春 ~”I love you”の訳し方~ ②


◇◇◇



 紀一郎さんと付き合い始めてから、一年近く経った。それでも、この部屋で目が覚めるのは慣れずにいる。紺色のカーテンの隙間から漏れる朝日とか、隣で眠っている紀一郎さんとか。私は深く眠っている彼が目を覚まさないように、ゆっくりとセミダブルのベッドから抜け出していく。パジャマ代わりに着ていた彼のシャツを脱いだ私は、床に散らばった衣服を身に着けて、キッチンに向かう。私は3講から授業が始まるけれど、紀一郎さんは今日朝から授業があるはずだ。


 冷蔵庫には、卵、ベーコン……あとはパン。これだけあれば、朝食らしいものは作れそうだ。バタンッと冷蔵庫の戸を閉めると同じくして、寝室のドアが開く音が聞こえてきた。寝癖が目立つ髪をくしゃくしゃにかきあげながら、紀一郎さんはリビングにやってくる。昨日着ていた服ではなくて、クローゼットから出してきたばかりのパリッとしたシャツを着ている。



「桐子さん」


「おはようございます、紀一郎さん」


「おはようございます、相変わらずの早起きですね」


「紀一郎さん、今日朝から授業があるじゃないですか。それに……学校に行く前に家帰って、着替えないと」


「だから、僕の家に着替えおいていきましょうって何度も言っているじゃないですか。そんな面倒なことしなくても」



 私が首を横に振ると、紀一郎さんは諦めたように小さく笑みを浮かべる。私が彼の家に着替えを置かないのは、ちょっとした理由がある。

 卵をボウルに割って入れる、カラザをとってから菜箸でかき混ぜていると紀一郎さんは私の手さばきをまじまじと見つめていた。その視線がくすぐったくて、手元が少し狂ってしまう。温めておいたフライパンに塩コショウで味を調えた卵液に流し込むと、紀一郎さんは決まってこう言う。



「慣れてますよね、桐子さん」


「ずっと母の手伝いしていたので」


「バーでも、いつも和三さんが褒めてますよ」



 和三とは、私の叔父の事だ。



「でも、僕としては……あまりあのバーで活躍してほくないのが本音なんですよね」


「え?」



 それは、初めて聞く。スクランブルエッグを作るためにフライパンの中をかき混ぜながら聞き返した。



「桐子さんの接客、僕以外のお客さんにも好評らしくて……最近、桐子さん目当ての人も増えてるらしいですよ」


「それ、叔父の冗談ですって。真に受けないでください」



 紀一郎さんはパンを二枚トースターに放り込む。私の分と紀一郎さんの分、こんな小さな共同作業にさえ幸せを感じる私は、やっぱり彼の事が好きなのだろう。



「やきもち、焼いちゃいます」



 スクランブルエッグをお皿に取り分けて、次はベーコンを焼いていると……紀一郎さんの唇が私の耳に触れた。そっと流し込むようなその言葉に、私は昨晩口移しで飲んだワインの香りを思い出してしまう。彼は私の腰に腕を回して、ぎゅっと抱き着いてきた。



「あぶないですよ、火傷しちゃうかも」


「大丈夫です」



 肩にかかる私のミディアムヘアをかき分けて、紀一郎さんの唇が首筋に触れる。



「ちょっと、紀一郎さん」


「……離れてほしい?」


「……くっつかれたままだと、朝ごはん、作れないですし。パン焦げちゃいますよ」


「桐子さん」



 こうなったときの紀一郎さんは頑なで、私が根負けするのをいつも待っている。



「桐子さん……キスしたい、こっち向いて」



 最後のダメ押し、だ。そう耳元で囁かれてしまうと、体中が熱くなる。彼はもう一度耳元で、「いいでしょう?」と息を吹きかけるように囁く。彼の『お願い』に弱い私はコンロの火を消して、紀一郎さんの腕の中でくるりと半回転する。


 紀一郎さんの右手が、私の頬に手を添えて、少しだけ上を向かせる。彼も少しだけ屈んで、私たちの目線は完璧に交わる。じっと見つめる彼の視線に耐えきれなくなった私は観念してゆっくり目を閉じた。紀一郎さんは頬に触れていた手を腰に回して、唇を重ねた。


 一度だけでなく、少し離れて……角度を変えてまたくっつく。それを、何度も繰り返していく。口づけはだんだん深く、強くなっていく。体の力が抜けそうになってしまった私は、縋り付くように彼の背中に腕を回す。紀一郎さんはさらに強く私を抱き寄せ、しっとりと吐息で潤んだ私の唇を舌先でノックをする。私がわずかに隙間をあけると、彼はすんなりと舌を滑り込ませる、お互いにお互いの舌を舐めあい、絡み合っていくうちに……それは時間をかけて次第に深くなっていった。



