第2話 記憶の先にあったもの

第三章 記憶の先にあったもの

 

 その日はなかなか寝付けなかったが、身体が疲れ切っていたのだろうか、睡魔は訪れ深い沼に沈み込んだ。すると、翌朝再び美嘉に記憶が蘇っていた。

 ひなびた駅の近くの店でラーメンを食べた後、二人は暗い夜道を歩いた。

「こんなところに本当に宿なんてあるの?」

 まさかこんなところまで連れて来られるとは思っていなかった美嘉が、前を歩く翔の背中に話しかける。

「大丈夫だよ。心配しないで。こういうところまで来ないと、秘境の醍醐味なんて味わえないだろう。もう少しだから我慢してついてきて」

「わかった」

 そこからさらに30分近く歩いたところに一台のランドクルーザー車がとまっていた。車の横で二人を待っていたのは、40代の色黒の男だった。確か名前を聞いたと思うが、思い出せない。二人を乗せた車は次第に山奥へ進んで行った。翔はなぜか助手席に乗ってしまったため、後ろ姿しか見えない。あの時、翔が自分と同じ後部座席に座らなかった理由は未だにわからない。車内に会話はない。程よい社内の暖房が、美嘉の緊張と不安を少し緩め、瞼がくっつきそうになった時に車が大きく右に傾いた。これはまずいと思った瞬間、激しい振動とともに目の前が真っ暗になり意識を失った。そうだ。自分たちは事故にあったのだ。ようやくすべてを思い出した。こうして自分は今ここにいるけど、じゃあ翔はどうしたのだろうか。翔は助手席に乗っていたのだ…。翔はもう…。涙が止めどなく流れ落ちる。自分は一人きりになってしまった。翔が迎えにきてくれることだけを心の拠り所としていた美嘉に、ジ・エンドの金が鳴った。運命のあまりの非情さに、美嘉は絶望の淵でただ立ち尽くすしかなかった。

 それからの日々をどう過ごしたか、はっきりとは覚えていない。目を閉じることが怖かった。今度目を覚ましたらもっと辛い記憶を呼び戻してしまう気がするからだった。だから、夜も昼もできるだけ寝ないようにした。しかしながら生身の人間である美嘉は、いつの間にか浅く短い眠りを繰り返していた。

 食事らしい食事もとらずに眠りと目覚めの境にある海を漂っていると、感情のバランスは崩れ、何が記憶の出来事で、何が夢で、何が幻想で、何が現実かわかならくなっていた。ささいなことが重い意味を持ち出し、これまで思い出した記憶もすべて不確かなものへと変容してしまっていた。まるで夢遊病者のようになりながら、それでもかろうじて生きていた。自ら命を絶つ気力や体力すらなかったからだ。いっその事このまま発狂できたらどれほどいいだろうか。いや、すでに自分は発狂しているのかもしれない。

 目の前の景色が膨れ上がり、水底のようにゆらゆらと揺れた。そして、突然美嘉によく似た女の子が二階の、あの子供部屋へひとりで向かう姿が見えた。それはまるで実際の記憶のように色鮮やかに浮かび上がる。その部屋にはもう一人の女の子が遊んでいた。誰なのかはわからないが、でも見たことがあるような顔でもあった。美嘉に似た子より少し小さいが、可愛い顔をしている。そして、この風景を上から俯瞰で見ている『私』がいるが、誰だかわからない。

 二人はおもちゃを使いながら、時々過不足のない笑顔を交わし合い仲良く遊んでいる。まるで姉妹のようだ。だが、何が気に食わなかったのか、小さいほうの女の子が突然美嘉に似た子におもちゃを投げつけ、激しく罵った。

