夏 ~デート~

夏 ~デート~ ①



 強い太陽の光がネックレスにあたり、キラキラと反射している。


 紀一郎さんの車の助手席に乗り込んで、彼に言われるよりも先にシートベルトをした。紀一郎さんと、車に乗ってまで出かけるのなんてとても久しぶり、運転席に座る紀一郎さんの真剣な眼差しを最後に見たのも随分前だから新鮮だった。


 大学は、長い夏休みに入った。


 私は試験もレポートも全て終わらせたあと、紀一郎さんもしっかりと担当している科目の成績評価も終わらせた。試験問題を解いた後の私よりも、学生全員の成績を付け終わった紀一郎さんの方が疲れているように見えて私は少し苦笑していた。


 誕生日を祝ってもらったあの日、夏休みにどこかに行こうと約束をしていたけれど……正直言ってそこまで期待はしていなかった。しかし、つい二日前、紀一郎さんはとても楽しげに、『桐子さん』と私の真正面に立って、『デートに行きましょう』と囁いた。


 遠出になるということを聞いたのは、その時だった。



「調べたら……前、桐子さんの誕生日の日、出張で行ったところにあったんです」


「何がですか?」


「水族館。行くって約束したじゃないですか」



 私はその約束を頭の中で反芻して、頷いた。よもや、期待をしていなかったなど言えない。紀一郎さんは満足げに笑いながら、私の頭を撫でた。



「ちょっと遠いから、泊まりで」


「泊まり?」


「ええ。こうやって、桐子さんが僕の家に泊まって行くことも僕が桐子さんの家に泊まることもたくさんあったけれど、今まで違う所に二人で泊まったことないじゃないですか」


「そうですね、そうですけど……」


「いい機会だから。行きましょうよ、桐子さん」



 紀一郎さんは、時に非常に強引になる。有無を言わせぬ強情な空気を纏い、私の手を引いてその胸に収めた。呼吸をすると、紀一郎さんの香りが麻酔薬のように私の体に入り込んで思考を麻痺させていく。私は、頷くほかなかった。


 そこから、バタバタと準備をした。一泊分の荷物を大きめのカバンに押し込んで、それを抱えて紀一郎さんのマンションに向かった。すでに、紀一郎さんは準備万端だった。



「おはよう、桐子さん」


「おはようございます、紀一郎さん」


「荷物、後ろに……出来ますか?」


「ええ、大丈夫です」



 車のトランクを開けると、紀一郎さんの小さ目の荷物もあった。私は隣に並べるように置いた。

 カーナビの指示通りに、紀一郎さんは水族館に向かう。夏休み真っ只中のそこは、家族連れで込み合っていた。



「桐子さんが、クラゲをそんなに好きだとは思いませんでした」



 イルカたちの華麗なショーや小さな子どものように歩くペンギン、数々の魚を押しのけて優雅に泳ぐエイ。それらよりも私の目を引いたのは、雲の様に漂うクラゲの群れだった。


 無数のミズクラゲが揺れる水槽をまじまじと見ていたら、紀一郎さんが私にそう声をかける。振り返ると、紀一郎さんはまじまじと、クラゲではなく私を見ていた。



「子どものころは、そんなに好きじゃなかったんですけど」


「うん」


「この年で見ると、ふわふわ気持ちよさそうで。なんだか羨ましい」


「僕よりずっと若いくせに、年よりめいたことを言うんだから。それにしても、水族館なんて久しぶりだ」


「紀一郎さんでも、来ることあったんですか?」


「それこそ、もう君の人生くらいこんな所に来ていなですね。桐子さんは?」


「ふふ……、私も、もう10年以上も前ですね」



 10年前の私に、思いを馳せる。もうぼんやりとした霞の中にある記憶を思い出すのは、少し時間がかかりそうだ。



「ご家族と?」


「……はい。紀一郎さんは誰と来たんですか?」


「え?」


「20年くらい前、誰と来たんですか?」



 紀一郎さんは、私の隣に立つ。



「……桐子さんが知らない人」


「嫌な言い方。その時の彼女?」


「気になる?」


「はい。紀一郎さんのことだったら、何だって」


「……ねえ、桐子さん。分かってます?それ、相当な殺し文句ですよ」



 紀一郎さんは恥ずかしそうに笑った。私も、心底恥ずかしい。でも、これが私の本心だった。紀一郎さんの過去が欲しい、私にすべて教えて欲しい。これは一種の執着だ。好きという気持ちは、ありとあらゆる方向に散らばっていく。


 紀一郎さんはそっぽを向いて口を噤んだ、そして、案内板を指さす。



「桐子さん、売店ですって。見に行きませんか?」


「はい」



 紀一郎さんは話を逸らしたかったのか、出口に向かって歩き出す。私もその背中を追い、その隣を歩いた。まだ苦々しく笑っている紀一郎さんの手に、私の手が触れた。


 そして、どちらからもなく、掌同士を合わせるように私たちは手を繋いだ。

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