第6章 違う世界を生きるとしても
22さよなら
昨日は時間がなくて河童たちに妖界へ行ったことについてあまり話せなかったから、今日はじっくり話をしてやろうと思った俺は、スーパーで買ったばかりのキュウリ10本を土産に大杉神社へ来ていた。
珍しく硯月にも焔にも出会わずに雑木林を抜け、河童たちが暮らしている美上川の河川敷へとたどり着く。
昨日よりも穏やかに、そして澄んでいる川を見渡しながら俺は河童たちの中でも特に仲の良い藍と蒼を呼んだ。
「おーい、藍ー、蒼ー。キュウリ持ってきたぞー」
口元に片手を当てて、より遠くまで声が聞こえるように呼び掛けたのだが、1分経っても反応がない。
いつもならこちらが恐れおののく程のスピードで川を泳いでやってくるというのに。
河童たちは夜行性というわけでもないようだから、寝ているということはないだろう。
では一体なぜ藍たちは来ないのか。
それどころか他の河童も姿を見せない。
河童たちが活発に動いていない川はとても静かで、とても神聖なもののように思えてくる。
俺ですら足を踏み入れることを躊躇うような雰囲気が川から伝わってくる。
そんなことを思って初めて、違和感の正体を認識した気がした。
(ここは昨日とは違う。空気が綺麗すぎる)
そう、それはまるで神の住まう神域のように。
自分の考えにスッと心臓が冷えて痛み出す。
そんな清らかな空間で河童たちは無事だろうか。
悪い妖ではないとはいえ、妖である彼らにこの空気はきついのではないか。
「おい!藍!蒼!いるなら返事しろ!」
言い表せない恐怖と焦りが込み上げてきて、俺は必死に藍たちを呼び続けた。
事情を知らない人間に見られたら相当やばいやつだと思られるだろうが、今は気にしていられない。
(だって、あいつらの方が大事だ)
とにかく無事を確認したい。
姿を見せてくれ。
そう願いながら名前を叫ぶが、相変わらず反応はない。
「藍っ!あ――」
「呼んでも無駄だ」
「っ!」
突然の声にバッと振り返れば、そこには険しい顔の焔と、いつも浮かべている微笑を消し去った硯月がいた。
二人の表情に悪い予感が当たってしまったのだと、確認せずとも分かる。
途端に俺は顔が強張るのを感じた。
そんな俺を見て、硯月が眉を下げ困ったように笑った。
「昨夜、陰陽師たちが来てこの辺り一帯を清めて行ってしまってな。下級の妖たちはここへは近寄れなくなってしまったのだ。だから呼んでも来ないよ」
「硯月さま。なぜはっきり伝えないのですか。あいつらは昨日の陰陽師に狩られたって」
「え――」
硯月が焔を咎めている声が聞こえるが、俺にはその会話がどこか違う、遠い場所で行われているように感じた。
視界もぼーっとして、景色もうまく認識できない。
「あいつらが狩られたって、どういうことだよ」
その先の最悪の結末を想像して震える声に、焔が「そのままの意味だ」と答える。
「いつくかの妖、河童たちを含め、下級の者たちは狩られ、消滅した」
「――――」
「一瞬の出来事でな。私たちも彼らは悪さもしないから見逃してくれと言ったのだが、それが陰陽師の仕事だと言って聞かなくてな……」
「今思い出しても胸糞悪い」
硯月と焔がそんな事を言っていた気がするが、俺の耳をただ通り抜けて行く。
(消滅したって……それって、死――)
「嘘だろ……」
だって、昨日まではここにいたんだぞ。
この川で誰が一番大きな魚を獲れるかを競って遊んだ。
藍も蒼もあんなに楽しそうに笑ってた。
(それが、もう、いない?)