 『私』はこの後、少し大きな子が小さな子の首に手を回すことを知っている。ああ止めてと、美嘉は心の中で叫ぶが、当然ながら子供の耳には届かない。案の定、少し大きな子は小さな子の首に手を回し、子供なのに恐ろしい力で思いっ切り締め上げた。小さな女の子は、可愛かった顔を歪める。目が飛び出る。鼻からは黄色い得体の知れぬものが流れ、口の中は真っ赤な血でいっぱいになる。女の子の顔はみるみる腫れあがり、この世の生き物とは思えぬおどろおどろしい顔となり、最後に地獄まで届くような恐ろしい獣のような声をあげた。

「ぎゃあー」

 悲鳴は閃光のように美嘉の意識を貫いた。だが、次の瞬間、美嘉の目がとらえたのは、自分のことを心配そうに見つめる翔のいつもと変わらぬ姿だった。あれほどの恐ろしい出来事が瞬時に美嘉の脳裏から離れた。

 ああ、やっぱり翔は生きていて私を助けにきてくれた。喜びと怒りと憎しみをいっしょくたに混ぜ合わせたような感情になる。だが、これが現実なのか、今の美嘉には確かめようがなかった。周りを見ると、ここが最初に目を覚ましたところと同じ場所であることがわかった。ただ、前にはなかったベッドを囲むカーテンや小机があり、見舞客用のパイプ椅子まであった。恐らくここは病院だ。翔の後ろに、白衣を着たあの老医師の姿が見える。だが、あの中年女の姿はない。部屋の中に立ち込める消毒液臭い匂いやさまざまなものの色や形や、翔から感じられる温もりのようなもので、どうやらここは現実世界だと判断する。

「翔、翔」

 と叫んで見る。でも、翔に反応はない。

「先生、何か言っているようですけど」

 自分の声が翔には聞こえないらしい。そのことがショックで、美嘉の目から自然に涙が滑り落ちた。

「精神的ショックで一時的に失語症になっているだけで、時間が経てば元に戻りますよ」 

 老医師の言葉を受けて翔が美嘉に話しかけた。だが、美嘉は翔が放ったその言葉にわが耳を疑った。

「みほ、よほど辛い思いをしたんだね。でも僕が迎えに来たからもう安心だよ」

 みほ?みほって誰? 美嘉は自分が聞き間違ったのかとさえ思った。やめて翔、私はみほじゃなくて美嘉よ。

「みほ、君は一週間寝たきりだった。ほんとに心配したんだぞ」

 今度ははっきりとみほと聞こえた。翔は私のことをみほと呼んだ。信じられないことが起きている。心の中が粟立つ。

 それに、翔は私が一週間、ここで寝ていたと言ったが、それは違う。私は三日間寝ていたが、その後、この地で異界に迷い込んだような不思議で怖い体験をしてきた。それはすべて夢の中の出来事だったというのだろうか? しかし美嘉は自分の肌感覚で、この数日の出来事が現実に起きたものであると確信していた。


 翔と医師に抱き抱えられるように身体を起こしてもらう。でも、美嘉は自分の身体が一週間も寝たきりだったとは思えないほど軽いことに気づいていた。

「そこに座ってて」

 そう言って、翔はロッカーへ向かう。そこには何も入っていないはずだ。そう思ったが、翔が開けた中には美嘉の私物が見える。

 病院の前に止められていたタクシーに乗り込む。老人の医師と、謎めいた笑顔を張り付けた二人の看護師に見送られる。二人は、あの時、自分を花壇の横で監視していた人物だった。タクシーはゆっくりと花壇の横を通り抜け、田畑にまっすぐ延びる道を進む。やがて、あの村境をあっさりと越えた。空は見たことのない澄んだ群青色を呈している。歩道沿いに植えられた木々は青々と陽を反射させている。川もくっきりと空を映し、音もなく流れている。ああ、私はあの魔界のような場所からやっと解放された。隣には今回のことで改めて大好きだと認識した翔がいてくれる。安心感と、加減のない幸福感に満たされる。

