志麻准教授の恋と日常
indi子
春 ~”I love you”の訳し方~
春 ~”I love you”の訳し方~ ①
恋しさだけで急いでいる訳ではない、恋しさだけで急いでいる訳ではない。
何度も何度も、自分に言い聞かせるように念じていた。いつもなら重たく感じる自転車のペダルは、
叔父さんが経営しているバーでのアルバイトが終わった私は、紀一郎さんが暮らすマンションに向かう。紀一郎さんの自宅は、バイト先から自転車で10分ほどの距離にある。
紀一郎さんは、私が通う大学の先生。私より20歳年上の文学部の准教授。私は紀一郎さんが勤める大学に通っている2年生。一浪して入学したため、同期の学生よりも一つだけ年上に20歳。
学校ではちゃんと「
しかし、ふと気が抜けてしまうと、この一年で身に沁みついてしまった癖で「紀一郎さん」と呼んでしまいそうになる。
その度に、紀一郎さんは「気を付けてくださいね」と言わんばかりの、イタズラめいた笑顔を見せる。
その顔が、私は好きだった。いつもはきりっとした、手の届かないような所にいる大人の男性なのに、私にだけは少し幼い表情を見せる。私は、紀一郎さんのそんなところが好きだった。紀一郎さんは、私がそんな風に自分の事を思っているなんて、露ほども知らないだろう。
知らないでいて欲しい。
やっぱり恥ずかしいから。
ただ、今は本当に、一途に恋しさだけを原動力にして自転車を漕いでいる訳ではない。今夜はどうしても、紀一郎さんに一つや二つ、文句を言いたいのだ。
駐輪場に自転車を止めて、マンションのエレベーターに飛び乗る。
紀一郎さんの部屋がある7階のボタンを押して(紀一郎さんはいつも飽きることなく「ラッキーセブンです」と言う)、扉が再び開いたのと同時に早歩きでドアの前に立った。
一度、チャイムを鳴らす。
いつもならすぐに出るはずの紀一郎さんは、ドアの向こうでチャイム音が鳴っても……一向に開く気配はない。シャワーでも浴びていてチャイムの音が聞こえないのだろうか? 私は鞄からこの部屋の合鍵を出して、キーシリンダーに差し込みゆっくりと回す。
「お邪魔しまーす、紀一郎さん?」
ドアを開け、すっかり板についた彼の名を呼ぶ。だけど返事はなく、その代わりにキッチンから何やら騒がしい物音が聞こえてきた。
靴を脱いで、玄関で揃えてから廊下を進んでいく。その足音でようやっと気付いたのか、紀一郎さんはキッチンから顔を覗かせた。
「あれ?
ダイニングテーブルの上には、ワインクーラーと、皿に乗ったチーズにバゲットなど……
紀一郎さんは、あまり料理をしない方だったと、話していた。その言葉通り、紀一郎さんの部屋のキッチンはきれいなままだった。
しかし、私とのお付き合いが始まってからはキッチンに立つ時間が長くなったと、しみじみと話していたのをふと思い出す。私がこの部屋のキッチンに立って、紀一郎さんのためにご飯やおつまみを作っているのを見ているうちに、料理に興味を持ったみたい。
「今日はお客さんが少なかったので、早くあがってもいいって言われたんです。……そんなことより、紀一郎さん」
「はい、何ですか桐子さん」
私は鞄の中から、今日、大学の図書館で借りて来たばかりの古典全集の2巻を取り出した。1巻を返却して、その足で借りてきたのだが……・表紙を開いて、私はぎょっと大きく目を見開いた。
開いてすぐのページに薄紫色の
――
「これ、どういうつもりですか?」
私はその付箋を剥がして、紀一郎さんの胸に貼り付ける。粘着力の弱くなった付箋は、すぐにひらりと落ち葉のように床に落ちていった。
紀一郎さんは、しゃがんでそれを拾い上げる。
「一人で寝る夜は長くて寂しい、早くあなたに会いたいと思っている事をご存知ですか――という歌です」
「歌の意味は知っています! どうしていつも私が読む本を先回りして、こんな悪戯をしてくるんですか?」
