夏 ~Re:Happy Birth Day ~ ②
◇◇◇
「今日、志麻さんは? 来るの?」
「わからない、連絡来てないから」
グラスを磨いていると背後から叔父さんが近づいてきた。平日の夜はお客さんはもともと客足は少ないが、今日は特にお客さんが来ない。誰も座らないバーカウンターに向かっているより、姪が磨いているグラスがきれいになっているか確かめていた方が叔父さんにとってはいい時間の使い道かもしれない。
「仲良くやってるのか?」
「うん、まぁ」
「大学は? 楽しくやってるのか?」
「まあ、それなりには。課題が今多くて、それが大変」
「それなら、もう帰ってもいいぞ」
暇を持て余した叔父さんは大きな欠伸をする。私に配慮しているというよりは、余計な給料を増やしたくないようにも思える。
私と紀一郎さんが付き合うと聞いて、叔父さんが一番心配したのはその年の差だった。20歳離れていることは、ありとあらゆることへのハードルに繋がる。話が合うかとか、紀一郎さんの健康についてとか。以来、叔父さんは紀一郎さんが来てもあまり度数の高いお酒は出さないようになった。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
「おう、帰れ帰れ。バイトが原因でトーコのこと留年でもさせたら、義姉さんに悪いからな」
「もう!」
私は腰に巻いていたエプロンを取って、へらへらと意地悪そうに笑っている叔父さんに押し付けた。
早速家に帰った私は、すぐにパソコンを立ち上げる。カバンの中身をすべて出し、大学で借りてきた本や授業の資料を並べてディスプレイとにらめっこする。
時刻はそろそろ夜の10時を回る。
紀一郎さんからの連絡が来なくて、特に予定もない夜は大抵一人で過ごしている。その多くの時間は読書をしているが、学期末も近づいてきたことも相まって……授業の課題レポートばかりをこなす。
授業のレポートばかり、といってもこれが最後。あとは、いくつかの試験を終えた後すぐに夏休みだ。予定は特にない、お盆になったら実家に帰省するくらい。あとは、友達と遊んだり、本を読んだり、アルバイトをしながら過ごす。
そしてたまに、紀一郎さんに会うのだろう。
集中力がすっと途切れると、すぐに紀一郎さんの事を思い出してしまう。紀一郎さんの暖かな掌とか、柔らかな言葉とか、火がついたみたいに熱い唇とか。
私は右手の指先で、唇に触れる。
グロスも何もつけていない唇は、少しかさついている。これに紀一郎さんの唇がくっつくたびに、次第に湿り気が増して私は溶けていってしまうのだ。
頭を振って、その中から紀一郎さんを追い出した。ひとつでもレポートの文字数を稼ぐために、キーボードを叩く。
調子が乗り始めた時に、チャイムが鳴った。
ハッと顔をあげて、私は慌てて玄関に向かう。こんな時間に私の部屋を尋ねる人なんて、この世界に一人っきり。ドアのレンズを覗くと、丸く切り取られた紀一郎さんがそこに立っていた。
「……こんばんは、桐子さん」
慌ててドアを開けると、拍子抜けするぐらい柔らかな声で紀一郎さんが言った。
「こんばんは……急なので、びっくりしました」
「すいません、時間が空いたので、つい」
私は紀一郎さんの頭のてっぺんから足先まで線をなぞるように見る。髪の毛はくしゃくしゃで息は絶え絶え、少し急いで来たんだろうと想像できた。
時間が少しでもできたら、この人はすぐに私に会おうとしてくれる。そこまで、私を好いてくれている。自惚れではなく、地球が回っている事と同じくらいの『事実』だ。
「あの、桐子さん。上がってもいいですか?」
「へ?」
「早く入れてくれないと、誰かに見られてしまうかも」
「そ、そうですね、どうぞ」
「失礼します」
紀一郎さんは玄関で靴を脱いで、綺麗に揃えた。紀一郎さんは、何事においても几帳面だ。そんな紀一郎さんは、私の部屋を見てポツリと呟いた。
「もしかして、お邪魔でした?」
「あ……すいません、汚くて」
「いえ、都合の悪いようなら帰りますよ? 僕は桐子さんの顔が見たかっただけなので」
「大丈夫です、レポートも、まだ締め切りまでありますし……」
嘘。私は彼と過ごすためならいとも簡単に嘘をつく。
「コーヒーでも淹れましょうか?」
「いいんですか?」
「私も休憩したかったので、大丈夫です」
そのまま私はキッチンに立つ。ワンルームの私の部屋だと、キッチンはどこからでも丸見えだ。私から彼の姿が見えていなくても、私の一挙手一投足を紀一郎さんがまじまじと観察している事が分かった。
恥ずかしいけど、少しうれしい。
しかし、その視線がふっと無くなる。それが気になってしまった私は、くるりと振り返る。
「あ」
鞄の中身をごっそり丸ごと出していた私の失態だ。
エリサから貰ったばかりのアクセサリーのパンフレットを、紀一郎さんは読書よりも速いスピードでページをめくっていた。私は紀一郎さんの所に素早く歩み寄った。こんな狭い部屋、たった数歩歩くだけですぐにたどりつく。
「ちょっと、待ってください!」
「うわっ!」
パンフレットは何とか奪うことができた。でも、勢い余って、紀一郎さんごと床に倒れてしまう。
「ち、違いますからね!」
「違う?」
「私がもらってきたんじゃなくて、その、友達がくれただけで……」
その後の言葉が上手くつなげられなかった。下手に取り繕うと、エリサの指輪が羨ましかったことが漏れて溢れてしまいそうになる。
「桐子さん」
紀一郎さんは優しい。ゆっくりと起き上がった紀一郎さんは脚の間に私を入れて、そのまま引き寄せた。私の耳はぴったり紀一郎さんの胸にくっつく。
「桐子さんは、こういうの欲しいですか?」
「……」
「桐子さんも、今時の若い女の子だから。欲しくてもおかしくはないですよ、むしろそれが普通です」
「……はい」
「ええ、僕は君が学生でいる間は、君を周りの醜聞から守る義務があります」
「……はい」
「桐子さんは誰よりも賢いから、すぐに理解してくれる」
よしよし、と紀一郎さんは私の背中を撫でた。
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