5 硯月

 襲い来るはずの痛みがいつまで経っても来ない。

 恐る恐る目を開けると、背後には鬼の姿はなく、代わりに白いズボンが見えた。

 白いズボンから見上げれば、その先に白い服。それから陶器のように白く美しい右手から下げられた抜身の刀が見えた。

 後姿だけでもわかる。


 彼は夕方神社の境内で見かけたあの青年に間違いなかった。


 ふふっという小さな笑い声と共に青年が刀を腰に差した真っ白な柄におさめる。

 カシャンッという金属音が先程とは一転して、静寂に満ちた空間によく響いた。


 青年がゆっくりと振り返る。

 その動作に合わせて腰のあたりまで伸ばされた銀髪がふわりと風に舞った。

 


「ふふっ。随分慌てて戻って来たと思ったら、妖に追われていたのだな。あの程度の小物、お主ならば容易く払えるだろうに」


 心底楽しそうに青年が微笑んでいる。

 至近距離で見上げて初めて気づいたが、彼の瞳は髪と同じ銀色だった。

 やはり彼は人の形をしてはいても、自分とは違う存在らしい。

 カラコンでもこんなに綺麗に澄んだ銀にはならない。

 

「……お前って何者?」


 命を助けてもらっておいて第一声がこれはないなと自分でも思ったが、考えるより先に言葉が零れ落ちてしまった。

 しかし青年は別段気分を害した様子もなく、相変わらず楽しそうに微笑んでいる。

 

「私は硯月。気ままに時をたゆたう旅人だ」

「けん、づき?硯月は妖だよな?」

「その通り。こう見えてお主より数百年は先輩だぞ。だからお主のこともよく知っている。もしかしたらお主自身よりもな」

「どういう意味だよ」

「お主の祖父はお主になにも教えぬまま旅に出たのだろう。例えば、お主がかの有名な安倍晴明の血を引く陰陽師の家系ということも、な」

「はぁ?俺が安倍晴明の血を引いてる?馬鹿言うなよ。確かにお祖父ちゃんは陰陽師っぽい感じだったけど……俺なんて見えるだけで戦えないし。全然そんなすごい血を引いてる感じねぇぞ」

「ふふっ。それは力の使い方を習わなかったからだ。内に秘めた能力はあるというのにもったいない。そう言うのを宝の持ち腐れと言うんだろう?」

「……なんか貶されてる気がする」

「なぜそんな思考になるのだ。お主は力を使いこなせばある程度の妖ならば簡単に祓えると言っているのだぞ。これのどこか貶しているというのだ」

「お前の言い方が悪いんだ」

「そうなのか?それはすまない。なにせ人と言葉を交わすのはもう長い事していなかった故」

「長い事……」


 だからこうして話せることが嬉しいのだろうか。

 硯月は先ほどからずっと微笑んだままだ。


「ふふっ。この刀を振るったのも随分久しい。腕が鈍っていなくてよかった。しかし直哉よ。毎回私が側にいるとは限らぬからな。もうこんな目に合いたくなければ妖祓いの札を持ち歩くといい。あれならば持ち歩くだけてある程度の小物なら避けて通るはずだ」


 さりげなく名前を呼ばれて、知らぬうちに名を知られているという恐怖を抱いたが、硯月は俺のことを知っている風なので、もしかしたらお祖父ちゃんから聞いたことがあるのかもしれない。

 それに今は万が一の時に身を守れそうなアイテムのありかを聞き出す方が大事だ。

 持ってるだけで妖が避けて通るなんて最高じゃないか。


「その、妖祓いの札?それどこに売ってんの?そんなあやしいもの売ってる店なんて知らねぇぞ」

「私も売っている店は知らぬが、お主の祖父が持っているはず……ああ、もう旅立ったのだったな。すまんな。どうも時間の感覚が違う故、頭が混乱する。ええと確か、お主の家にある蔵の二階に置いてあったはずだ。それを使うと良い」

「そ。親切にどーも」

「なに、ただの気まぐれだ。ふふっ」


 話の区切りがついたところで、ようやく俺は腰を上げる。そのタイミングで目の前に白い手が差し出された。

 硯月の手だ。

 思いもよらない行動に戸惑い、俺は不自然に腰を浮かせた状態のまま固まる。

 そんな俺を不思議に思ったのか、硯月が首をかしげ「どうした?遠慮なく手を取るといい」と声をかけてきた。

 こちらに合わせて硯月が腰をかがめているので顔の位置が近い。

 手を伸ばせば触れられそうなほど近くで見ても、硯月は綺麗だった。

 高く筋の通った鼻。アーモンド形の目。薄く色づいた唇。

 まるで美術館に飾られている彫刻のような完璧な美。

 しかしその身にまとう空気はどこか冷たく、しかし凛と澄んでいる。

 まるでそう、磨き上げられた日本刀のようだ。

 