胸が苦しい。
呼吸が、上手くできない。
現実を、受け止められない。
誰か嘘だと言ってくれ。
呆然とする俺の肩を硯月が慰めるようにそっと叩いた。
「あれほどの力を持った人間がお前の他にもいたのだな。それが陰陽師とは。私たちも油断していたとはいえ、河童たちには悪いことをした」
「……なんで。なんであいつらが狩られなきゃいけなかったんだ。だって何も悪い事してないんだぞ。それなのになんで!」
理由を求めて顔を上げれば、戸惑ったように瞳を揺らす焔がいた。
しかし開きかけた口は、何か言葉を発する前に閉じられる。
代わりに口を開いたのは硯月だった。
「それが陰陽師の仕事だからだろう。昔から人は私たちを恐れ、迫害してきた。もちろんそれは人間に悪さをした妖がいたからなのだが……一部の悪行を全体の悪と決められるのは少々酷だな」
「っ」
どうして。
どうして。
そんな言葉ばかりが頭の中を駆け巡っている。
確かに悪い霊や妖は払ってもらいたいと思うのが人間だろう。
でもここに居た妖たちは何も悪いことはしていなかった。
ただここで静かに暮らしていただけなのに。
その時、昨日道ですれ違った眼鏡の男の声が脳裏を過った。
「もうあの神社にはいかない方がいいのでは」
そしてそのあと「異形のものと関わらない方がいい」とも言っていた。
あいつはここに妖たちがいる事を知っていたのか。
あの後あいつらは大杉神社の方へ向かっていた。
あいつらが硯月の言う陰陽師だったに違いない。
(俺があの時追いかけていれば)
追いかけて河童たちの無罪を訴えていれば、こんな事にはならなかったのだろうか。
悲しみが大きな後悔へと変わる。
うつむく俺をどう解釈したのか、まさか心を読んだわけではないだろうが、硯月が「お主が気に病む必要はない」とそっと肩をさすった。
それを俺は首を振って否定する。
「……俺、昨日ここら辺で見たことないやつにあったんだ。妖のことも知ってる風だった。あいつの事をもっと問い詰めていれば……」
「そうか、直哉は会っていたのだな。しかし神域に近い私達の声も聞かぬやつらだ。結果は変わらなかっただろうなぁ」
「……俺、河童たちを探してくる。だってここはあいつらの家なんだろ。それを人間が……」
「やめておけ。確かにやつらはここに住み着いてはいたが、こうも清められてはしばらくは近づくこともできぬだろう」
「そうですね。それにあの陰陽師、中でも指揮をとっていた野崎という男は特に嫌な感じがした。お前もしばらくはここへ来ない方がいいかもしれない。酷く妖を毛嫌いしているようだし、妖と共に過ごすお前に危害を加えないとも限らんからな」
「でも……俺、藍たちの事、嫌いじゃなかったんだ。妖界の事たくさん話してやろうって、それに今度は一緒にこの川を泳ぐって、約束したのに……っ」
どうしてこうなってしまったんだろう。
目の奥が熱くなって、俺は唇をかみしめて必死に沸き上がる熱いものをこらえた。
「直哉。人間には私達の事を正しく理解していない者が多い。悲しいが、こういったことはたまにあるのだ。それに場が清められて得をする妖もいるから、難しいところだな」
「得をする妖?」
「ああ。例えばそう、私や焔のように神に近しい者たちだな。私達はまあ簡単に言えば神の御用聞きのような立場に近いから、こういった清らかな空気の方が調子がいいのだ」
「そうなのか……。硯月たちの忠告はありがたく受け取っとくけど、それでもやっぱり俺はここに来ると思う。約束を、果たしたい」
願うようにそう宣言した俺を硯月は悲しそうに目を細めて見つめる。
「……しかしあやつらはもう、お主の声に応えぬかもしれぬぞ」
「俺があいつらを払った野崎と同じ人間だからか?」
「ああ」
「そっか……そうだよな」
俺がどんなに会いたいと願っても、藍たちが受けた恐怖は消えない。
俺と同じ人間から受けた恐怖は、きっと俺を見ても思い出すだろう。
それならこのまま会わない方が彼らにとって幸せなのかもしれない。
それに人里離れた場所へ移ったのなら、もう人間に見つかることもない。
俺が会いに行きさえしなければ。
ツキンッと胸が痛んだが、気づかないふりをして無理やり自分を納得させる。
藍と蒼の笑顔が浮かんで、消えた。
「俺、あいつらを探すのはやめるよ。だけど、ひとつ教えてくれ。藍と蒼は、無事なのか?」
それさえ教えてもらえればこの胸のつっかえも少しは楽になるだろう。
しかし硯月たちから返ってきたのは「わからない」という絶望的な答えだった。
「昨夜は場が混乱していたからな。皆ちりじりになってしまって、一人ひとりの安否の確認まではできなんだ。すまんな」
「……そ、か。いいんだ、別に。本来なら、俺は誰がいなくなったとか、ここにあいつらがいたことも知らなかったんだし。もう気にするのやめるよ」
「直哉……」
そう、俺にこんな力がなければあいつらと関わりを持つこともなかったんだ。
俺は何も見なかった、知らなかった。
だからこの胸の痛みもすぐに消える。
きっと、今なら忘れられる。
引き返すなら今しかない。
俺は、妖界との完全なる決別を決意した。
(関わらなければ、あいつらの事でこんな思いをすることもなくなるから。だから――)
「やっぱり、俺は王にはならない。妖とも、今後は一切関わらない。選挙はそっちで勝手にやってくれ」
「それは!」
硯月が焦ったように俺の正面に立つが、俺は視線を下げてその顔を見なかった。
もう妖に心を揺らされたくない。
全部忘れるんだ。
「華心の言った通りだな。俺たちは生きる時間も、考え方も違う」
(関わればお互い不幸になるだけだ)
「それでも直哉は私たちに寄り添うことのできる人間だと思っている。きっと妖と人間をつなぐ――」
「やめてくれ。俺はただの高校生なんだよ。ただ少しお前たちを見ることができるだけだ」
やっぱりこの力を封じ込めようとした祖父は正しかったのだ。
もしかしたら祖父もこんな思いを味わったのだろうか。
考え方も生きる時間も違うのに、言葉が通じるというだけで何かが通じ合っていたような気がしていた。
でもそれはしてはいけない事だったのだ。
いつかはこんな風に別れが来るのだから。
「じゃあな硯月、焔。初めはこんな力、本当に嫌だったけど、でも楽しかったよ」
「直哉、待て――っ」
伸ばされた手を避けて走り出す。
背後から追ってくる気配はなかった。
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