夏 ~Re:Happy Birth Day ~ ⑦


◆◆◆


 担当職員から配布されたプレゼミ生のリストを、一人ひとり確認していく。もちろん自分の欄には桐子さんの名前はなかった。周りの誰にも気づかれないように僕は肩を落とすが、もうどうしようもない。僕に、学生としての桐子さんを囲い続ける権利は、ない。


 今日の学科の会議はプレゼミ資料の配布と、定期試験の注意事項だけで終わった。他に目立った問題もなく、いたって平和なものである。それに、僕は初夏の暑さに負けて上の空になっていたから早めに終わってとても助かった。


 夏の日差しが日増しに強くなってきた。

 学生にとっても教員にとっても気の重い試験が終われば、夏休みだ。学生たちは心待ちにしているだろう。桐子さんも、楽しみにしているかもしれない。


 暇を見つけて、遠出に誘ってみようか。彼女は一体、どんな顔をするだろう?



「志麻先生、なんだか嬉しそうですね」


「……戸崎先生、そんな風に見えますか?」


「ええ、ええ。志麻先生はいつも楽しそうだけど、特に最近はねえ」



 戸崎先生。桐子さんのゼミ担当となる彼女はあと数年で退職を迎える、とても温厚な女性の教授だ。



「何か良い事でもありました?」


「いいえ、ああ、でもこれからあるかもしれません」


「それは良かった。そうだ、志麻先生、ひとつ聞きたいこともありまして」



 戸崎先生は、鞄からファイルを取り出して先ほどの名簿を僕に見せる。



「彼女、先生の基礎ゼミでしたよね?」


「ああ、若村さん?」


「ええ」



 戸崎先生の指先には、桐子さんの名前があった。



「彼女、あまりお話したことがなくってねぇ。授業の課題を見るくらいで、どんな子なのかしら?」


「良い子ですよ」


「良い子?」


「はい。とても真面目で、成績もいい方ですし。戸崎先生が心配するようなこともないと思いますよ」



 当たり障りのない事を戸崎先生に伝えると、戸崎先生は頬に手を当てて、少しだけ首を傾げた。



「そうですか?」



 戸崎先生は、そこで言葉を止める。僕が『何かありました?』と聞くと、戸崎先生は首を振った。



「あまり気になさらないで。大したことじゃないの」


「そこまで言われると、少し気になりますけど。彼女、もう僕の担当じゃないですからねぇ……どうぞ、よろしくお願いしますね」


「ええ」



 分かれ道に入った時、僕と戸崎先生は別れた。僕の胸には、何かもやもやとしたものが引っかかっていたままだ。


 その晩、僕は桐子さんのアルバイト先でもある和三さんのバーへ向かった。和三さんがここで店を開くよりずっと前から、この場所にはバーがある。僕はその頃からずっと通っていて、もうここに来るのが習慣みたいになっていた。

しかし、桐子さんが現れて彼女との交際が始まってからは違う。来るときはいつも、帰りが遅くなる彼女を心配して迎えに来るついで、だ。


 狭い階段を下り、黒く重たいドアを開ける。

 ドアに付けられた小さな鈴の音が響いて、カウンターに立っていた男性が軽く頭を下げた。彼が、桐子さんの叔父・和三さんだ。


 手前に座るカップルの密やかな話が耳に入るが、いつものあの姿がどこを見ても見つけられなかった。



「……あの、桐子さんは?」



 そう聞くと、和三さんは奥にあるキッチンを指さした。桐子さんは裏方仕事についている、ということだ。



「志麻さん、今日は何にされます?」


「……ジントニックで」


「かしこまりました」



 最も壁際の席に座る。和三さんは小さな冷蔵庫からトニックウォーターを取り出していた。ふと、目線をカップルに向ける。年の頃合は二人とも20代後半くらいか、二人の首から下がる揃いのネックレスが仲睦まじさを物語っていた。


 和三さんがコースターとグラスを置いた時、ふっと店の照明が暗くなった。そして静かにゆったりとした曲調の『HAPPY BIRTHDAY』が流れてきた。

 目の前を、パチパチと爆ぜる小さな花火が通っていく。それを持っていたのは、桐子さんだった。両の掌よりも大きいプレートをまるで宝物を運ぶように慎重に、そして、ゆっくり音も立てずにカップルの女性の前に置いた。