 そんな硯月に、人間である自分が触れてはいけないような気がした。

 けれどそんな俺の戸惑いを腰を抜かしていると勘違いしたらしい硯月は「男子なのになさけないのぉ。ほれ」っと楽しそうに笑い、半ば無理やり俺の手を取ると、そのままスッと引っ張り上げてくれた。

 俺が一人で立ったのを確認して、白い手が離れていく。


(妖っていっても、冷たいわけじゃないんだな)


 触れた手は人のように温かかった。

 他の妖も同じように体温があるのだろうか。

 もしそいつが硯月のように綺麗じゃなくて、もっと普通のサラリーマンの様な姿をしていたら、俺は見分けられるんだろうか。

 そんなやつに声をかけられて、もし返事をしてしまったら。

 そんなところを誰かに見られたら。

 逆に人間である誰かを妖と勘違いして恐れたりしてしまうことだってあるかもしれない。

 こんなにはっきり見えるのが、どこか怖い。


「さあ直哉。明日も学校とやらがあるのだろう。もう夜も遅い。早く両親のもとへ戻ってやれ」

「……ああ」


 あれこれ考えて俯いていると、腰をかがめた硯月が覗き込んで来た。

 不意打ち攻撃に盛大にのけぞる。


「な、なんだよ!?」

「いや、まだ怖いのかと思ってな。だが仮にも安倍晴明の血を継ぐもの。夜道程度恐れていてはこの先、生きていけんぞ」

「だ、誰が怖がってんだよ!別に平気だし!」

「そうか。それならば早く行け。ここからは妖の時間だからな」

「…………」


(なんだよ、妖の時間って……その響き自体がこえーよ)


「道中気をつけてな」

「……ああ。じゃなーな。助けてくれてありがとよ」


 今さら面と向かって礼を言うのはなんとなく恥ずかしかったので、背を向けて歩き出しながら言葉を吐き出す。

 背後から言葉は帰ってこなかった。

 代わりに楽しそうに「ふふっ」と笑う声が聞こえる。

 その笑いが俺の気持ちを見透かしているようで気分が悪かった。

 

 速足で大杉神社が見えない通りまで進むと、ようやく俺は速度を落とす。


「はぁ……」


 数時間の内の色々ありすぎて疲れた。

 妖がこの世に存在してたのは平安時代までじゃないのか。

 なんでそんな空想上の生き物に俺が振り回されなきゃいけないんだ。


(またあの鬼みたいのが襲ってきたらどうしよう)


 まだ俺は17だ。人生の先は長い。

 その長い時をあんなやつらを躱しながら生きて行かなければいけないのか?

 そんなの考えただけで面倒だ。

 

(俺の力はお祖父ちゃんに封印されていたってことだよな。てことはもう一度封印すれば……)


 もう一度見えない自分に戻れば平穏な日々が戻ってくるのではないかと思ったが、今は封印してくれたお祖父ちゃんがいない。


(硯月ならわかるか?)


 脳裏によぎる硯月の微笑む姿。

 綺麗だが、硯月は得体が知れない。

 あの妖を一振りで倒した力。

 身にまとう空気。

 まるで神社そのもののように神聖な感じがした。

 悪い奴ではない気がしたが、だが人間ではない者を人間の価値観で判断するのも危険だ。

 あの微笑の下で何を考えているか分かったもんじゃない。


 そう、幼いころ俺をあっさり妖の世界へ連れ去ったあのヒトのように。


(俺はこの世界で生を全うしたい。そのためになんとしてもこの力をもう一度封じ込めないと)


 目を閉じれば優しく俺の頭を撫でるお祖父ちゃんの姿が浮かんだ。


「直哉の力は、封印してしまったほうがいいな」


 あの日以来お祖父ちゃんの後ろにあのヒトたちが見えなくなって、少し寂しく思っていた時もあったけれど、結果的にお祖父ちゃんの判断は正しかったのだ。

 もしかしたらお祖父ちゃんの自身も力があることで苦労をしてきたのかもしれない。

 それなのに俺ときたら軽はずみにご神木に触れて、お祖父ちゃんの親切心を台無しにしてしまった。


「ああ、マジでなにしてんだ俺……!」


 ぶつけようのない自分自身への怒りが募る。

 俺は乱暴に頭をかき乱すと、気持ちを紛らわせるように全力で走り出した。

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