夏 ~いとしい我が家~ ④
背を向けるお母さんの姿を目の端に映しながら、私はクラゲのストラップを見た。
私の手を握る紀一郎さんを、私の頭を撫でる紀一郎さんを、私に口付けをする紀一郎さんを、私は手放すことが出来るのだろうか。
考えるだけでも、肌寒くなって身震いをした。
二人の未来は一向に見えてこないのに、失うことだけは恐ろしくて仕方がない。
「桐子?どうしたの?」
押し黙った私に、お母さんは声をかける。
「それでも、私、あの人と一緒にいる時間は、好きだな」
私の言葉を聞いたお母さんは、気を抜いたように笑う。
「私も、お父さんと結婚するとき同じこと思った。懐かしいわ」
「若い時?」
「もちろん」
「……西野さんにも?」
「何言ってるんだか、そんな恥ずかしいこと聞かないでよね」
「ねえ、来ないの? 西野さん」
紀一郎さんの話に蓋をするためには、私はこうする他なかった。見せたくないものの上に、見たくないものを覆いかぶせる。なんて愚かな行為なのだろうと、口を開きながらぼんやりと思った。
「呼んでもいいの? ……桐子、あんまり好きじゃないでしょ。西野さんの事」
「……気づいてた?」
「桐子の好きなタイプとは正反対だからね、あんなにぎやかな人。顔見てたらすぐに分かる」
「でも、一度くらい挨拶しないと。私だって明後日帰っちゃうんだし」
「そうねぇ。明日誘ってみようかしら」
もうお風呂行くからね、とお母さんは背を向けた。
静かな居間に、一人取り残される。お母さんの中では時間は進んでいるのに、私一人取り残されているような、そんな気がした。
◇◇◇
翌日の夜、叔父さんは自分の実家に帰り……その代わりにお母さんは西野さんを連れてきた。首元や腕が太く、それを覆うポロシャツの方が苦しそうだ。
「お久しぶりです、桐子さん」
「こんばんは、西野さん。どうぞ」
仕事で留守にしていた代わりに、私が晩ご飯の用意をしていた。西野さんがどれだけ食べるか分からないので、無我夢中に作っていたら大変な量になっていた。それを見て、西野さんは嬉しそうにニコニコと笑っている。
「こんなにたくさん作って……相撲部屋じゃないんだから」
「いやいや、嬉しいです! 今日は力仕事が続いて、お腹空いてたんですよ!」
「良かったです。たくさん食べてください」
西野さんの食べっぷりは気持ちいいものだった。私とお母さんが一口食べている間に、パクパクと吸い込むようにお腹に収めている。山盛りに作ったはずなのに、三十分もしたらすっかり空になっていた。
「いや、美味しかったです桐子さん。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ……」
「この子、びっくりしてるわ。こんな風に食べる人見るの、初めてなんじゃない?」
「うん……」
お父さんも叔父さんも……紀一郎さんですら、こんな吸い込むような食事の仕方はしない。軽いカルチャーショックを感じる。でもそれは不快に感じることはなく、むしろちょっと気持ちのよさも感じるものだった。
「今まで周りに体育会系の人なんていなかったでしょう? 私たちの周りに。だから、とても新鮮なの」
食後のお茶をすすりながら、しんみりとお母さんは呟いた。西野さんはお腹いっぱいになってくれた様子で、大きく膨らんだお腹を擦っている。
食後の後片付けをしようとすると、お母さんがすっと制して私を居間に取り残す。西野さんと二人きりだけど、何を話せばいいか分からないままだった。
「トーコさんは」
「は、はい!」
西野さんが私を呼ぶ。その呼び方は、先ほどまでの堅苦しさが抜けて親し気だ。
「大学で、どんなことを勉強してるんですか?」
「え、えっと……日本文学です」
「日本文学?」
「はい、私百人一首が好きで……それをもっと勉強するために、大学に」
「そうなんですね」
あまり広がりにくい会話だった。お母さんの彼氏と話すとき、どんな話題を持ち出したらいいのか全く分からない。
「いつ帰るんですか? トーコさんは」
「明日の朝の特急で……」
