春 ~”I love you”の訳し方~ ④


 エリサから三竹くんのレポートを預かった私は、教室で彼女と別れ……そのまま紀一郎さんの研究室に向かう。第一研究棟の6階、615号室。「志麻 紀一郎」とプレートが掲げられた研究室のドアの前に立ち、ノックをした。


 しかし、ドアの向こうはうんともすんとも、物音ひとつしない。紀一郎さんはまだここに戻っていないかもしれない。さすがの私でも研究室の合鍵は持っていない、途方に暮れながら……物は試しとドアノブを回してみた。すると、ドアノブは鍵に引っかかることゆっくり回った。私は「失礼します」と小声で付け加えて、そっとドアを開ける。


 一歩足を踏み入れた時、グッと腕を掴まれた私は、強い力で部屋の中に引き込まれた。そのまま私はドアに体を押し付けられる、そのはずみでドアも大きな音を立てながら閉まった。驚いたまま見上げると、とても嬉しそうに笑う紀一郎さんがいた。



「し、志麻先生……?」



 私がよそよそしく彼の名を呼ぶと、紀一郎さんの指先が私の唇に触れた。



「黙って」



 紀一郎さんは、ドアに鍵をかける。私を押し付けたまま、少しかがんで口付けをした。彼はわざとらしくリップ音を研究室の中に響かせる。



「ちょっと、ここ学校ですってば……」



 キスの合間に抗議してもどこ吹く風。彼の理性に私の言葉は響かなかった。



「……桐子さん」



 熱っぽく名前を呼ばれると、どうしても抗いきれなくなる。紀一郎さんは私から少し離れて、右手で私の左耳に触れた。

 耳たぶをくすぐるように、親指と人差し指の腹で優しく摘まんでいる。そのうち、人差し指が耳の外郭を、触れるか触れまいかというタッチでゆっくり、スッとなぞった。


 そわぞわとした甘い電気が耳から背骨を通り、腰に伝わる。



「桐子さん」




 紀一郎さんはもう一度私の名前を呼び、顔を近づけた。またキスをしてくれるんだと思った、私は目を閉じる。


 しかし、紀一郎さんの意図は私が想像していたものとは全く違う。紀一郎さんは、触れていない右耳にふっと息を吹きかけてから、舌で舐めた。



「あっ……!」



 まるで二人でベットにいるときのような、とろけたような声を出しそうになった私は、咄嗟に両手で口を塞ぐ。紀一郎さんそんな私の様子にはお構いなしのようで、耳の形を確かめるように舌先でなぞり、時々熱い息を吹きかける。


 左耳は相変わらず擽られたまま。ぞくぞくとした甘ったるい感覚が体の力を奪い、私はずるっとドアにもたれたまま床に崩れ落ちていた。紀一郎さんも私に目線を合わせるように腰を落とす。



「……きいちろ、さん……?」



 私がたどたどしく名前を呼びかけても、紀一郎さんはにっこり微笑むだけだ。


 そして、両耳をさらに擽る。


 右耳は紀一郎さんのぬるぬるとした唾液も相まって、左耳よりも感覚が鋭敏だった。私は声を堪えるが、腰に伝わった感覚を逃がす術を知らない。どうしようも出来なくなった私が内ももをすり合わせていると、それに気づいた紀一郎さんは私の膝に触れ……ゆっくりと太ももを撫でながら、押し開く。


 私は抵抗する力もないまま、スカートの中を紀一郎さんに見せてしまう。昨晩とは違う色の下着に、彼は気づいただろうか?

