夏 ~いとしい我が家~ ⑦
机の上に置きっぱなしにしていたスマートホンを手に取る、少し操作をして、耳に当てて……数回のコール音の後、桐子さんの声が聞こえた。
電波に乗って聞こえてくる桐子さんの声にはノイズが混じっていて、それが更に桐子さんと僕の間にある距離を実感させた。
「もしもし?」
「桐子さん? 僕です」
「はい。何だか元気そうですね、紀一郎さん」
桐子さんは鈴を転がしたような声で言うので、僕は彼女に気取られないように寂しさを胸の奥に仕舞い込む。
「SNS、見ましたよ?」
「SNS?」
「紀一郎さんがフリマしてたやつ、エリサから回ってきて、びっくりしました」
「桐子さんの所まで『拡散』されてたんですね。便利だなあ」
「私も行きたかったです」
「桐子さんが読みそうな本は取っておいてあるから、安心してください」
「ふふ、ありがとうございます」
「桐子さん、まだ、実家?」
「ええ。晩御飯の準備が一息ついたところです」
桐子さんの声を聴きながら、目を閉じる。
目の前に桐子さんが、できたらお風呂上がりの桐子さんがいることを思い描きながら、手を伸ばす。もちろん、その手は空を掴むだけだった。
「紀一郎さんは?」
「え?」
「今、おうちですか?」
「いえ、まだ研究室です。ずっと外にいたからクタクタで」
「そこで寝ないでくださいね、紀一郎さん」
「……風邪ひくから?」
「……はい」
彼女のセリフを奪った僕が笑い声をあげると、桐子さんは小さなため息をつく。その息遣いが通話口から聞こえた時、腰のあたりがゾクリと震えた。体中が、桐子さんの存在を求め始める。
「そういえば、和三さんのバーも閉まってましたけど、そちらに?」
それをかき消すために、話を逸らす。
「そうです。祖母に、早く結婚しろってどやされてましたよ」
「僕も、どうせそう言われるだけだから、中々実家に足が向かないんですよね。わかります、その気持ち」
「……それでも、時間があるときに、行った方がいいですよ」
「そうなんですけどねぇ。桐子さんは、今日何してたんですか」
「昼間に、高校の時の友達に会ってきたり。あとは母の代わりに家の事したり」
「それは、とても忙しそうだ」
僕が知らない土地で、知らない誰かと楽しそうに過ごす桐子さんの事は考えたくなかった。腕を伸ばし、手近に置いてある鞄から筆箱を取り出して、胸の上に置く。呼吸のたびに、クラゲも揺れている。
「ねぇ、桐子さん」
「何ですか?」
「……会いたいなあ」
電話の向こうの桐子さんが戸惑っているのがひしひしと伝わってくる、呼吸さえも聞こえない。
僕は、追い立てるように言葉を重ねる。
「桐子さんに会いたいです」
何もかも投げ出してでも、誰かの気持ちを傷つけてでも、今は桐子さんを抱きしめて、ひたすら好きだと伝えたい。
そうでもしないと、取り繕っている心の外装が剥がれていってしまいそうだ。
「もう少ししたら帰るので、待っててください」
桐子さんの言葉は、僕よりも「大人」だった。僕をあやすように、ゆっくりと囁く
「帰ってくる日、僕、駅まで迎えに行きましょうか?」
「誰かに見られたらどうするんですか?」
「それがだめなら、帰ってきたらすぐに僕の所に来てください、家にいるので」
「お仕事は? 大丈夫ですか?」
「それまでに終わらせるので、大丈夫です。だから」
駄々をこねるなんて、もう何十年かぶりだった。
桐子さんは優しいから、僕がどんなぶ我が儘を言っても、必ず聞いてくれる信頼感もあった。
「そんな事ばっかり言うんですから……もう、わかりました」
その砂糖を溶かした雨のような優しい声音が、僕に降り注ぐ。強張っていた体が次第に楽になっていくのが分かった。
「……良かった。あと、ひとつだけ」
「ん? なんですか?」
『僕のこと、好きだって言って欲しいです』という最大級の我が儘は、漏れ出している寂しさよりも奥に仕舞いこむ。
「いや。……待ってますからね、必ず来てくださいね」
「はーい、わかってますってば」
