夏 ~いとしい我が家~ ⑩


◇◇◇



 紀一郎さんが出てすぐ、私も簡単に支度を終えて紀一郎さんのマンションから飛び出していった。当面の着替えと化粧道具の準備と、部屋の掃除と洗濯を少々、あとは冷蔵庫の中身を確認する。



 とんだことになった。



 紀一郎さんは、よくわがままになる。


 付き合いはじめて一年程度になるが、最近甘えた子供みたいなことを言うようになった。私に対する遠慮がなくなったと思えば聞こえがいいのかもしれないが……その奥にある不安や恐怖をあの人の腕から感じることがある。



 おそらく、私が私のことを紀一郎さんに話していないように、紀一郎さんにも私に話していないことがあるに違いない。



 自宅について、帰省の時に使ったボストンバックの中身を、紀一郎さんと水族館に行ったときに使ったカバンに入れ替える。帰省を終えたばかりで、荷解きを終えていなくて助かった。


 あとは、洗濯機を回しながら部屋に掃除機をかけて、冷蔵庫を覗いて(幸いなことに、危険なものはなかった)、洗濯物をハンガーにつるしていく。


 少しずつこなしていると、電話が鳴った。紀一郎さんの仕事が最早終わったのかと思って、焦りながらストラップを掴んでカバンから引っ張り出して表示を確認した。



「……もしもし」


「もしもーし、トーコって、もうこっち帰ってきてるんだっけ?」


「うん」



 電話の相手はエリサだった。少しだけ、エリサにばれないようにほっと息を吐く。



「トーコ、明日ヒマ?」


「うん。どうして?」


「セール付き合ってもらおうかなってー、無理そう?」


「ちょっと……確認しなきゃわからないけど、たぶん大丈夫」


「ねえ、確認って……もしかして彼氏の?」


「うん、そうだけど」



 少しでも家を空けると話したら、またどんな表情をするのだろう。きっと、迷子になった子供のような表情を見せるに違いない。


 そして、どんな風に口づけをしてくるのだろう。考え出すと、とめどなく体が熱くなる。



「分かったら夜にメールするね、バイトあるから遅くなるかもしれないけど」


「あのさ、トーコ」


「ん? 何?」


「いや……トーコも大変だよね」


「何が?」


「トーコの彼氏。話聞いてるだけじゃめんどくさそう」


「……ふふっ」


「そこがまたいいって?」


「どうだろう? わかんないや」



 エリサとの電話を終わらせて、洗濯物を一気に干してから、また部屋から飛び出していく。


 近くのスーパーに立ち寄って、晩ごはんの材料を買う。温め直してもおいしく食べられるよう、簡単にトマトソースを作ってそこに焼いた鶏肉を入れることにした。これなら、無精者の紀一郎さんでも大した手間もなく食事をとれるはずだ。



 作ったサラダを冷蔵庫に入れて、使わなくなったフライパンを洗っている間に、紀一郎さんは帰ってきた。いつもより呼吸が荒く、少し汗ばんでいる。



「紀一郎さん、お水飲みます?」


「あ、ありがとう、ございます……」



 冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出して、グラスの半分程度に注ぐ。紀一郎さんにそれを渡すと、紀一郎さんは一気に呷った。



「もうちょっと早く帰ってくるつもりだったんですけど」


「晩ごはん出来てるので、お鍋の中の物温めて、冷蔵庫にサラダ入れてますからね。あと、ご飯くらいは自分で炊いてください」


「はい、わかりました。桐子さんはそろそろ時間ですか?」


「そうですね、準備しなきゃ」



 キッチンを離れて、リビングのソファに座って傍らに置いていたショルダーバックの中身を確認する。スマホ、財布、ハンカチ…必要なものは大体揃っている。そのバックを肩にかけようとした時、紀一郎さんがのしかかるように私の背中に抱きついてきた。


 紀一郎さんの体温は、まだ火がついたように熱い。



「紀一郎さん?」


「忘れ物」



 紀一郎さんは体を離して、後ろから私の首に手を回して、紀一郎さんの体温に当てられてすっかり温くなったネックレスをかけた。



「あ……すみません」


「いいえ、気を付けて下さい」


「はーい。あ、そうだ」


「まだ、何か忘れ物でもありましたか?」


「いいえ、その……あの、明日、紀一郎さんが大学行ってる間、私、友達に会ってきてもいいですか?」


「友達?」


「エリサ、あ、広瀬さんです、ちょっと買い物して、お茶するだけ。晩御飯までには帰りますから」



 紀一郎さんが真っ直ぐ私を見つめるのに、私はその視線から目を逸らしてしまった。


 何故?この家から離れる後ろめたいから?彼がきっと悲しそうな顔をするから、それを見たくないから?理由を見つけるよりも先に、紀一郎さんの指先が私の唇に触れた。



「僕は、君がこの家に帰って来てくれるのあれば、大丈夫です」


「ありがとうございます、良かった」


「それはそうと桐子さん、そろそろ時間」


「あっ!」



 慌てて立ち上がろうとするが、それより先に紀一郎さんが私の腕を引く。あらかじめ目を閉じていると、紀一郎さんは『いい子』と囁いてそのまま吸い付くようにキスをした。そして、角度を変えて、もう一度。音を立てて、もう一度。離れるときは、まるで別れを惜しむみたいにしっとりと。


