夏 ~Re:Happy Birth Day ~ ⑥
◇◇◇
学校では、ちゃんと笑顔を作れた。しかし、自宅に戻ると顔に笑顔を貼り付けることは面倒くさくなってしまう。
ベッドに転がって、エリサがくれた紅茶セットを抱きしめる。この紅茶を淹れたら、紀一郎さんはどんな顔をして飲むだろう? 瞼の裏に彼の表情を思い描くが、霞がかかってよく見えない。
こんな事なら、バイト入れておけばよかった。たぶん、紀一郎さんの家に行くか、紀一郎さんがうちに来るかの二択だと思い込んでいたから、時間を十分に作ろうとシフトを断ったのに。
誕生日を迎えることがこんなに楽しみだったのは、もう何年振りだろう?
もちろん、年を重ねるのが嬉しいわけではない。紀一郎さんが、私を祝ってくれるのが嬉しいからだ。この日を、唯一無二の記念日にしてくれるのは紀一郎さんが私の目の前で、微笑んでいてくれている。それが、嬉しくて嬉しくって仕方がない。
大きく息を吐いた。いつまでもベッドでうじうじしている場合ではない、起き上がって台所に向かって晩御飯でも作ろう。
その前に、もう一度ぎゅっと目を閉じる……部屋の静けさを感じた時、鞄に入れっぱなしの携帯が鳴っていることに気付いた。慌てて取り出し、画面を確認する。
紀一郎さんだ、紀一郎さんからの着信だ。
「……もしもし、桐子さん?こんばんは」
機械越しに聞こえる紀一郎さんの声も、私は好きだった。私は深呼吸してから、口を開く。
「こんばんは」
「誕生日おめでとうございます、桐子さん」
「ありがとうございます、紀一郎さん。……紀一郎さんのお仕事、どうでした?」
「んー、首尾は上々といったところでしょうか」
電話の向こうの紀一郎さんは笑っている。その声を聞いた私の口角も、ほんの少しだけ上がる。
「会いたいなあ、桐子さんに」
紀一郎さんの甘い声が、私の鼓膜をくすぐった。体中がむずむずとこそばゆくなる。
「……そうですか?」
それを気取られないように、私はわざと紀一郎さんの『おねだり』を受け流した。
「そうですよ。相変わらず桐子さんはドライなんだから。明日には帰ります、夕方になるかな?」
「分かりました」
「桐子さん、明日はバイト?」
「……いいえ、明日は何もないんです」
正確に言えば、『明日も』だ。
「良かった。だったら、授業が終わったら、僕の家に来てください。……まだ帰ってないかもしれないけど、先に上がっていても構いませんので」
「……はい」
「明日、ちゃんとお祝いしますから」
「はい」
「それじゃ、また明日、桐子さん」
「はい。……あの、紀一郎さん」
「ん?」
「……例えバイトあっても、私、明日休みますから」
私はそう言って通話を切る。
耳から伝わった紀一郎さんの声が、じわじわと心の中心に降りてきて……体中がほんのりと温かくなるのを感じていた。
翌日、授業がすべて終わった私は一度自宅に帰る。教科書を入れている大学用のカバンではなく、小さめなショルダーバッグとエリサからもらった紅茶のセットを持って紀一郎さんの自宅に向かった。エントランスでエレベーターを待っていると、駐車場側の出入り口から「あ」という聞きなれた声が聞こえる。振り返ると、紀一郎さんがそこにいた。
目が合うと、紀一郎さんは噴き出す様に笑う。今まで溜め込んでいたものを全て外に吐き出すような笑い方だった。
「おかえりなさい、紀一郎さん」
「ただいま、21歳の桐子さん」
「ふふふ。何だか改めてそう言われるとくすぐったいです」
「ちゃんとお土産、買ってありますから」
「ふふ、ありがとうございます」
エレベーターに乗り込み、私は紀一郎さんの部屋がある7階のボタンを押す。もちろん、紀一郎さんは「ラッキーセブンです」と言うのを欠かさない。紀一郎さんの両手は荷物で塞がっているため、私が代わりにカギを開け、先に紀一郎さんを通した。リビングに荷物を置いて、彼はやれやれといった様子で大きく息をついた。
「有名なお店があって、そこでバウムクーヘン買いました、一緒に食べませんか?」
紀一郎さんはカバンの中から少しクシャッとなった紙袋を取り出した。
「ええ、あ、それならお茶淹れますね」
私は早速エリサからもらった紅茶のセットを開ける。色んなフレーバーがあって、目移りしそうだ。
「紀一郎さん、どれがいいですか?」
「そうだ、バウムクーヘンよりも先に……肝心なものを忘れていた」
紀一郎さんは私の肩を抱いて、くるりと自分の方を向かせる。
「な、なんですか?」
「はい、プレゼントです」