桐子さんの笑い声が聞こえてくる、だが、所々無機質なノイズが声を遮った。
◆◆◆
ゆったりとしたTシャツと細身のジーンズ、小さなショルダーバック、そしてそれよりも少し大きい紙袋という出で立ちで、桐子さんは帰ってきた。
「おかえり。荷物それだけですか?」
「え?」
「他にあるでしょ、荷物。帰省してたんですから」
「さすがに置いてきましたよ、邪魔じゃないですか」
「こっちに真っ直ぐ来てくれると思ったのに」
僕が適当に脱いだ靴の横に、桐子さんはサンダルを丁寧に揃えた。
「荷物も多かったんです。それに、紀一郎さんの家よりうちの方が駅より近いですしね。ついでですよ、ついで」
「そうですけどね……勝手に期待していたので、勝手にがっかりしています」
「もう、紀一郎さんってば……あ、お土産です」
桐子さんは紙袋の中から水羊羹を取り出して、冷蔵庫に入れた。『もう少し冷えたら食べましょうね』と、まるで子どもをあやすような口調だった。
冷蔵庫を閉じる桐子さんの手を取り、一歩分桐子さんを引き寄せた。
「桐子さん」
「はい、なんですか?」
「お帰りなさい」
「……ただいま、紀一郎さん」
そして、僕は少ししゃがんで、桐子さんは顔をあげて、お互いに唇を押し付け合った。
少し離れて、握った手を離して桐子さんの背中と腰に腕を回す。桐子さんの首元で深く呼吸と繰り返すと、桐子さんの奥からいつもとは違う香りがした。その瞬間、何かに大きく突き動かされ、もう一度桐子さんにキスをしていた。桐子さんは驚いたのか、息をのんでいる。
突き動かしたものは、ただの嫉妬心だ。
何度も角度をかえて、その度に深く口づけていく。まるで桐子さんの呼吸を奪うかのように。
舌を絡め取ろうとすると、桐子さんは僕の胸を強く叩く。少し体を離すと、桐子さんは大きく甘い響きを持つため息をついた。
「ごめんなさい、久しぶりだったからつい」
「……もう」
「桐子さん」
「なんですか? 紀一郎さん」
「好きです」
桐子さんは見上げるように僕の目を見た。瞳の中に嫉妬心を滲ませないように努めて、僕も桐子さんを見つめ返した。
「……もうっ」
桐子さんは、淡く耳を染める。
「桐子さんは優しいから、すぐ許してくれますよね」
「言っても聞かないじゃないですか、紀一郎さんは」
「そうですね」
桐子さんは僕の胸に額を当てる。僕の心臓の音でも聞いているのだろうか、桐子さんは微動だにしない。その小さな肩に腕を回して桐子さんを抱いた。僕の香りを彼女に移すように、ぴったりと隙間なく。
「……あ」
「どうかしましたか、紀一郎さん」
「晩御飯どうしましょうか? 冷蔵庫、中身あんまりないみたいでしたけど」
「ああ……、ずっと買い物行ってなかったから」
「私、今からスーパー行ってきましょうか?」
「だめ」
桐子さんの言葉を、短いセンテンスで僕は遮った。
「……え?」
「桐子さんはここにいて下さい、ここで僕の事待っていて」
「……でも」
まくしたてるように話す僕を、桐子さんは目を丸くさせて見ていた。慌てて一呼吸おいて、いつもの話し方を思い出す。ゆっくり、落ち着いているように聞こえるあの話し方を。
「買い物なら、僕が行きます。他に必要な物ありますし。桐子さんは、本とかDVDとか勝手に見ててもいいから、ゆっくりしていてください」
「いいんですか?」
僕の心の内を知らない桐子さんは、ふにゃっと笑みを浮かべる。
「ええ、帰ってきたばかりなんですから休んでて」
桐子さんの頭を撫でている内に、僕は次第に余裕を取り戻していた。
「……それじゃあ、紀一郎さんに甘えちゃおうかな」
「どうぞ。留守の間、お願いします」
「はい」
カバンに財布とスマートフォンを入れて、玄関に向かう。靴を履いて振り返ると、桐子さんが小さく手を振っていたので、その手を握って指先に口付けを落とす。桐子さんの表情に変化は少なかったが、口付けたそこの部分だけが急に熱くなったことだけは分かった。
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