 さらに30分ほど走ったところで、翔が道を曲がるよう運転手に指示した。声の出ない美嘉には理由を聞くこともできない。やがて車は寺の駐車場で止まった。車から降り、翔について境内へ入る。翔は何も言わずまっすぐに進み、ある墓の前で止まった。そこには辰巳家の墓が二基あった。そのうちの小さな単独墓が気になり、墓石に刻まれた文字を見ると、辰巳美穂・享年4歳となっていた。『美穂』、思わず美嘉は心の中で叫んでいた。胸が絞られるような気分になる。突然自分につけられた名前と同じ…。

「これが妹のお墓だよ。偶然、君と同じ名前なんだ。しかも、文字までまったく同じ。こんなことがあるんだね」

 そもそも翔に妹がいたなんて今まで一度も聞いたことがなかった。

「美穂は側溝に沈んでいるのを発見された。顔が異常に膨らんでいて醜い顔になっていた」

 胸の奥に水滴が落ちる。そんな話を今なぜ私に聞かせるの? 美嘉が声を出せないのを知っていて、一方的に話し続ける翔に疑念を持つ。

「結局、死因を特定できなかった。かわいそうに。ちょうど今日が美穂の命日なんだ。だから、君と一緒にお参りしたかったんだよ」

 そう言って、美嘉の背中に手を置く翔。その手の熱さが怖い。翔に促された美嘉は、やむを得ず墓の前で手を合わす。その背中に翔の声がのしかかってきた。

「美穂はねえ、近所に住んでいたみかって言う子と仲がよかったんだ。美穂が亡くなってすぐにどこかへ引っ越したみたいだけど、あの子、今どこで何をしてるんだろうね」

 みかって言った? あの女の子は翔の妹で、その子を私が殺したとでもいうの? みかって言ったって、美香もいれば、美佳もいれば、実花もいるし、ミカだっている。さっき自分が目を覚ます前に見たのは、ただの夢か幻のはず、でしょう。再び闇を覗いてしまったような恐ろしさが訪れるが、私が怖がらなければならない理由なんてないと、無理矢理自分に言い聞かす。


第四章 書き換えられた記憶の中での幸せは

  

 東京に戻った美嘉は、もともと住んでいたマンションではなく、翔の部屋で過ごしていた。そのほうが、翔がまだ不完全な美嘉の世話をしやすいからと諭されたからだが、美嘉は納得していたわけではない。美嘉が自分の住んでいたマンションに戻れば、自分が『美穂』ではなく、美嘉だということに気づくことを恐れたのではないか。そんな思いがあったから、美嘉は買い物に出かけるふりをして、自宅マンションに戻った。しかし、郵便受けの中に入っていたいくつかのダイレクトメールの宛名はどれも谷村美穂と印字されていた。部屋の中も確認したが、そこには『美穂』を示すものしかなかった。自分が少しずつ死んでいくような感覚に陥る。

 そうした中で、美嘉はずっと違和感を抱えたまま、とりあえず美穂として暮らしていた。頭の中が白くもやがかかったようになることもあったが、徐々に言葉も取り戻してきたことで、自分なりにいろんなことを試してもみた。翔が会社に出かけた後に、携帯で田舎に住む兄や両親に電話しようとしたが、なぜか電話帖から家族の情報が消えていた。鼻の奥がかすかに熱くなる。だが、大学時代の友人の名は発見できたので、電話してみる。

「ああ、みほ、どうしたの? 何回も連絡したけど繋がらなかったし、会社に電話したら辞めたって言われたし…」

 友達にも『みほ』と言われ、会社を辞めたと言われた。しかし、美嘉には会社を辞めた記憶はなかった。やはり何かがおかしい。ここも安住できる場所ではない。だから逃げたい。逃げなければと思う。逃れたはずの深淵へ再び戻ることへの恐怖もあった。しかし、一方で美嘉は今でも翔のことが好きだった。愛していた。今の翔を信じ切ることはできそうもなかったけれど、信じたい、信じることでしか希望を持つことができない。未来を感じることができない。今起きていることは何かの間違いで、きっと近いうちに前のような平穏で案外退屈な日々が戻る。きっと、きっと。万、万が一、書き換えられた記憶の中の世界であったとしても、幸せならそれでいいと覚悟を決める。