「……桐子さん、ノリノリじゃないですか」



 唇を離した紀一郎さんは、余裕たっぷりだ。私の体はふにゃりと力が抜けているのに。私は悔しくて、彼に言い返す。



「紀一郎さん、それ、死語ですよ」



 それでも私の頬は熱を持っていて、赤さに気づいた紀一郎さんはその頬にキスをした。


 すっかりパンは焦げてしまっていて、紀一郎さんが出勤しなければいけない時間も迫っていた。彼は朝食を掻きこんで(時間がないのに、すべて食べてくれた)、慌ただしく玄関に向かっていく。



「それじゃ、行ってきます。」


「はい、気を付けてくださいね」


「……行ってらっしゃいのキス、は?」



 こそばゆい彼のおねだりを無視するように、私は紀一郎さんの背中を押す。紀一郎さんは仕方ないと小さく笑って、「行ってきます」と軽く手をあげた。名残惜しいのかもしれないけれど、私は今日の4講目に紀一郎さんの授業を入れている。しばしの別れくらい、すんなり受け入れてほしい。



 後片付けをしてから、私は紀一郎さんのマンションを飛び出していく。昨晩よりも早く自転車を漕いで、大学の正門を通り越して、私はそのまま自宅のあるアパートへ向かう。呼吸をする度に、紀一郎さんが私の体に擦り付けた香りが鼻腔をくすぐる。呼吸をすることをやめるわけにいかないので、私は紀一郎さんの名残に包まれながら、自分の部屋の鍵を開けた。


 自宅に着いてすぐ、バスルームに向かう。昨日着ていた服をすべて脱ぎ捨てて、少し熱いくらいのお湯を頭から浴びる。紀一郎さんの名残も何もかも全部、排水溝の向こうに流すくらいの勢いで。


 シャワーのお湯が針の様に刺さってきて、少し痛い。


 帰ってきて早々こんな事をしているのには、理由がちゃんとある。体にこびりついた痕跡全てを消し去りたいくらい紀一郎さんの事が嫌い……というわけではない。彼のことは、ちゃんと、好きだ。


 以前、少し長い休みの間中ずっと紀一郎さんの家で過ごしたことがあった。そ紀一郎さんの部屋からアルバイト先である叔父さんのバーに通って、バイトが終わったら紀一郎さんの部屋に帰るという生活。帰ったら誰かが家に待っている生活なんてほとんど送ったことのない私は、それはそれは幸せな時間を過ごすことができた。でも、その時に……おじさんにあることを言われてびっくりして以来、私は彼の自宅から帰ってきたときは必ずすべてを拭い去ることにしている。



「お前、志麻さんと同じ匂いになってきたな」



 驚いてあんぐりと口を開けていると、叔父さんは「間抜け面」と言って私の顎を掴んで口をしめた。動くたびにふんわりと漂うシャンプーの香りが、紀一郎さんと同じだったらしい。それはもちろん、そうなるだろう。朝から紀一郎さんの家で過ごして、紀一郎さんが使っているシャンプーやボディソープも借りて、夜はに紀一郎さんと寄り添って眠りにつく、彼の香りだって移ってしまうのも止むを得ない。



 普通の恋人同士なら、何も問題なかっただろう。



 そう、「普通の恋人同士」だったなら。



 私と紀一郎さんは、「普通の恋人同士」という枠組みにカテゴライズされていない。私はまだ大学生で、紀一郎さんは私が通う大学の先生だ。倫理的にもそれは不適切な関係だと、認めざるを得ない。


 付き合い始めたばかりの頃に、紀一郎さんは「みなさんには秘密にしましょうね」と私に言った。もし、周囲に知られてしまうようなことがあったら、もうお互いに学校に居られなくなってしまう。紀一郎さんはいつも通りのあの口調で、優しく私に語りかけた。



「それに……」


「はい?」


「僕は本を読むしか能がないから、社会に出たら食い扶持がなくなってしまうんですよ。この年から一般企業で勤めろって言われても、無理なんです」



 彼は冗談めかすように言っていたが、本当にその通りだと私も思う。紀一郎さんに、社会で生き抜いていく力はない。だから、紀一郎さんのためにも、私は人一倍気を付けなければいけない。誰にも知られないように、日陰の中を共に歩く。


 私たちの関係を知っているのは、私たちを除けば、叔父さんだけだ。


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