春 ~”I love you”の訳し方~ ③
「トーコ、おはよー」
「おはよう、エリサ」
服を着替えて、メイクを直して髪型を整える。私が通っている大学は、自宅と紀一郎さんの家の間、自転車で10分もかからないくらいの距離にある。私は今日は3講から授業があるけれど、同じ日本文学科に在籍している友人の広瀬エリサと、昼食を一緒に取るために少し早めに大学に向かうようにしていた。
食堂は混みあっていたが、出入り口付近に座っていたエリサをすぐに見つけることができた。テーブルの上には、コンビニで買ってきたと思わしきサラダがある。美容やダイエットに夢中なエリサは、あまりご飯を食べようとしない。私は財布だけ持って、すぐに出来上がるラーメンを買う。
席に戻ると、エリサはファッション雑誌から顔をあげた。表紙を見ると、アクセサリー特集と書いてある。
「そーいえば、トーコってさ」
「なあに?」
「ピアス開けたりしないの?」
エリサは私の目ではなく、耳たぶを見た。紀一郎さんが口づけしたばかりのそこを、見た。
「どうしたの? 急に」
「別に……雑誌読んでたら気になっちゃって、そういやトーコってあんまりアクセつけたりしないなって。ピアスとか似合いそうなのに」
「……大学入ったころは、開けるつもりだったんだけどね。なんか、時機を逃したって言うか」
「ふーん。今からでもいいんじゃない?」
「あと……穴開けるのって痛そうじゃない? 私そういうの苦手で……」
不安を口にしながら、私もエリサの耳を見た。エリサの両の耳たぶには、タッセルの飾りがついたピアスが揺れている。
「人によるんじゃないかな? 私は全然痛くなかったけど、バイト先の子はめっちゃ痛かったって言ってる子もいるし」
ひんやりとした耳たぶに触れてみる、ここに穴をあけるというのは……やっぱり少し怖い。耳に触れていると、私はやっぱりここに触れる紀一郎さんの事を思い出してしまう。自分で触ってみてもその良さは何も分からないけれど……紀一郎さんに触られるのは、嫌いじゃない。
もし、ピアスを付けるような事があったら、紀一郎さんはどう思うのか考えてしまう。
何にでも紀一郎さんを結びつけてしまうのが癖になってしまった。
まるで、私の世界の中心が紀一郎さんになってしまったみたい。
「あ、トーコちゃん!」
エリサと向かい合ってご飯を食べていると、同じ学科で友人でもある三竹司くんと徳永謙介くんが近づいてきた。三竹くんは眉を下げて困ったような表情で、徳永くんはどこか呆れているようだ。
「どしたの?」
「トーコちゃんって、1年の時、志麻っちと仲良かったよね?」
「……何、で?」
心臓が急に跳ねて、ドクドクという音が耳にまで伝わってくる。
紀一郎さんとした『あの約束』を、私は気づかぬうちに破ってしまったかもしれないと、背中に冷や汗がツゥッと流れていくのが分かる。
「トーコちゃんって、今志麻っちの『日本文学概論』の授業取ってる?」
「ううん、去年取ったよ。私もトーコも」
私の代わりにエリサが返事をする。その言葉に、心底がっかりしたのか三竹くんは肩を落とした。マンガだったら、背景にどんよりとした雲がかかるくらいショックを受けている。
「え……まじか……」
「あ、わかった。志麻っちのレポートでしょ?」
エリサがピンと来たらしく、人差し指を三竹くんに突きつけた。彼はバツが悪そうに頷く。
「いやぁ、レポートの締切、昨日だったんだけどさ……終わらなくって」
「志麻っち、結構締切厳しいじゃん。大丈夫なの、それ」
「いや、無理だろ」
徳永くんは辛辣に三竹くんを突き放すが、三竹くんは諦めきれないようで……私に向かって頭を下げる。
「だから、成績優秀なトーコちゃんに、先生にお願いしてもらって……受理してもらおうかなって?」
「……志麻先生、そんな事じゃ貰ってくれないと思うけどな」
私にそれをする前に、『志麻先生』に頭を下げる方がいいんじゃないかと思う。
「やってみなければ分かんないじゃん! 頼むよ、トーコちゃん。お願い! 俺今日授業でいっぱいだし……それに、怒られたくないし」
「本音がそれでしょ?」
「そうだけどさ、今年はあんまり単位落としたくないし……」
「え? 成績やばいの、三竹」
「そう。コイツ、去年調子に乗って全然単位取れなかったから焦ってる」
「徳永! それをトーコちゃんの前で言うなよ!」
「……ふーん。いいよ、私もトーコも、4講志麻っちの授業だし。ねぇ、トーコ」