紀一郎さんの手には、細長い箱が握られていた。小刻みに震える手で私がそれを受け取ると、紀一郎さんはその箱ごと私の手を包み込んだ。少し冷たくなっていた手が、あっという間に熱くなっていく。
「……嬉しいです」
ポツリとそう呟くと、紀一郎さんも嬉しそうに笑みを浮かべる。
「良かった。早く開けてみてください」
箱を裏返して、慎重に包装紙をはがしていく。中身だけじゃなくって、この少し大きめな紙ですら愛しい。私はそれを丁寧に畳んでから、そっと箱を開けた。
「ネックレス、ですか?」
ピンクゴールドの細身のネックレス、中心には雫型のモチーフがゆらゆらと煌めいている。指先でそっと摘まみ持ち上げると、チェーンが少し短めな事に気づく。これなら、どんな服を着ていても良く見える。
「……かわいい」
その小さなつぶやきを、私が何を言うかそわそわと待っていた紀一郎さんの耳にもすぐ届いた。
「女性にそんなものプレゼントするのも久しぶりなもので、悩みました」
「もう、いつ以来なんですか?」
「桐子さんがまだ制服を着ていたころかなあ?」
冗談めかしてそんな事を言う紀一郎さんに、少し呆れる。こんなお茶目な一面を見た時、彼が私と同い年なんじゃないかって時折錯覚してしまう。
「お店の人は、どんな服にも合うと思うって言っていたので、ぜひとも普段使いでもしてください」
「ありがとうございます」
「それ、つけてあげましょうか?」
「いいんですか?それじゃあ、お願いします」
ネックレスを紀一郎さんに渡して、私は後ろを向く。うなじにかかる髪をかきあげて、彼がつけやすいように首を見せた。紀一郎さんはこんな時でもいたずら心をのぞかせて、うなじに軽く唇を落とした。
「もう! ふざけないでください」
「はい、まじめにやります」
ピンクゴールドのネックレス、金具がとても冷たい。紀一郎さんはとても器用に、私の首にネックレスを通して先ほど口付けた所の真下で金具をとめる。……私以外の誰かにも同じことをしていたのだろうと考えてしまうくらいスムーズに。紀一郎さんは私の肩をポンッと手を置いて、『はい、できました』と声をかけた。
「鏡見てきてもいいです?」
「どうぞ」
私はパタパタと軽い足音を立てて洗面所に向かう。鎖骨の少し上に、しずく型が揺れる。私が鏡を覗き込むようにまじまじと見ていると、紀一郎さんの姿がそこに映った。
「気に入ってもらえたようで良かったです」
紀一郎さんは、まるで縋り付くように背中から私を抱きしめた。一日離れただけなのに、この腕が恋しくて仕方がない。私がそっと手を重ねるとそれが紀一郎さんに伝わったのか、抱きしめる力が強くなる。
「毎日つけます」
「ぜひ、そうしてください」
紀一郎さんは私の耳に口づけをする、それがくすぐったくて、鏡に映る私は笑っていた。
「そうだ。桐子さん、夏休みに何か用事あります?」
ネックレスを付けたまま、私たちはバウムクーヘンと紅茶を楽しんでいた。紀一郎さんはふと思いついたように声をあげる。
「夏休みですか?」
「去年の夏は、バイトばっかりしてたなってふと思い出して。今年はどうなんですか?」
「まあ、今年もそんなに変わらないですけど。……でも、お盆の時期は実家に帰ります」
「そうですね、それくらいしないと親不孝だ」
「……そうですね」
少し先だけれど、お盆の事を考えると憂鬱になってしまう私がいる。紀一郎さんにバレないように、私はそっと息を吐く。
「ねえ、桐子さん。どこか行きません? 夏休み」
「え?」
思ってみもしなかった誘いに、どきんと心臓が揺れる。
「どこか……誰か知ってる人がいないようなところだったら、僕たちでもデートできると思うんですけど」
「そうでしょうか?」
「どこか行きたいところ、ないですか?」
「……行きたいところ?」
「そう、桐子さんの行きたいところ」
紀一郎さんと行きたいところ、突然そんなこと言われても何も思いつかない。そもしも、紀一郎さんとデートができるなんて今まで考えたことなかった。
「……水族館」
私は絞り出すように、小さく呟く。
「水族館?」
「もう、ずっと行ってないから……行けるなら、行ってみたいです」
真正面に座る紀一郎さんを見ると、ニコニコと楽しそうに微笑んでいる。私も釣られるように小さく笑う。
「それじゃ、水族館行きましょうか。二人で」
「……紀一郎さん、なんだか嬉しそうですね」
「そう見えますか?」
「はい」
「そりゃ、嬉しいですよ。桐子さんとデートできるなんて」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。