秋 ~クラゲとキスマーク~
秋 ~クラゲとキスマーク~ ①
◆◆◆
後期の授業が始まった。桐子さんは前期に比べると履修する科目が多いみたいで、二人で過ごす時間は少しだけ減っていた。
プレゼミは見知った学生が多く、和気あいあいと進んでいた。そんなある日、講義が終わった後一人の女学生が元気よく手をあげた。
「他のゼミと合同飲み会ですか?」
「そうです! それだとすごいお得になるんです!」
そう言って、広瀬さん(桐子さんの友人でもある)はスマートフォンの画面を僕に見せる。大学近くにある居酒屋のクーポンはそこに映し出されていた。
「10人以上15人未満で、コース7品飲みホ2,500円から更に2,300円に値引きってやばくないですか?」
「……相変わらず、学生の皆さんはこういうの見つけるの上手ですねぇ」
「節約上手なんです! うちのゼミは、7人で、3・4年との縦コンになると超えちゃうし、それなら他のゼミと合同で……どうです?」
「みんなは? それでもいいですか?」
残りのプレゼミ生に声をかけると、『良いでーす』と快活な返事が返ってきた。
無理もない、長い夏休みが明けて、後期の授業が始まってしまい暇を持て余した学生はイベントに飢えている。
9月。晩夏と言われる時季なのに、まだ窓の向こう側から蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「人数的に……どこのゼミが良いかな」
カバンの中から、いつぞや配布されたゼミ名簿を確認する。自分のゼミよりも少ない人数、となると限られている。
「それなら、戸崎先生のとこは?」
広瀬さんは、ポンッと軽く手を叩いた。
「誰かいるっけ?」
「トーコが戸崎ゼミ」
「トーコちゃん?! トーコちゃんと飲み会出来るの?!」
広瀬さんがそう答えると、三竹くんが素っ頓狂な声を出した。それを見て他のゼミ生がクスクスと笑う。ここしばらく彼の様子を見ていると、彼が桐子さんに好意を寄せているのがありありと伝わってきた。三竹くんの決して届かぬ桐子さんへの思いを笑うつもりではなかったが、僕も他のゼミ生につられるように小さく笑ってしまった。
「私がトーコに聞いてみるよ。先生も、戸崎先生のとこでいいですか? 仲悪いってことないですよね?」
「ええ、大丈夫でーす」
「じゃあ、そういう事で! 追って連絡します!」
ゼミ生たちは各々教室から出ていく。それを見送った僕は、名簿にある桐子さんの名前を人差し指で撫でた。ただの活字が並んでいるだけなのに、ほんのりと熱を持っているようだった。
広瀬さんからの連絡はすぐに来た。日程の擦り合わせも猛スピードで、あっという間に志麻・戸崎ゼミの合同飲み会の当日になった。こう言う時ばかり、迅速に行動するのが学生らしい。
居酒屋の個室の隅に座りながら、志麻ゼミのゼミ生たちは戸崎ゼミのメンバーが来るのを待っていた。
「あ、来た」
「……うす」
個室の引き戸が開き、続々と学生が入ってくる。何よりも目を引いたのが、ある男子学生……徳永君の髪の色だった。夏休みに会った時の彼はつやつやの黒髪だったのに、今では光に透けるくらいの金色の髪をしている。
「え? 徳永だよね?! 頭どうしたの?」
他の学生たちも驚いているが、三竹くんだけは笑いを押し殺している。
「うけるよなー、コレ! 先輩の友達にやられたんだって」
「……気づいたらこうなってた」
「なにそれ~」
「徳永君も戸崎ゼミだったんですね」
そもそも僕は、彼がこの学科に所属していた事すら知らなかった。
僕の隣に座る彼に声をかけると、彼は目を下げるだけの挨拶をした。
「まあ、そうですね」
「あれ? 徳永、戸崎先生とトーコちゃんは?」
引き戸に目を向けると、既に閉まっていた。個室の中を見渡しても、桐子さんの姿はない。
