夏 ~いとしい我が家~ ⑥
彼女たちが本を選んで去っていった後、関君はペットボトル2本と、仲良さように話す男子学生を二人も連れて戻ってきた。
「先生、遅くなりました」
「大丈夫。あら、三竹くんじゃないですか」
「センセ、こんにちは!」
以前桐子さんにレポートを押し付けて無理やり提出しようとした三竹くんと、その少し後ろに、どこかで見たことのある男子学生。時折冗談でも言い合っているのか楽しそうだ。
「関くんと三竹くん、知り合いだったんですか?」
「こいつら、サークルの後輩です。暇そうだったから連れてきた」
「暇じゃないんですよ、俺ら」
「司もケンも、せっかくだしなんか持って行けよ。お前、あんまし本読まねーだろ」
ケン、と呼ばれた彼は呆れるようにため息をつく。三竹くんが燃え盛る元気な太陽だとすると、彼は月影に立っているのがよく似合う雰囲気がある。それが、桐子さんに似ていた。桐子さんも、陽の下いるよりも月明かりの下にいる方が似合っている。
「先輩よりは読みますよ。俺に言うんじゃなくって、三竹に言ってくださいよ」
その言い方は、関君よりも大人びていて……目を閉じると、どちらが先輩か分からなくなりそうだ。
「志麻先生、何かおすすめってあります?」
彼は「これとか」と、一冊の本を手に取る。タイトルを読むと……桐子さんが興味を持ちそうな内容だった。僕は、思わず手を伸ばす。
「なんだ、先生、急に惜しくなりました?」
フリマを提案した関くんはケラケラと楽しそうに笑う。
「まあ、そんなところです」
「……残念です」
「ごめんなさい」
僕が深々と頭を下げると、三人はクスクスと笑った。
その後も少しずつ、まばらだったけれど学生がやって来る。しかし、陽はどんどん傾いてくるのに比例していつしか誰の姿も見えなくなってきた。
「『店仕舞い』ですかね、そろそろ」
「そうっすね」
本は先ほどよりは大分減ったが、まだ半分程度残ってしまった。
「先生、これ、どうします?」
「仕方がないので、明日、紐でくくって捨てますよ」
「あ~……明日も手伝えたらいいんですけど」
「インターンシップですか?」
慌てて聞くと、関君は小さく首を横に振る。
「就活講習会があって」
「そうでしたか、結構忙しいんですねぇ。確か関君は、民間企業志望でしたよね?」
「はい、そーですよ。営業とか、そういうの」
「……そっか。がんばってください、応援します」
「はーい。……志麻っち先生は、何で大学の先生になったんですか?」
たまに聞かれるその言葉には、僕はいつも同じ言葉を返している。
「僕には、本を読むしか能がなかったから」
「なにそれ、ウケる」
「僕自身もそう思っていたし、何より……昔、親しくしていた人にも同じようなことを言われたので、本当にそうなんだと思います」
「もしかして、その人って恋人?」
「内緒」
「ちぇっ。じゃあ、今度のコンパで根掘り葉掘り聞くんで大丈夫です、新しいゼミ生も増えることだし」
僕と関君は目を合わせて笑いあった。夏が過ぎれば、あっという間に後期授業がやって来る。
学生諸君も、夢のために勉学に励む日々がまた来るのだ。
「関君は?」
「え?」
「関君の夢だった職業はなんだったんだろう、と思って。あってんでしょう? 子供のころ」
「……」
「いや、答えたくないのであれば、ごめんなさい。無理に話さないでもいいですよ」
「いや、いつか誰かに聞いてもらいたいなって思ってたんで、大丈夫です。……実は俺、高校の教員になりたかったんです」
「それは……確かに、関君に向いていると思う。どうしてやめたんですか?」
「大学入ってすぐのころは教職の授業とったりしてたんですけど、去年かな? 高3の時のクラスメイトが……その時の担任と結婚したんです」
「……え?」
「地味な感じの女子だったんですけど」
関君は、そこで言葉を区切った。
そして、引き出しの中から適切な言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「何か……別に幸せを妬んでいるわけでも、その女子が好きだったわけでもないんですけど、気持ちがもやもやして。先生が教え子と結婚するって話があるって聞いたことはあるんですけど、まさか身近に起きるとは思わなかったし。
先生も、一人の人間だって言うのは分かってるんですけど、あのクラスがあった1年間、先生があいつのこと、そういう『恋愛対象』として見てたのも信じられなくて」
「……うん」
「難しいんですけど……俺は、先生に裏切られた感じがする」
関君はゆっくり立ち上がる。
「もう戻りましょっか。手伝いますよ」
「君の話、もっと聞いてみたかったけれど、残念。今度根ほり葉ほり聞かせてください」
「これ以上物は出てきませんよ」
関君は律儀に研究室まで本を戻すのを手伝ってくれて、ゴザを脇に抱えて大きく手を振りながら帰っていった。そこまでされると、この頑張りを成績に加味したくなってしまう。彼の作戦勝ちだ。
研究室に入り、大きく音を立てて椅子に座り込んだ。オレンジ色の西日がブラインドの隙間から不躾に入り込んでくる、その光を吸収するように、筆箱に付けたあのクラゲのストラップもオレンジ色に光っている。
疲れ切った僕の体は、桐子さんの事で頭がいっぱいだった。恋をはるかに超えた、熱情が体の中で渦巻いている。
目を閉じて、桐子さんの笑顔を思い出そうとした。深い海の底に潜るように意識を張り詰めると、桐子さんよりも先ほどの関君の話を思い出してしまい、ハッと目を開けた。
桐子さんの学生生活を守ることばかりを考えていた。しかし、僕の可愛い教え子たちがこの学校に残していった想いに、如何に応えていけばいいのか、迷いが増えていくばかりである。
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