夏 ~いとしい我が家~ ③
夕食後、お母さんにゆっくりするように伝え、今日は私が使った食器を洗っていく。食器に付いた泡を流していく、冷たい水がこのうだるような蒸し暑さにちょうど良かった。
「お母さん、終わったよ」
「ありがとう」
「いいよ、別に。明日仕事?」
看護師として働くお母さんに代わって、私がこの家に住んでいる間はよく台所に立っていた。今では、『私よりも上手』と母が言うくらい。
「うん、若い子と代わったの。ちょっとでもお盆帰りたいって」
「相変わらず、お人よし。大変だね」
「でも若い子は宝だから、丁重に扱わないとね。辞めちゃったら困るの私だし。それに、私も、お父さんが死んだばかり頃はそうやって代わってもらったし」
「うん」
「でも、桐子は昔からしっかりしてるから助かった。ちゃんと和三さんのお店でもバイト出来てるの?」
「できてるよ」
その叔父さんと言えば、居間で大の字になって寝ている。傍らには、ビールの缶が数本転がっていた。
「実家でもないくせにだらけちゃって」
「疲れてるんでしょう? いいじゃない、これくらい」
お母さんは叔父さんが泊っている部屋からタオルケットを一枚持ち出して、叔父さんの体が冷えないようにかけている。
私も冷蔵庫から酎ハイを取り出して、テーブルに肘をつくように座る。
缶に唇を当ててスマートフォンに届いている新しい通知を確認していると、お母さんは懐かしむように私に声をかけた。
「あんた、昔からクラゲ好きだったよね」
「……そうだっけ?」
「小っちゃい時水族館に行ったの覚えてない? まだ保育園行ってた頃」
「ちょっとだけ」
「あんた、クラゲの水槽見ながら何て言ったか覚えてる? ……『おいしそう』って言ったの」
「えー、本当に、そんなこと言った?」
お母さんは、まるで昨日の事を思い出したかのように笑っている。
「『わたあめみたい』って。そしたら、お父さんが『食べたことある』とかテキトウなこと言いだして……それ聞いたらあんた、『とうこも食べたい』ってダダこねてねぇ」
「全然覚えてないんだけど……それで、結局食べたの? クラゲ」
「クラゲ食べられるお店なんて知らないから、お父さんが、キクラゲをクラゲって嘘ついて食べさせてた」
「あ! それで!」
お母さんの話を聞いた私は、高校生の頃の恥ずかしかったエピソードを思い出す。
「私、キクラゲの事本当のクラゲの仲間だって信じてて……高校のときソレ話したら、友達にめちゃくちゃ笑われたんだからね」
「あら、悪い事したわ」
口先は謝っているが、少しも悪びれている様子はなかった。お母さんもビールの缶のタブを引く。中で辛抱強く溜まっていた空気が、軽やかな音と共に飛び出してくる。
お母さんから家族の昔話を聞いていると、まだお母さんの中でお父さんが息づいているのを感じる。そして、その愛情の深さも。
私はここまで……紀一郎さんのことを想っているのか不安になるくらい。
「……どうして、お母さんはお父さんと結婚しようと思ったの?」
「藪から棒に、何言ってるんだか」
私が口をつぐむと、お母さんは私の言葉を引き出す様に、『どうしたの?』と優しく問いかける。お母さんのこの言葉はいつだって魔法の呪文のようで、私は隠し事が出来ない。
「いや、なんかね、今、付き合ってる人が、何か……結婚、したがってるみたいで」
「あら、今時の大学生はずいぶん気が早いのね」
「ちがう。……ちがうの」
「何がちがうの?」
「私が今付き合ってる人ね……お父さんが死んだときより年上なの」
すぐそばで寝ている叔父さんがさっき言っていたような、『言葉を選ぶ』ということが出来なかった。
しん、と居間に流れる空気が張りつめる。
「……なんだか、ずいぶん年上なのね。それで、桐子はどうしたいの?」
「それが分かれば苦労しないよ。好きだけど、それより先に気持ちが動かないの、ちゃんと好きなのに」
「『ちゃんと』って何?」
どこを探しても言葉が見つからなくって、私は首を横に振るほかなかった。
「別に、桐子がその人のこと好きで好きでどうしようもないって言うなら、お母さんは反対はしないけれど」
「けど?」
「あんまり、今のあんたにこういう話はしたくないけどね。年上の人と一緒になるっていうことは他の誰よりも先に定年退職するし、誰よりも先に病気や介護っていう問題にも直面する。そして……確実に、桐子よりも先に死んでしまう」
「そうだね、うん」
「結婚するっていうことは、あんただけじゃなくって、その相手の人生に責任を負うことだから、ちゃんと考えないと」
「うん、分かってる……分かってるんだけどね」
「それにねぇ」
教科書に載っているようなことを流暢に話していたお母さんはそこで言葉を区切り、仏間を眺めた。
「先立たれるって言うのは、辛いからね。母親としては、あんたに私と同じような気持ちを味わってほしくはないね」
「……うん」
居間は、シンと静まり返った。なんて言おうか迷っていると、お母さんは静かに口を開く。
「それが分かってるなら、お母さんはその人と付き合ってるの反対しない。それ以上の事は桐子が考える事だから、口は挟まない。……先、お風呂入ってもいい?」
「うん、いいよ」
お母さんはテーブルに手をついて、掛け声とともに立ち上がる。それを見る度に、彼女も年を取ったのだと感じる。遺影の中のお父さんは若いままなのに。
その年月のギャップこそが、先立たれた者の痛みだということも、私は良く知っている。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
「ありがとう、もう少し、良く考えてみる」
「いいのよ。ゆっくり考えなさい、あんたには時間があるんだから」
私は曖昧に頷いた。
私に時間があっても、紀一郎さんに残されているそれは、私の物よりはるかに短い。
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