夏 ~いとしい我が家~ ⑤
◆◆◆
密閉された、ジャングルのように鬱蒼としている研究室のドアと窓を大きく開けて、光と風を入れる。外の空気の方が、少しだけ冷たい。
振り返って研究室を見ると、今まで溜め込んできた数々の本が深呼吸をしているようだった。
その中から、もう読んでいない本や使わなかった本を選んで廊下に出していく。不要になったそれらは想像をはるかに超え、山は高くなっていった。
桐子さんが帰省してから、時間が余って仕方がない。自分も実家に帰ろうかと思い立ったが、どうせ帰っても『いい加減、結婚しないのか?』とどやされるだけだ。わざわざ疲れに行く必要もない。
そんなことよりも、同じ『疲れること』なら黙々と掃除をしていた方がずっとましだ。
「あれ、志麻っち先生いんの?」
「ああ、関君。こんにちは」
研究室をひょっこり覗き込むように、僕のゼミに所属している3年生が顔を見せる。この暑い中、スーツを着てきっちりネクタイもしめている。
「関君、どうしたんですかそんな格好して……」
「来週からインターンシップ始まるんで、その事前ガイダンスがあったんですよ。あと、学校来たついでに、サークルの顧問に休日の施設使用の判子貰いに来たんです」
「それは大変ですね」
「まあ、学生の本分ってやつですね」
「元気なのは良い事です、その調子でゼミも卒論も頑張ってください」
「そういう笑えないこと言わないでよ……先生、これどうすんですか?」
これ、と言った関君が見た先は、廊下にうず高く積まれた捨てる予定の本があった。
「大学の研究費で買ったやつは図書館に返しに行くんですけど、それ以外が多くて困ってます」
「売ったりしないんですか? 古本屋とか」
「古い本ですからね、売っても二束三文以下でしょう。持っていくのも大変ですし」
「こんなにたくさん、もったいないですね。なんか、先生の歴史を感じる」
「本を読むしか能がないですからね」
「ふーん……。あ、そうだ! 売ればいいんですよ」
「さっきも言ったじゃないですか、古本屋に持っていくのは無駄だって……」
「学校の中で、ですよ」
「え?」
研究棟の陰になっていて少し暗い所に、関君がサークルの部室から持ってきたというゴザを引いて、研究室から運んできた本を並べる。
日陰の中は涼しいが、たかが知れている。関君も上着を脱いで、ネクタイも外した。
「で、ここで学生相手にフリマ」
「フリマ? フリーマーケットの事ですよね?」
「そうそう。前に、違う大学の友達が、卒業する先輩が学校の中でいらない物を売ってたってSNSに書いてたんですよ。それ思い出して」
「でも、誰か来ますかね? 今夏休み中で、学生なんていないでしょう?」
夏休みの大学は、毎年閑散としている。不安を吐露すると、関君は鞄からスマートフォンを取り出した。
「そこでSNSですよ。先生、ネットに写真上がっても良い人?」
「ええ、大丈夫。大学のホームページにも載ってますしね」
「じゃあ、はいちーず」
彼に言われたとおり、スマートフォンの前で少しだけはにかんでピースサインを見せた。複数回シャッター音が鳴ったと思えば、彼は素早く画面を操作していた。
「拡散希望っと……。俺、サークル関係で割とフォロワーいるし、今学祭に向けてサークル棟で練習してるやつ多いから、結構学校来てると思いますよ」
「でも、学生相手にお金のやり取りはしたくないなあ」
「じゃあ、無料でいいんじゃないですか? 先生だって本が掃ければいいんでしょ? 志麻っち先生、結構人気あるからみんな来ると思いますよ」
「あはは! そうですか?」
「そうですそうです」
関君はゴザに座る。僕も倣って、関君の隣に座った。
「先生、まだ独身でしょ? 実は、結構狙ってるやついるんですよ」
「……まさかぁ。君たちからしたら、随分と年上ですよ僕なんか」
「ほら、俺らくらいの年の女子って、結構年上に憧れたりするから……」
その言葉が、今までに比べると少し淀んでいた事が気にかかったが、僕は気づかないふりをした。
人に触れられたくない話題は、誰にだってあるはずだ。
代わりに、僕は財布を取り出して、千円札を1枚、彼に渡す。
「関君、これで好きな飲み物でも買ってきてください」
「え?! いいんですか?」
「もちろん、バイト代には足りないけど。僕の分も忘れないでくださいね」
「そんなの気にしなくたっていいんですよ! 先生は、卒論の単位さえくれたらいいんで!」
お金をもらって駆けていく彼は、まだあどけない少年のようだ。その背中に、夏の太陽がまぶしく当たっている。
ゴザの上に座っていると、冷たさよりもコンクリートの硬さが気になった。
彼の言葉を聞いて、桐子さんの事を思い出した。
彼女が僕に惹かれたのは、まだ瑞々しい少女が持つような『憧れ』に起因した、甘い感傷なのだろうか?
それとも、僕を本当に好いてくれたからなのだろうか?
そのどちらにしても、彼女はあまり僕に対する好意を言葉にしないことが、少し気になっている。
顔をあげると、スマートフォンを見ながら歩いてくる女子学生2人と目が合う。彼女たちは僕の姿を見ると、すぐに駆け寄ってきた。
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