 そして、また照明は元に戻る。これから先の儀式は、二人に任せるということだ。



「紀一郎さん、今日は早いですね」



 桐子さんは二人の空気を壊さないよう、努めて小声で僕に話しかける。花火の光に当てられた桐子さんはよりは、今の薄暗い照明の下にいる桐子さんの方が僕は好きだった。



「暇だったもので、つい」


「いいえ……バイト、もうすぐ終わりますので待っていて下さい」



 僕は頷いて、もう一度カップルを見た。

 正確には、揺れる二つのネックレスを見た。桐子さんが僕に釣られてあの二人を見た時、慌てて視線を逸らす。そして、決して「それ」を見ていた事を気取られないように、グラスに唇を当てた。


 桐子さんの唇はいつだって柔らかい事を思い出しながら、炭酸が口の中でパチパチと弾けているのを感じていた。


 彼らが身に着けていたネックレスが脳裏に残像として焼き付いていたのか、僕は休日を利用して少し離れたデパートまで来ていた。デパートの一階は、どれだけ時代が変わっても、アクセサリー売り場のままだった。ここまでは、まだ20代のころの記憶がある。


 問題はそこから先だ。もうすぐ誕生日を迎える桐子さんにどのようなプレゼントを選ぶか、非常に重大な問題である。


 女性と真剣にお付き合いするという行為から逃げだして、もう何年たっただろうか。僕の心にはまだ、【彼女】のことが染みのようにこびりついている。

 僕が追うと、彼女は逃げる。逃げ出してしまった彼女の心を追いかけることも出来なくなった僕は、そこに立ち止まるしかない。もはや、それはイタチごっこですらなくなっていた。それを繰り返しているうちに、僕の心は虚無感で満ちていった。


 不要な荷物を増やすぐらいなら、もう人を好きになるということは物語の中だけにしてしまおう。


 そうやって封をした箱を開けたのは、桐子さんだった。



「何かお探しですか?」


「え? ……ああ」



 事前にリサーチしていた、女子大生くらいの女の子に人気のブランドショップのショーケースを見ていたら、販売員の女性が声をかけてきた。柔らかく施されている化粧の仕方が、どことなく桐子さんに似ている。



「プレゼントを。誕生日の」


「はい、どのようなものでご検討されてますか?」



 僕は顎に手を添えて考える。


 きっと、指輪だったら、喜んでくれるだろうとは思う。

 ただ、その指輪を僕が彼女の左手薬指にはめようものなら、彼女の体は石のように固くなるだろう。


 僕と桐子さんの間に、将来のことに関して、少しだけ齟齬が生まれていることには、きちんと気づいている。

 でも、僕はわざと気づかないふりだ。下手を打つと、『また』彼女は去っていくだろう。


 それに、第一、僕は桐子さんの指のサイズを知らないのだ。その旨を販売員の女性に伝えると、くすりと笑った。



「それでは、ネックレスはいかがですか?」


「はあ……」



 ショーケースの中から、いくつかのネックレスを見繕ってもらった。



「いかがでしょう? 何かイメージとかありますか?」


「イメージ? ……相手が、20代前半なんですけど……これが人気というものはありますか?」



 今度は、目の前の女性が顎に手を置いて悩みはじめた。

 こんなおじさんが、『20代前半の女性』に宛てたプレゼントを買いに来るとはつゆほどにも思わなかったのではないだろうか?



「ピンクゴールドのものは、やはり人気ですね」



 ゴールドやシルバーのものをケースに戻して、その『ピンクゴールド』のものが数点目の前に置かれる。



「肌なじみもいいですし」


「はあ……」



 頷くことしかできなかったが、そう言われて、僕と目と手のひらが、桐子さんの肌を思い出した。


 白くて、うっすら青い血管が薄く見える、柔らかい桐子さんの肌を。


 そんなことを考えながら、ネックレスを一つ手に取る。



「……これ」



「かわいいですよね、しずく型モチーフも根強い人気でして、そちらのネックレスは少し短めでして……鎖骨のあたりから、少し上のあたりにモチーフが来る形になってます。モチーフも存在感はあまり強くないですし、ファッションも選ばないので、普段使いはしやすい部類ですね」



「はあ……」



 これなら、桐子さんがどんな服を着ていても、その首にキラキラと輝くだろう。

彼女は、僕のものだ――声を潜めながらでも、そう主張できる。さしずめ、ペットに付ける首輪のような物だ。


 こんなとき、自分の嫉妬心の深さを恐ろしく思う。



「それなら、これにします」


「かしこまりました、ありがとうございます」



 販売員の彼女は、手早く会計とラッピングを済まして、小さな紙袋を僕に渡す。



「素敵なお誕生日を過ごしてください」



 そして最後に、そんな言葉を付け足した。


 その誕生日を、共に過ごせない事の罪悪感だけが僕の中で強く根を張っている。

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