む。ドン、と聞こえる鈍い音も、じんわりと痛む背中も後頭部も、なんだか他人事のような気がした。
私の目には、目に前にいる紀一郎さんしか映らない。
紀一郎さんは私の腰のあたりにまたがり、じっと見下げていた。
「桐子さん」
「はい……」
「桐子さんは、僕の事好き?」
テレビが放つ青白い光が紀一郎さんを照らす、笑顔を作っているのにまるで泣いているようだった。
「はい」
間を置かないように答えると、紀一郎さんは身をかがめて私の頭の横に肘をつき、そのまま覆いかぶさり、口づけを落とす。
そして、少し離れてから、紀一郎さんはもう一度同じ質問を繰り返した。私も先ほどと同じ返事をすると、再び紀一郎さんは私にキスをする。
けれど、今度のキスは先ほどの触れるだけの物とは少し違う。
紀一郎さんの舌が私の唇をこじ開けて、歯列を丁寧に這うのだ。私が舌先を伸ばして紀一郎さんの舌に絡もうとすると、紀一郎さんはそれを無視して口蓋をくすぐった。
私の舌には触れないように、紀一郎さんは私の口内を駆け巡る。漏れる吐息が上ずり始めた頃、ようやっと紀一郎さんは離れていった。
すーすーと冷たい空気を感じる唇を、紀一郎さんは親指でなぞり、ぼんやりと開いている私の唇にそのまま差し込んだ。
その指が私の舌が触れると、紀一郎さんはもう一度聞いた。
「桐子さんは、僕の事、好き?」
応えるよりも先に、紀一郎さんは指を私の舌に絡ませ始めた。まるでいつものキスをするように、甘い疼きだけが私の体を麻痺させていく。
「……ごめんなさい」
されるがままになっていた時、紀一郎さんの小さなつぶやきと共に口内は空になった。
「どうして、紀一郎さんが謝るんですか?」
「……僕は、僕が嫌になる。君に信頼されていないと、すぐに不安になる自分に。……それに、僕は、年甲斐もなく嫉妬したんです。僕の知らない君を知っている広瀬さんと、君を知ろうとする三竹くんと徳永くんに」
「でも、元はと言えば私が」
「それに、君は、僕に話したくなかったんでしょう? 君のお父さんの事」
私は答えることができずにいた。滲んでいく目のふちを親指で拭い、紀一郎さんを見上げる。
「違うんです……確かに、紀一郎さんには知られたくなかったんです。けど、それは、紀一郎さんにかわいそうだと思われたくなかったんです」
父の事を話すと、誰もが私の事をまるで可愛そうな子どもを見る様な目をするのだ。
その目を見る度に、私は『当たり前の幸せな日常』から遠ざけられている気がしたのだ。私だって、どこにでもいる普通の人間なのに。
「だから、紀一郎さんとは対等でいたかったんです。どこにでもいる女の子だと思われたかったんです、あなただけには。あなただからこそ」
「……。桐子さん。ごめんなさい」
鎖骨のあたりに紀一郎さんの額が触れた。そして、紀一郎さんは勢いよく起き上がる。
「紀一郎さん?」
「ねぇ、桐子さん」
「……はい」
「桐子さん、好きです。……だから、ちょっと離れてもらっても良いですか?
「どうして?」
「好きだから。君が好きだからこそ、僕は君を大事にできないかもしれない。少し時間をください」
大事になんてしてくれなくたって構わない。あなたの欲望のままに乱暴にしてくれたっていい。しかし、それを言ったところで紀一郎さんの態度は変わることはなさそうだった。
「わかりました。……あの、シャワーを借りててもいいですか?」
「まさか、泊っていくつもりですか?」
紀一郎さんは目を大きく丸める。
「だめですか?」
まっすぐ彼を見据えると、紀一郎さんは細く長くため息を吐いた。
「……どうぞ、服は適当に取り出してくれて構わないので」
紀一郎さんは起き上がって、ソファに深く座り込む。私はそれを尻目に浴室に向かう。紀一郎さんの熱に触れたはずの唇は、ひんやりと冷たいままだった。
随分昔の事なのに、時折思い出してしまうことがある。
中学生の時、同じクラスに気になる男の子がいた。面白くて明るくて、そしてとても優しい男の子だった。この男の子の特別になりたいと思っていた、あれはおそらく、初恋だったのだろう。
ある日の夕方、ペンケースを忘れて慌てて教室に戻った時のことだ。あの男の子と、違うクラスの男子が話していた。私はドアの所で立ち止まり、その話に聞き耳を立てた。
今思えば、あのとき二人を遮ってペンケースを取りにいけばよかった。
「若村にやさしいよな、お前」
「そう?」
突然出てきた自分の名前に、胸が弾んだ。まだ、『虫の知らせ』という言葉を理解していなかった私は、これをただのドキドキだと勘違いしていた。
