夏 ~デート~ ③
ホテルにチェックインの手続きをする紀一郎さんの背中に張り付くように、緊張した私は立っていた。少しでも気を抜くと、他の宿泊客が奇異の目で私たちを見るのではないだろうか?と怯えてしまう。
水族館に、ただ二人で行くだけだったら、いくらでも言い訳ができる。
しかし、二人でホテルにチェックインしているとなると、話は異なる。どこの誰がどんな見方をしたって、そこに思い浮かぶのは男女の関係だ。いい年のおじさんと、まだ若い大学生くらいの女の子。下世話な想像を思い立つのが、筋だ。だからこそ、私は息を潜めた。誰にも気づかれないように、最初からここにいないように。
そんな苦労を知らない紀一郎さんは、フロントからキーを受け取って、キーを持つ手と反対側の手で、私の手を取った。そして『7階ですって』とまるで子供のように笑うのだ。この顔を見ていると、今まで悩んでいたことが吹き飛んでしまいそうになった。
部屋を開けて、ベッドサイドに荷物を置き、一息つく。ダブルベッドに並んで座って、お互いに目を合わせて笑った。私はいつもより気恥ずかしさを感じて、いたたまれなくなって笑ったのだが、紀一郎さんはいつも通り優しく笑う。そして、お互いに近づいて、唇が軽く触れるだけのキスをした。
「……晩ごはん、どうしましょう?」
私が聞くと、紀一郎さんはまた唇同士を軽く合わせる。
「ホテルの周りに何かあると思いますけど」
私も、お返しだと言わんばかりに、紀一郎さんに唇を寄せた。
「行きましょうか? 少し早いですけど」
「そうしましょうか。でも待って、もう一度だけ……キスさせて」
もう一度キスをして、紀一郎さんは立ち上がる。そして私に手を差し出した。私は結局、その手を取ってしまうのだ。
ホテルの近くにあるイタリアンレストランに入って、ピザだのパスタだのを頼んで、二人で分け合った。今まで二人きりで外食をする機会もなかったせいか、気が大きくなったのか、二人ともワインを頼んだ。少し渋みのある赤ワインだったが、これがまたパスタに良く合った。紀一郎さんはそんな私を見ながら、また優しく微笑んでいた。
帰るときも、まだ手は繋がれたままだった。月がこうこうと人の少ない通りを照らしていた。酔っぱらったせいか、気が大きくなったままの私たちは、くだらない事を言いあいながら10歩くらい歩いてはキスをする、ということを繰り返した。
そのせいで、戻るのにホテルを出た時よりも倍の時間がかかってしまった。
私たちは唇をしっとりと湿らせたまま、部屋に戻る。
「桐子さん、シャワー使いますか?」
「えっと……ちょっと酔いを醒ましてからにします。紀一郎さんが先に使ってください」
「いいんですか?」
「はい」
紀一郎さんは、備え付けの浴衣とタオルと、持ってきていた洗面道具を持ってシャワールームに入っていく。一人きりになった私はベッドに座り、テレビを付けて、チャンネルを回していった。
程なくして、シャワーの流れる音が聞こえてきた。その音を聞いていると、テレビの中の喧騒が嫌になってしまい、電源を消した。
一人になった部屋に、シャワーの水音だけが響く。紀一郎さんの部屋にいると、こんな風にシャワーの音は聞こえてこない分、新鮮だった。
私は鞄の中から、紀一郎さんがくれたクラゲのストラップを取り出して、スマートフォンケースに付けた。クラゲはまるで本物の様にゆらゆらと触れている。
スマートフォンを胸に置いて、シャワーの音に耳を澄ませながら、目をつぶる。
私は、二人で行った海を思い出していた。優しく私たちを撫でる、波を思い出していた。その波に体を横たわらせて、私もクラゲの様に揺れていた。
「桐子さん」
少し眠ってしまっていたらしい。いつの間にかシャワーから上がって髪の毛も乾かしていた紀一郎さんが、私の頭を撫でている。
「疲れました?」
「……いいえ」
「シャワー、どうぞ」
「はい」
私はゆっくりと、シャワールームに向かっていく。先ほどまで紀一郎さんが使っていたそこは、むっと蒸していて、シャンプーの甘い香りが広がっていた。
排水溝に、紀一郎さんの髪の毛が引っかかって残っている。私がシャワーを使っていると、まるで名残惜しむように流れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。