「それなら、僕、送りましょうか?」
「……へ?」
変な声を出したのは、台所から顔をのぞかせたお母さん。私は驚きのあまり言葉を失っていた。
「僕明日仕事休みですし、どうせ暇なので。トーコさんも、荷物持って駅に向かうの大変でしょうし」
「でも、悪いですよ」
「いいじゃない! そうしてもらいなさい!」
私の蚊が鳴くような細い声はお母さんの楽しげな声にかき消される。横を向くと、西野さんもニコニコと笑っていた。出口を塞がれた私は、頷くほかなかった。
前の晩遅くに帰っていった西野さんは、翌朝早くから我が家にやってきて、またモリモリと朝食を食べていた。隣で細々と食パンをかじる私の隣で、ご飯をお替りする。
お茶碗にご飯をよそうお母さんの横顔が、どこか幸せそうに見えた。
「それじゃ、お母さん行ってくるから。桐子も勉強ちゃんとしなさいよ」
「分かってるよ」
「彼氏にうつつ抜かすのもほどほどにね」
「もう! 早く行きな、遅刻するよ!」
お母さんの出勤を見送った後、西野さんの車に乗せてもらった私はそのまま駅に向かう。通勤ラッシュで道が少し混んでいて、二人きりの時間が少しずつ長くなっていく。
「大学は、楽しいですか?」
「え?」
「美雪さん、いつもトーコさんの事心配していて……僕も少し気になってしまって」
美雪さん、と西野さんは親し気にお母さんの下の名前を呼ぶ。その呼び方に慣れていない私は、何だか恥ずかしくなってきた。お母さんの……女性である部分が眼前に晒されているような気分になる。
「西野さんは……」
私はずっと気になっていたことがあった、そっと古びたタンスを開けるように口を開く。長い間仕舞いこんでいたはずなのに、その質問はまだ新鮮味帯びている。
「どうして、お母さんと付き合ってるんですか?」
「え?」
私と紀一郎さんほどではないけれど、お母さんと西野さんも年の差は結構あいている。特に、西野さんはお母さんに比べて年下で……もっと適齢期でいい人がいたんじゃないかとも思う。
「急にそう聞かれると……何だか恥ずかしいな。僕、新卒の時から今の病院に勤めてるんです、その時からずっと美雪さんは働いていて。まあ、その頃はまだ美雪さんの事をそういう対象とは思ってなかったんですけど」
西野さんは本を読むように話し始めた。
「飲み会で、僕、変な風に酔っぱらっちゃんですよね。解散した時は平気だったんですけど、歩いていくにつれて……歩くのはふらふらだし気持ち悪くなるし、もう歩けなくなってその場に座り込んだんですよ。その時、ふらっと現れたのが美雪さんで」
「お母さんが?」
「どこで買ってきたのか、経口補水液持って。『大丈夫じゃなさそうね』って道端で看護してくれたんですよ。美雪さんはきっと仕事の一環でしてくれたんでしょうけど、僕にしてみたら……まるでマリア降臨と言うか、心が揺さぶられたんですよ、その時」
「はぁ……」
しみじみと話していたはずの西野さんが、少しずつニコニコと表情を崩し始める。
「その次の日からもう、アプローチに次ぐアプローチですよ。でもデートに誘っても、『自分はいい歳したおばさんなんだから放っておいて』って言われても諦めきれなくて……でも、諦めようとしたんですよ。一度」
「え?!」
「これ以上やって嫌われる方が、僕には大ダメージですし。でも最後に一度だけ……夕食に誘ったんです、その時に、ようやっと……」
「お母さんが……?」
「根負けしてくれたんでしょうね」
渋滞に阻まれながらも、車はいつの間にか駅についていた。
「あの、西野さん」
私はドアに手をかけながら、西野さんを真正面から見つめた。
「お母さん、意地っ張りだし素直じゃないところあるけれど……よろしくお願いします」
「大丈夫です、僕のできる限り……美雪さんと一緒に幸せになりますから」
その笑顔は、太陽のように輝いている。
――【一緒に幸せになる】。なぜだかその言葉が電車に乗っている間中ずっと頭から離れなかった。
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