 翔は以前にも増して優しかった。だが、嫌いだったはずの納豆をおいしそうに食べていたり、自分の記憶では野球が好きだったはずなのに、サッカーのテレビ中継を見て興奮している姿を見てしまうと、若干の不安を感じることはあったが…。

 それでも生活は次第に『普段』に戻っていた。東京に戻ってから二週間が経ち、以前から予定していた引っ越しをすることになった。将来の結婚を見据えて、新居で同棲生活をするのだ。社会的な関係づくりに関してはまだ十分できない美嘉に代わって翔が転居先マンションを決めてきた。美嘉がもともと住んでいた部屋の荷物などの移動の手配も翔がしてくれた。

 11月20日、引っ越しは無事完了した。

 ある程度の荷物の整理はしたが、まだ山積みのダンボールの間でインスタントラーメンを食べる。こんなたわいもないことが幸せに感じられる。本格的な片づけは翌日からにして、その日はぐっすりと寝た。この頃には日によって気持ちのグラデーションはあったけど、美嘉、いや美穂の気持ちもだいぶ落ち着いていた。それから二日間かけて、部屋はようやく部屋らしくなった。そんな日曜日の夕方。

「ねえ、翔」

「何?」

 翔はサッカーのテレビ中継を見ている。それでも、いつもと変わらぬ優しい笑顔をこちらに向ける。

「ひとつだけ訊いていい?」

「どうした? もちろん何でも聞いていいよ」

「あの旅行、何であの場所を選んだの?」

「ん?」

 翔は慌ててテレビを消し、怪訝そうな表情を見せた後、続けた。

「今頃どうしたの?。しかし、本気で言ってる? 僕の妹が眠る場所へ連れていってて言ったのは君のほうだよ。途中、道を間違えちゃったけどね」

「そうだったっけ」

 翔に動揺を悟られないよう、なるべく軽い口調で言う。また記憶の迷路に迷い込みそうなので、これ以上何も訊かない。今の今の事実だけを信じて生きると決めたではないか。翔は何事もなかったかのように、再びテレビをつけサッカーを見ている。

「あっ、美穂」

 今度は翔が、突然、何かを思い出したように大きな声をあげた。

「えっ、何?」

 『美穂』と呼ばれることに未だに慣れていない美嘉は、一拍返事が遅れることがある。そろそろもう慣れなくてはと思う。

「両隣の人に引っ越しの挨拶をしてきてくれる。挨拶があまり遅くなるとおかしいでしょう。これからしょっちゅう顔を合わせることになるのは君だから。それから、他の部屋の人はみんな単身者で日中はほとんど留守にしているので挨拶はいらないらしいよ」

 引っ越してきてからすでに二日経っているので翔の言ってることは正しい。

「わかった。じゃあ行ってくる」

廊下に出た美嘉は、まずは右隣の部屋のドアホーンを押す。中から20代後半とみられる女性が現れた。

「あっ、突然すみません。二日前に隣に引っ越してきた辰巳と言います。いろいろとお世話になるかと思いますので、よろしくお願いします」

「わざわざご丁寧にありがとうございます。防犯上のこともあるので表札などは出してませんけど、うちは田中です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 にこやかで感じのいい人で、安心した。次に左隣の部屋に向かう。こちらの部屋にも当然のように表札はない。同じようにドアホーンを押すと、中から少し低い女性の声が聞こえた。しばらく待っているとドアが開き、その人物が現れたが、あまりの衝撃に美嘉は思わず立ち竦んだ。そこにいたのは、あの中年女だった。

「何か御用ですか?」

 美嘉は何も言えず、思わず後ずさりして何かにぶつかった。後ろを振り向くと、そこには翔が立っていた。

「僕のお母さんだよ。ちゃんと挨拶してくれないと困るよ」

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日常の裂け目 シュート @shuzou

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