「トーコちゃん、もしかして欠席?」
「ううん、学校来てたよ。何かあったのかな……?」
「若村は先生と面談だって。少し遅れるから先に始めててもいいってさ」
「えー!」
「面談か。トーコ真面目そうなのに、何かあったのかな?」
「知らねぇ。あの二人って何飲むの? 注文しといてって言われたんだけど」
先生はわかりますか? と言いたさげに彼は真っ直ぐと僕を見た。何事にも興味を持たなそうな口調で話す割には、彼は人と話す時真っ直ぐ目を見る。そこには、好感が持てた。
「戸崎先生なら、結構ビールから始める事多いですよ」
「じゃあ先生はビールで。若村は? そもそも酒得意なの?」
「トーコ? トーコも結構飲めるけど、どうだろ? 今日チャリで来てた?」
「知らない。そんなのいちいち見てない」
「じゃあ、とりあえずウーロン茶にしとこっか」
「へぇ~、トーコちゃんって自転車の時お酒飲まないんだ。さすが、真面目だね」
確かに、桐子さんはそういうルールは必ず守るところがある。
耳をそばだてて、彼らの話を聞いていた。僕以外がする桐子さんの話を聞くことは、とても新鮮だった。しかし、広瀬さんの次の言葉で、僕の体はまるで凍りついたように動かなくなった。
「トーコって、お父さんが飲酒運転の事故にあって亡くなってるんだって。だから、結構過敏だよ、そういうとこ」
「……え?」
その短い言葉だけを、やっとの思いで喉から絞り出すことが出来た。
「え? トーコちゃんのお父さん……そうだったの?!」
僕の声は、誰の耳にも届いていないようだった。三竹くんが大きな声を出すと、歓談していた他の学生たちが驚いたように三竹くんを見た。広瀬さんに強く叩かれた三竹くんは声を潜める。
「うわ……それなら絶対に飲まないだろうね。志麻先生、知ってました? 基礎ゼミの時トーコちゃんも志麻ゼミだったけど」
「……何も、僕は知らないです」
「まあ、私が知ったのもトーコがポロッと話したからだし。そういう個人的な事ってあの子、あんまり話したがらないから仕方ないかも。私だって、トーコに彼氏出来たのだって偶然知ったんだし」
「え? と、トーコちゃん彼氏いたの……?」
「残念だったな、三竹」
三竹くんはがっくりと肩を落とす。
「しかも、トーコの首についてたキスマークで私気付いたからね。見えそうなとこに付ける彼氏も彼氏だけど、友達に彼氏いるって言わないトーコもなって思った」
「……でも、あんまり他人に話したくない事ってあるからな」
徳永君が何気なく放った『他人』という言葉が、槍の様に鋭く胸に突き刺さってきた。耳はぴったりと蓋をしたように、彼らの歓談も何も聞こえてこない。
彼らに何も気取られぬように、ぱっと目をドリンクメニューに向けた。何か、飲み物を選んでいるように見えるように。
下を向きながら、焦る呼吸を整える。桐子さんが来るまでには、平常心を取り戻しておきたかった。だが、様々な感情が体中を渦巻いて、足の先まで氷のような冷たさが伝わってくる。
嫉妬心をはるか上を行く、じっとりと張り付いてくるに僕を襲おうとする感情……これは恐怖心だ。
気持ちが落ち着きを取り戻すため、出来る事なら戸崎先生と桐子さんはまだ来てほしくなかった。いつも恋しくて仕方がないのに、こんな風に遠ざけようとするのは初めてだった。
その願いは叶うことなく、間もなく到着した桐子さんは戸崎先生を連れ立って引き戸を開けた。
「間に合った?」
「うん、今注文し終わったとこ。トーコ、ウーロン茶で良かった?」
「えー、折角今日徒歩で来たのに……」
「飲み放題プランだから、あとで自分で好きな物注文して!」
桐子さんの声でさえも、貝の様に固く閉じてしまった僕の耳には届かなかった。
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