「うちのお母さんがさ、若村には優しくしろって言うんだよ」
「なんで?」
「あれじゃね? 若村のお父さん死んでるから、かわいそうじゃん」
その言葉を聞いて、すぐさま私は踵を返した。
家に付いて、短くなった鉛筆で宿題をやりながら、私の頭の中ではあの言葉を何度も何度もリフレインしていた。
――かわいそう、かわいそう、かわいそう。
父親を不慮の事故で亡くした私はこれから先一生、その言葉から逃れられないような気がした。『かわいそう』というフレーズは、私に貼りつけられているレッテルなのだ。それは、ペットボトルのラベルの様に簡単に取ることはできない。
体に付いた水滴をバスタオルで軽く拭ってから、バスマットに足を付ける。シャワーを浴びただけなのに、体中が暑く感じていた。
私はバスタオルを頭に乗せて、乱暴に髪の毛を拭いた。水分を吸ったバスタオルは重みを増す、私はそのまま洗面所の鏡に向かいあうように立つ。頬は赤くなっている。
紀一郎さんと向かい合うときくらい、私はその『かわいそう』という言葉から離れたかった。どこにでもいる普通の女の子が、普通の男の人に恋をして、恋をされたかった。その身勝手な想いに振り回される紀一郎さんの事も、少しも考えもせず。
大きく息をつくのと同時に、脱衣所のドアが開いた。鏡に紀一郎さんが映る、私は慌ててタオルで体の前を隠す。
名を呼ぼうと口を開くよりも先に、紀一郎さんは私を後ろから抱きすくめた。少しだけお酒の匂いがした。
鏡越しで彼を目が合う。紀一郎さんの目は、夜空よりも暗い。
「桐子さん」
「はい」
「ねぇ……タオル取って、見せて下さい」
その冷たい言葉に私は首を横に振ると、紀一郎さんは私の顎を強く掴んだ。私の困惑した表情が鏡に映る、紀一郎さんは鏡に映る私を見ながら頬ずりをした。
「紀一郎さん?」
呼びかけに返事が出来ない、声を出そうとすると喉が予期せぬ動きばかりをする。目をギュッと瞑った後、私はもう一度紀一郎さんの目を見た。紀一郎さんも、同じように私を見る。
私の体をがんじがらめにしていた腕が、ゆっくり離れていく。紀一郎さんはまだ少し濡れている肩に額を付ける。
「桐子さん、今日はもう帰って」
「え……?」
「頼む、お願いだから」
「どうして、そういうこと言うんですか? 私がちゃんとお話ししなかったから、嫌いになったんですか……?」
「違う! 今日は、君を大事にすることが出来ないかもしれない。君を大事にできない僕なんて……君に嫌われてしまうかもしれない。僕は、君に嫌われたくないんだ」
私はくるりと体を反転させて、紀一郎さんに向き直る。紀一郎さんの服には、ポツポツと水に触れた跡がある。手を伸ばして両頬に触れると、紀一郎さんは半歩後ろに下がる。落ちていったバスタオルが足の甲に乗った。私は背伸びをして、そのまま紀一郎さんの唇に、自分の唇を合わせた。
火照った体が冷めていくのを気にせず、私は彼に口づけを繰り返す。
紀一郎さんは、鏡越しで私の背中を見ているだろう。私の背中は、何を語っているのだろう?
「大事になんて、してもらわなくてもいいです」
「桐子さん?」
「紀一郎さんの、好きにしてください」
「傷つけるかもしれない」
「それでもいいです」
紀一郎さんの手を取り、自分の胸に導いた。紀一郎さんの手はいつも柔らかいのに……今日だけは石みたいに固い。紀一郎さんは大きく息を吐き、体中の力を抜いていく。するっと手を引き抜いていく。そして私の肩に手を置いて、もう一度、私は鏡と向かい合わせるように体を回した。
「紀一郎さん……?」
今度は、紀一郎さんが私の手を取った。私の爪に彼は舌を這わせ……そのまま口内に滑りこませる、紀一郎さんのぬるい舌がゆっくり私の指の腹を撫で、軽く歯を立てる。
鏡の中の私は、頬を赤らめていた。その顔を見ているのは何だか恥ずかしい、私は鏡から目を反らす。しかし、紀一郎さんはもう片方の手で私の顎を掴んだ。
強い力で押さえつけられた私は、鏡から目を反らすことができなくなる。
「紀一郎、さん……?」
「そのまま、前を見てて。……僕に愛される自分の顔、今日はそれを見ていなさい」
「やっ……」
「それでもいいんでしょう? 僕に何されてもいいなら……僕に翻弄される桐子さんの表情。今日はそれを、君にあげる」
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