「桐子さんは几帳面な性格だから、1巻を読み終えたらすぐ2巻を借りに行くのはすぐに想像できます。僕がどれだけ桐子さんを恋しく思っているか知ってもらいたかったんですよ」
「……また、そんな恥ずかしい事を。先に誰か借りて、見られたらどうするんですか?」
「恥ずかしい事で結構です。それに、そんな本借りる人、桐子さんの他にいませんよ。……ああ、そうだ、桐子さん。今日はワインでいいですか? ビールも一応冷えてますけど?」
紀一郎さんはキッチンに向かい、軽食が乗ったお皿とグラスを用意している。出来上がったばかりの軽食からは少し湯気がたっている。彼のいたずらを追及することができなかった私は、その言葉を遮る。
「私、今日自転車で来てるので。お酒はちょっと……」
「桐子さん」
紀一郎さんが私の名を呼ぶときは、いつだって優しい。けれど、時折、その優しさの奥に意志の固さや融通の利かない一面が垣間見えるときがある。
「桐子さんって確か、明日は3講からでしたよね?」
「……でも、今日はそういうつもりではなかったですし」
「今日の僕は、長い夜を一人で過ごせません。桐子さんも、それを分かって来てるのに、ずいぶん意地悪な事を言うんですね」
反論できなくなった私がぷいと横を向くと、紀一郎さんの優しいぬくもりが頬に触れた。
その手は、すっと、私の中にある生々しい感情を引き出すかのように頬を撫でる。私の肩に手を置いて、紀一郎さんはとびっきり優しく「桐子さん」と、私の名を呼んだ。
ぞわそわとした生ぬるい感覚に堪えきれなくなった私は、紀一郎さんの顔を真正面から見つめ返した。微笑んでいる紀一郎さんは少しだけかがんで、そのまま私の唇にキスをした。彼は私にキスをするとき、目線を合わせるようにしゃがむ。
「……紀一郎さんの寂しがり」
その唇は軽く合わさっただけで、すぐに離れた。その暖かい名残を消す様に、私は紀一郎さんに向かって文句をつぶやく。
紀一郎さんはまだ少しかがんだままだった。私と紀一郎さんの間にある身長という差は簡単に埋められ、紀一郎さんは私の瞳をじっと見つめる。
まるで、目の奥底にある心の中を全て
こうやって紀一郎さんに見つめられる度に、恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが体の中でぐるぐると入り混じって、少しだけ熱が上がり、いつも何も考えられなくなる。
「まあゆっくりしていきましょうよ、桐子さん」
紀一郎さんは私の手を引いて、ダイニングの椅子に座らせる。その手にもまた、熱がこもっている事に私は気づいていた。
紀一郎さんも椅子を引いて、私の隣に座った。トクトクと軽快な音を立ててグラスにワインを注いだと思ったら、それを少しだけ口に含んで、そのまま私の口を塞いだ。
少しだけ開いた隙間に、酸味のある赤ワインが注ぎ込まれる。私がそれをすべて受け止め、ゆっくりと喉を鳴らして飲み込んだのを確認すると、紀一郎さんは舌を伸ばし、私の口内にぬるっと滑り込む。
私は鼻から甘い息を漏らし、紀一郎さんの服を掴んだ。紀一郎さんの口づけは深くなり、彼は熱くなった手のひらで私の背中を撫で回す。ブラウス越しに伝わる彼の手の感触が、私の中から浅ましい感情を引きずり出そうとしていた。
くまなく私の口内を巡った紀一郎さんがようやく唇を離した時、私も紀一郎さんも熱い吐息を漏らしていた。
「……ずっと、こうやって飲ませるんですか?」
「だめですか?」
紀一郎さんは、もう一度赤ワインを口に含み、私の唇を塞ぐ。次は私からも舌を伸ばし、お互いにむさぼるように絡み合っていた。彼の唇が、これから訪れる夜が長いことを知らせる。私は諦めて、その夜のとばりに手を伸ばしていた。
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