「うん、いいよ。先生が受け取ってくれるかは分からないけど」
「やった!! あの、今度昼飯奢るから!」
三竹くんはエリサにレポートが入ったクリアファイルを押し付けて、手を振って背を向けた。そのスキップしている後姿は、先ほどに比べると天と地ほどの差がある。
「お人よしだね、私たちも」
「ふふ、そうだね」
「でも……三竹ってさ、絶対トーコのこと好きだよね」
「えぇ? そうかなぁ……」
「絶対そう! 私、一年の時からずっと怪しいなって思ってた」
私とエリサ、それに三竹くんは一年生の時に同じ基礎ゼミに入っていた。それ以来何だか三人で話すことが多い、徳永くんは違うゼミだったが三竹くんと同じサークルに入っているらしくて、二人はよく一緒にいる。
その時のゼミの担当が『志麻先生』だったせいか、二人とも何だか紀一郎さんに対して気安く接しているところもある。
「お昼おごるって言ってるけどさ、きっとトーコと一緒にランチしたい口実だよ」
「そんなことないって。ほら、早く食べないと授業遅れちゃうよ」
「あ、やば!」
◇◇◇
4講目は、紀一郎さんの授業だ。日本近現代文学史。中くらいの教室の、真ん中あたりに私たちは並んで座る。紀一郎さんの授業は分かりやすいという評判もあって、いつも八割くらい席は埋まる。
「夏目漱石は、高校の教科書に採用されていることが多いから……皆さんは一度くらい目を通したことがあるかもしれません」
ピンマイクを付けた紀一郎さんの声が教室中に響く。レジュメを持ちながら背筋を伸ばして黒板の前に立つその姿は、朝のあの甘えた紀一郎さんとは想像できないくらい……ちゃんと『先生』としていた。
「夏目漱石と言えば、皆さんにとってはこっちの方が有名かな? 英語教師をしていた頃の漱石が、“I love you”を『月がきれいですね』と訳したという話。日本人は奥ゆかしくて恥ずかしがりな性分なせいで、ストレートに『愛してる』とは言うことができない。だから、漱石が新しい表現を用いたという事ですが、実はあれ、逸話……後に語られるようになった作り話なんです」
教室中から驚いたような声が上がる。
「漱石の著作の中に、そのような表現が使われたり正式な記録が残っていないんです。でも、素敵な言い回しだと僕も思います。皆さんなら、訳すときにどんな言葉を使いますか? いざというときのために、考えておいたらいいかもしれないですね」
くすくすという笑い声がどこからか漏れる。紀一郎さんは腕時計を確認して、レジュメを教卓に置いた。
「さて、今日はこれでおしまい。続きはまた来週、お疲れさまでした」
私が教科書や資料を鞄に仕舞っていると、エリサが感嘆するように声をあげていた。
「つまり、ガセってこと? 月がきれいですねの話は」
「ガセと言うより……夏目漱石を尊敬していた誰かが、尊敬してもらいたくて付け足した話なのかもよ」
「ふーん。でも、志麻っちも素敵な事言うよね、いざというときのために“I love you”の訳し方を考えておけなんて。先生にそんな事いう相手いるのかな?」
「……さあ、どうだろうね」
「トーコは?」
「え?」
「ほら、彼氏いるって言ってたじゃん!」
大学の友人の中で、エリサだけは私に恋人がいるということを知っている。……知っているというよりも、私がうっかりボロを出してしまってばれただけに過ぎない。もちろん、相手が誰かという話はしていないし、エリサも何かを察してか深く詮索してこない。
「例えば、私が特別な訳し方を知っているとして……それを今エリサに言うとでも思う?」
「え~、そんな事トーコに言われたらドキッてしちゃうかも」
「何よ、それ」
私は吹きだすように笑う。それと同時に、私はあることを思い出した。
「そうだ、三竹くんのレポートは?」
「あ! やっば、忘れてた!」
「今から追いかけたら、まだ間に合うかも」
もう教壇を見ても、『志麻先生』の姿はない。
「それか、研究室に行ってみるとか……」
「えー、でも私この後バイトだし、三竹のレポートごときでそこまでするのはなぁ」
私の中で、ふつふつと下心が湧き上がる。
「私、行ってきてあげようか? もう授業もないし、今日バイトもないから暇だし」
「え、やさし~! それは三竹も喜ぶわ」
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