 紀一郎さんは内ももの柔らかい部分を軽く摘まみ……下着の脇から、わずかに潤いはじめたナカに指を滑り込ませようとした。



「ゃん……!」


「……」


「……紀一郎、さん?」


「すみません……」



 紀一郎さんは、私から体を離して大きく息を吐く、まるで自分をなだめるように。今彼にされたばかりの愛撫を思い出した私は、カッと全身が赤くなっていた。



「ばか、ばか、紀一郎さんのばか!」


「……はい、バカなんです」



 紀一郎さんはぎゅっと私を抱きしめる、私が背中に腕を回すと紀一郎さんはもう一度大きく息を吐く。



「朝、行ってらっしゃいのキスをしてもらえなかったから、うっかり」


「うっかりでこんなコトしないでくださいよ! 第一、ここ学校で……」


「桐子さん、声」



 怒りに任せていると声のボリュームがドンドン上がっていってしまう。諫められた私は自分を落ち着かせるように、ため息をついた。



「それで、桐子さんは何しに来たんですか?」


「あ……、三竹くんからレポート預かっていて」


「レポート? もしかして、日本文学概論の?」


「はい、これなんですけど」


「困ったな、締め切りは昨日ですよ。それに、どうして三竹くんのレポートを君が持ってくるのか……」


「頼まれちゃって……」



 私は立ち上がって、カバンからレポートを取り出す。紀一郎さんも脚についた埃を払いながら立ち上がった。レポートに手をかけたと思えば……彼の手はそこでピタリと止まってしまう。



「……桐子さんなら、“I love you”をどう訳しますか?」


「え?」


「今日の授業。その答え次第で、受け取るかどうか決めようかな?」


「もう……」



 私は額に手をあてて、今度は呆れるように大きなため息を吐いた。ちらりと目線をあげると、私が出す『答え』を待ちわびている紀一郎さんは、どこかあどけない少年のようにも見える。私が考えに考えを重ねていると、ふっと一つの『歌』が脳裏によぎった。



「陸奥の……」


「ん?」


「『陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに』、は……?」



 その私の言葉を聞いた紀一郎さんは小さく笑みを浮かべて、私をその広い胸に引き寄せた。彼がそうしていたように、私も、昔生きていた人の『言葉』を借りて彼に気持ちを伝える。



――陸奥で織られるの「しのぶもじずり」の乱れ模様のように、私の心も乱れています。……きっと、これはあなたの所為。



「まあ、及第点と言ったところですかね」



 それでも紀一郎さんの評価は辛口だ。三竹くんのレポートは、私のカバンの中に押し込まれてしまう。



「できれば君の言葉で聞きたかったし。それに……」


「それに?」


「僕以外の、他の男のお願い事を易々と引き受けるなんて……僕、ちょっと嫉妬してしまいます」



 紀一郎さんは軽くウィンクしてみせるけれど、その瞳の奥は笑っていない。彼は少しだけ心が狭い、私の事になると、特に。



「最初から受け取るつもりがないなら、こんな恥ずかしいこと言わせないでくださいよ」


「でも、君から言われたいと思ったんだよ。桐子さんはあまり口に出して自分の気持ちを言わない人だから。あと、桐子さん」


「はいはい、なんですか?」

 

「……今晩、お時間ありますか?」



 唐突なお誘いに、冷めかけていた体にポッと小さな火がともる。私は彼の目を見ながら、おずおずと頷いた。



「……はい」



 彼に触れられたい、触れたいと思っていることを紀一郎さんに気づかれないように。幸いなことに、今日はバイトも何もない日だ。一晩中、紀一郎さんと一緒にいることができる。



「良かった」


そう言って、紀一郎さんはさらに強い力で私を抱きしめた。


 体の底でふつふつと滾る熱。これを冷ます方法は、紀一郎さんしか知らない…。結局私は今夜も紀一郎さんの家で過ごすのだ。わざわざ香りを全てかき消したのが馬鹿らしくなるくらい、くっついて寄り添いながら眠るのだろう。


 それを考えるだけで、胸の奥がきゅんと甘く疼いた。


 それにしても……紀一郎さんは学校の中なのにこんなにくっつきてきて、隠し通すつもりがあるのだろうか?


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