夏 ~Re:Happy Birth Day ~ ④


◇◇◇



「あれ? トーコ、志麻ゼミじゃないの?」


「ん?」



 机から顔を上げると、目を丸くさせたエリサが立っていた。エリサのまん丸の視線の先には、私が書いていたプレゼミ申請書があった。


 私が所属する学科には、まず入学したときすぐ、『基礎ゼミナール』という半期の必修科目がある。ゼミナールと名前こそついてはいるが、要は『担任の先生中心に、みんなで仲良くなりましょう』という大学側の配慮だ。


 もちろん、勉強らしいことは一応やった。百人一首大会とか。


 進級して、2年次の後期からは『プレゼミナール』が始まる。3年の専門ゼミに先立ち、教員と学生、専攻のミスマッチを防ぐためのいわゆる『お試し期間』だ。プレゼミ期間で担当教員を変えることもできるから、もし先生との相性が悪くても問題はない。


 このプレゼミが、よっぽどのことがない限り、卒業まで所属するゼミとなる。



「……何で?」


「基礎ゼミのとき、トーコも志麻っちだったから・・・結構、基礎ゼミから変えない人多いじゃん。だからてっきり」


「エリサは? 誰ゼミ行くの?」


「もち、志麻っちゼミ。緩そうじゃん」


「私も、志麻先生のゼミでもいいかなって思ったんだけど、私のやりたい事とと先生の専攻って違うし」


「あー……トーコって、なんと言うか……百人一首オタだもんね」


「その、『オタ』っていうのやめて」


「ごめんごめん! そっか、トーコとはゼミ違うのか。楽が出来なくなるなあ」


「そうやってすぐ人を当てにするんだから」



 エリサはケラケラと笑う。そして、とても優しく微笑んだ。私はその笑顔を見て、ドキッと後ろめたさを感じていた。まるで、心の中に貯めた後ろ暗い事を透かして見ている様な目だったからだ。



「私さ、一年の時、トーコ、もしかして志麻っちの事好きなんじゃないかって思ってて」


「……志麻先生の、事?」



 指先が、少しずつ冷たくなっていく。私と紀一郎さんの秘密がばれないように、私は震える声を懸命に押しとどめた。

 大丈夫、彼女の口ぶりでは……私たちの事に気づいてはいない。



「うん、なんか志麻っち見てるトーコが可愛くてさあ~。好きなのかなーって思って……それで、私トーコに声かけたんだよ」


「……もしかして、最初の講義のとき?」


「うん」


「そんなことがきっかけで、私と友達になったの?」


「そうじゃなきゃ声かけないよ、あんな面白くなさそうなツンケン女」



 楽しそうなエリサを尻目に、私は頭を抱えていた。そんなころから、私の紀一郎さんへの好意はダダ漏れだったみたいだ。これからはきちんと気を引き締めて、栓をきっちり締めなければいけない。



「ねーねー、ツンケン女」


「それ、やめてくれない?」


「提出しに行くんだよね、申請書」


「うん、そうだけど」


「ついでに私のも出してきてもらっていい?」


「……すぐ人任せにする」



 エリサは鞄から四つ折りにした申請用紙を私に手渡す。私は少し苦笑いをして、それを受け取った。



 教務課のレポートボックスに、私とエリサ、二人分の申請用紙をポイっと投函した。底を覗き見ると、数枚の申請用紙が入っているだけ。出足はとてもゆっくりなようだ。


 時計を確認すると、次の講義まで時間があった。空き時間をどう過ごそうか……そんなこと迷うまでもなく、私の足は自然と図書館に向かっていた。



「若村さん」


「え……、し、志麻先生?」


「『お久しぶり』です、元気でしたか?」



 その言葉が何とも白々しく聞こえてくる。私も紀一郎さんも、顔を見合わせて苦々しく笑った。



「……プレゼミの申請書、ですか?」


「はい。私と友人の分です」


「若村さんは、どなたのゼミにするんですか?」


「戸崎先生のゼミです」



 その名前を口にした時、紀一郎さんは少しだけ眉を寄せ、不快そうな顔をした。それは、口から発せられる言葉にも滲んでいる。


「戸崎先生? ……僕の所じゃなくて?」


「はい、そうですけど」



 紀一郎さん――『志麻先生』の専攻は『近現代日本文学』。


 私が学びたいのはそれよりもずっとずっと昔の『中古文学』辺りだ。それを専門に研究しているのは、この大学では戸崎先生だけ。それを志麻先生はよく知っているはずなのに、非常にショック受けたような表情をしている。



「……ほら、若村さん、基礎ゼミ僕の所だったから、てっきり」


「でも、私の友達で……基礎ゼミ一緒だった広瀬さんは先生の所ですよ」


「ああ、君と仲良しの?」



 あからさまに肩を落とす『志麻先生』に、いくらどんな言葉をかけても焼け石に水なようだった。



「でも、君が一番やりたいと思う事が出来るのが一番ですしね」


「……はい」



 志麻先生は、キョロキョロとあたりを見渡した。講義真っ只中の廊下は閑散としていて、人っ子一人いない。『志麻先生』――紀一郎さんは、ぐっと私に近寄って、耳元に口を寄せた。



「……戸崎先生は女性なので、安心できます」


「え?」


「男の先生だったら、僕、嫉妬しちゃいますので」



 耳に触れる紀一郎さんの吐息が、ほんのりと甘く感じた。私の頬が染まっていくのを見ながら、紀一郎さんは満足そうに笑った。



「若村さん、今日はアルバイトの日でしたっけ?」


「いいえ、ちがいますけど……」


「そうですか、試験も近いですし、寄り道せず早く帰ってくださいね」


「はい。あの、先生は今日何講までですか?」


「残念、今日は5講目まであるんですよ」



 紀一郎さんの落ちていた肩が少しずつ元の位置に戻っていく。

 私はそれを見て、『失礼します』と軽く頭を下げた。志麻先生も、倣うように小さく頭を下げる。


 遠回しに、紀一郎さんは『7時過ぎには、家に帰ってますよ』ということを伝えたかったのだろうか? もし彼の真意がそうじゃなくても、私はどうしても、彼の言葉を自分の都合のいいように受け取ってしまう。



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