少し濡れた私の唇を、紀一郎さんは親指で拭う。



「……いってきます」


「はい、行ってらっしゃい」



 今度は、私が急ぎ足の番だ。



◇◇◇



 まだ、肌にシャツがぴったりと張り付くくらい暑いのに、デパートの中は秋の始まりを告げている。


 エリサは服を何着かと靴を買って、私も秋物のブラウスとスカートを買った。



「ありがとね、色々付き合ってもらって」


「大丈夫、私も行きたかったし」



 私たちはチェーン展開しているコーヒーショップで向かい合って座っている。2人とも揃って新作だというオレンジのフラペチーノを選んだ。ミルクと果肉の甘さの中に、キュンとした酸味を感じて美味しかった。



「トーコのそれって、プレゼント?」


「それって……ネックレスのこと?」


「そ、最近いっつもしてるから、随分気に入ったんだね」


「うん。それに、付けてないと寂しそうな顔するし」


「今日、出かけて大丈夫だったの?」


「ちょっとだけ渋ってたみたいだけど、夕方にはちゃんと帰るからって言ったら納得してくれた」



 あの時の紀一郎さんといえば、まるで捨てられた子犬か、雨に濡れた落ち葉のようだった。私は苦笑するほかない。



「あの、トーコさ」


「なあに?」


「それってさ……デートDVとかじゃないよね?」


「え?」



 あまり聞き慣れない言葉を、頭の中で反芻した。繰り返しているのに、頭の中が真っ白になっていく。



「DVってさ、何も殴ったり酷いこと言うだけじゃなくって……友達と出かけるの渋ったり邪魔したりするのも含まれるらしいんだよね」


「へえ、そうなんだ。初めて知った」


「トーコの彼氏は大丈夫だよね?」


「少なくとも、こうやって出かけるのも大丈夫だったし。それは、ないんじゃないかな?」


「深くは追求しないけどね、トーコって秘密主義的って言うか、結構聞かないと話さないことあるし。何か相談事があるなら言ってよね、まだ笑い事で済む内にさ」


「うん、わかってる」


「……でも、トーコも結構その彼氏のこと好きだよね、話聞いてるだけでも、彼氏はトーコのこと大好きって感じ凄いし」


「うん、そうだね」



 鎖骨に、揺れる雫型のモチーフに触れた。


 目の前のオレンジ色に、街灯の灯りが重なる。私は目を閉じて、昨日の夜のことを思い出していた。


 昨晩、結局あれだけ言ったのに紀一郎さんは迎えに来た。それでも、きつく言ったおかげか、お店の出入り口でポツンと佇んでいたのだ。



「もう」


「心配だったから、つい」


「誰かに一緒にいるの見られたらどうするんですか?」


「大丈夫、僕は桐子さんの後ろを歩きますから。それなら誰も怪しまないでしょう?」



 まるで子どものようにはにかむ。その笑顔に私は弱いのだ。


 その言葉の通り、紀一郎さんは私の真後ろを歩いた。私が足を踏み出すのと同時に、紀一郎さんの足音が聞こえてくる。いつもより、少し歩幅が短い気がした。


 気にしないようにしたが、背中に当たる紀一郎さんの視線が、私の根っこを刺激してくる。足の先から頭のてっぺんまで、まるでそのままトレースができるくらい、紀一郎さんはじっと私の姿を見ているのだろう。



「あの、紀一郎さん」


「何でしょう?」


「いや、何でもないです」


「気になる? 僕のこと」


「はい」


「ぜひ、気にしてください。僕のこと以外考えられないくらい」



 後ろを振り返ると、私を見つめながら紀一郎さんはにっこりと微笑んだ。その目の中に、私はすっぽりと収まっている。まるで抱きしめられているみたいで、体がぞくぞくと震えだした。


 それを紀一郎さんに気取られないように、私は歩みを進める。


 さっきよりも早く、早く紀一郎さんの家に着くように。この熱は、紀一郎さんしか冷ますことはできないのだから



 雫型のモチーフは私の体温に当てられて、すっかりぬるくなっている。朝、紀一郎さんにつけてもらった時はあんなにひんやりとしていたのに。


 私の熱のせいだ、と思っているのに私はそれに触れるたびに、紀一郎さんの体温を思い出していた。頬が少し染まったことにエリサが気づいたのか、口の端をあげて笑った。



「はいはい、お熱いですね」


「もう。そう言うエリサはどうなの?」



 話題を変えると、エリサは火ぶたを切ったように話し始めた。まるで少女漫画か小説の中にありそうな、フィクションの中にあって私の中には存在しない、年の近い男女の恋の話だった。

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