夏 ~いとしい我が家~ ⑨


 こまごまとした雑務をこなし、学科での簡単な会議も終わりを告げた。スマートフォンをポケットから取り出し、電話の履歴から桐子さんの名前を押す。


 一昔前なら、身近な人間の電話番号なら簡単に暗記できたが、技術の進歩のおかげか年を重ねすぎたせいか、この11桁を覚える事さえ不得手なことになってしまっている。


 随分と長くコール音が聞こえた後、桐子さんの声が聞こえてきた、ノイズが混じった、まるで偽物のような声だった。



「もしもし?」


「もしもし、僕です。そろそろ帰るんですけど……、桐子さん、電話出るの遅かったけど、何してたんですか?」


「……ご飯作ってたんです、紀一郎さん放っておくとご飯食べないですし。私今日バイトだから、先に作っておかなきゃ」


「和三さんのところで軽く食べるつもりでしたけど」


「バイト先までついてくる気ですね」


「だめですか?」


「だめです」



 電話の向こうの桐子さんは、少し怒気を含んでいるような声を出している。



「あ、お迎えもダメですからね」


「でも、夜道の一人歩きは危ないですよ」


「大丈夫ですって、明るい道しか歩かないですし……それに」


「それに?」



 桐子さんの言葉がそこで途切れてしまう。少し間をおき、長く息を吐きながら……静かに囁いた。



「……叔父さんに、またとやかく言われるのも恥ずかしいんです。だから来ないで」



 電話の向こうで、桐子さんが拗ねている。その膨れた頬を撫でることができない今の距離が、もどかしい。



「わかりました、しょうがないけど」


「じゃあ、帰ってくるの待ってますから」



 ぶっきらぼうに桐子さんは電話を切った。接続が切れた音だけが鼓膜に伝わる。携帯電話をポケットにしまい、荷物を取りに行くために研究棟に足を向けた。



 曲がり角に差し掛かった時、勢いの持つ誰かが、角の死角から飛び出してきた。



「わっ!」



 互いの肩が大きくぶつかる。わずかな痛みを感じ、体がぐらっとふらつく。左足で何とか踏ん張り、とっさに顔をあげた。



「すみません、大丈夫でした?」



 目の前にいたのは、ついこの間出会ったあの男子学生だった。彼も非常に驚いていて、目を大きく見開いている。



「ええ、何とか。あれ、君、確か関君の後輩の……」


「徳永です、すいません、前見てなかったので」



 徳永と名乗る彼は、腕の中に本を抱えている。



「本いっぱい。勉強ですか?」


「ただの読書です。図書館の方が家にいるより涼しいし」


「それもそうですね」



 足早に彼の脇をすり抜けようとすると、背中に声がかかった。



「あの、先生!」


「は、はい、何かありましたか?」


「この前の先生が持っていた本、図書館探してもなくて。先生から借りることってできないですか?」



 この前の本、というと桐子さんに渡すために彼の目の前から奪った本のことだろう。



「すみません、あの本、人に渡す約束をしてしまって」


「わかりました。急いでるところすいません」



 少しだけ微笑んで、彼は頭を下げた。僕も同じように下げるが、彼が元の姿勢に戻るよりも先に頭を上げて小走りに進んでいく。


 早くしないと、桐子さんがバイトに行ってしまう。一分一秒も惜しいのだ。


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